気がつけば檻のなか
背中の痛みに耐えかねて、目を開ける。入江冬磨が最初に見たのは、さびの浮いた鉄の棒だった。
状況が飲み込めないまま、首を少し動かし、視線を上へと向ける。
上から右、それから身体を起こし、ぐるりと背後をまわって元の位置へ。
そこで理解した。
自分が頑丈な鉄製の檻に閉じ込められていることを。さらにはその檻は馬車の荷台に載せられ、どうやら、これからどこかへ運ばれるらしいことを。
「なあ兄貴、こいつ本当に前歯を抜いちまわなくていいのか。抜いた方が高く売れるって《翠玉楼》の女将が」
「あんなクソババアの言うことなんか、真に受けるんじゃねえ。傷物をいやがる買い手も多い。
久しぶりの掘り出し物だ。青い目の東方人なんざ、早々お目にかかれねえ」
鉄格子のすぐ外で男が二人、話している。一人は中年、もう一人はもう少し若い。体格と顔立ちは欧米人だが、聞こえる話は明らかに日本語だ。
二人ともくたびれたジャケットに形の崩れた帽子をかぶっている。
中年の方はジャケットの下に黒いベストを着込んでいて、懐中時計をぶら下げていた。下半身は馬車の柵で見えない。
「おっ、あいつ気がついたみたいだぜ」
若い方が鉄格子にかがんで顔を寄せ、なかば呆けた表情の冬磨に笑って見せた。
おそらく生まれて歯を磨いたことなどないのだろう。前歯はひどくくすんでいて、歯並びも悪い。
「運が良かったなあ、坊主……って言葉が分からないんじゃ、しょうがねえか」
「そろそろ行くぞ、仲介人を待たせるとまずい」
「ああ、兄貴、置いてかないで」
鉄格子の向こう、ほこりっぽい乾いた道を歩いた二人が、古びた建物の中へと消える。
看板には見たことのない文字が刻まれていたが、その下にあるワイングラスの絵からどうやら酒場らしい。
(これって、夢……だよな……?)
麻痺した頭でぼんやり考えた。
鉄格子の向こうで行き交う人々の格好は、むかし観たドラマ『シャーロック・ホームズの冒険』そのものだ。
しかも。
彼・彼女たちの顔つきや服装から、どうもあまり治安のよろしくない場所らしい。
空気も乾いてほこりっぽく、ときおり、風にのってなにかが腐ったようないやな匂いがした。
顔をしかめながら思い出す。
朝の通学バスでいつものように寝ていたことを。その朝は、四年生(冬磨が通うのは中高一貫の男子校なのでこう呼ばれる)になって初めての登校日だった。
着ていたはずの制服は、薄くぺらぺらの寝間着に替わっていた。形は父親が入院していたときに着ていたものにそっくりだ。
もともとは白かったのだろうが、ずいぶん垢じみて、袖のところは真っ黒になっている。
(いや、これがもし夢じゃなかったら……)
突拍子もない現実をのみ込みかけて、みぞおちを冷たい手でぎゅっとつかまれた。男たちが口にした《傷物を嫌がる買い手》、《久しぶりの掘り出し物》という言葉が、禍々しく冬磨にのしかかってくる。
これはどこをどう考えても、これから何処かへ売り飛ばされるということではないか。
(やばい……はやく逃げないと……)
立ち上がりかけたその時、
「お前、ねえ……そこのお前よ」
背後から涼やかな声がした。
「こっちを向きなさい」
* * *
鉄格子を覗き込む少女と目が合った。
年の頃は同じくらいか少し上。着ているドレスから、上流階級の人間らしい。濃い青色のドレスは柔らかな光沢があり、いかにも高価そうだ。
しかしなにより。
彼女の美しさに息をのみ、一瞬、自分がどこにいるのかも忘れてしまった。
冬磨を見据えるすみれ色の瞳。抜けるような白い肌が、ドレスの青に映えている。揃いの帽子からはみ出した長い髪は銀色で、胸の辺りで緩やかな曲線を描いていた。
あまりにも整いすぎている。好奇心に輝く目がなかったら、人形と勘違いしたかもしれない。
「もっとこっちに来なさい。早く」
命令することに慣れている。言われるがまま、にじり寄ると、目をのぞき込まれた。形の良い瞳が満足げに細められる。一方冬磨の方は
(はー、いい匂い)
そんな場違いなことを考えた。
香水なのだろうか、漂ってくる甘い匂いは花束みたいだ。中高一貫の男子校に通っているせいで、女の子とここまで接近したのは久しぶりである。
「きれいな目ね。知ってるわよ、青い目の東方人は高値で取引されるって。ねえ、売られるってどんな気持ち?」
青い目?
そういえばさっきの男たちも言っていた。
青い目の東方人なんざ、早々お目にかかれねえからな――と。
何も言えず、ただ少女を見つめると、相手は言葉が分からないと思ったらしい。つまらなそうな表情で
「言葉が分からないんじゃ、仕方ないわね。でもお前」
いきなり鉄格子のすきまに鼻先を入れ、冬磨の首元の匂いをかぎ始める。スンスンと鼻を鳴らしたあと、満足したのか身体を引いて言った。
「東方人は魚臭いって聞いたけど、お前は違うのね。ちょっと汗臭いけど悪くないわ」
そう言われて、顔から火が出るほど恥ずかしかった。女の子に体臭のことを言われたのは初めてだ。
けなされたわけでもないのに、穴があったら入りたい気分になる。
「お嬢さま!」
いつのまにか少女の手を老女が掴んでいた。身なりからどうやらお付きの侍女のようだ。
「こんなところにいらしたのですね。探したのですよ、勝手に出て行ってしまって。一人でいらして万が一、誘拐でもされたりしたら……」
「もう戻るわ。気になるものも見られたし」
「東方人の奴隷に近づくなんて……。旦那さまが知ったらなんて仰られるか」
「お前が黙っていればいいことでしょ、ほら行くわよ。あちこちから変な匂いがするし、あまり長居したくないわ」
去り際に老女が冬磨を一瞥する。蔑みと哀れみの混ざった表情に、一気に現実に引き戻された。それまでの浮ついた気分が覚めて、非情な現実がのしかかってくる。
(なんとかしないと……)
このままだと、良くない店に売り飛ばされて、悲惨な目にあうのは明らかだった。
勢いをつけて立ち上がる。
膝がきしんで強い痛みを覚えたが、かまわずに扉にすがりついて、なんとか開こうと力を込めた。
びくともしなかった。
扉は鎖で結ばれ、象が踏んでも壊れなさそうな錠前がついている。なんどか揺すってみたが、不快な金属音をひびかせるだけで徒労に終わった。
まずい。これは非常にまずい。
まずいまずいまずいまずいまずい。あの二人が戻ってきてしまったら……。
「じゃあ行くかあ兄貴。手綱は俺に任せておけよ」
ってもう戻ってきたんじゃねーかっ!
「ふん、お前は酔っ払いすぎだ」
「いいからいいから。信じられねえよなあ。俺が《マダム・アリッサ》のオークションに参加できるなんて」
「貴族連中がお忍びで参加するって話だ。こいつもどこかの伯爵さまのコレクションになるだろうさ」
「こりゃあ俺たちにも、ようやく運が向いてきたってことだよな」
若い方が檻の方へ歩いて、冬磨を舐めるような視線をはわせる。にやりと笑って
「売り物じゃなけりゃなあ、一回は試してみたかったぜ」
手をひらひらと動かす。
嫌悪感をあらわにした冬磨にかまわず、男はにやついたまま去っていった。
やがて馬車が動き始め、狭い路地をゆっくりと進んでいく。
馬車のほかに、ひと一人が通れるほどの道幅。それ故に、すれ違う人がみな冬磨を物珍しげに眺めた。
汚れたエプロンをつけた若い女、ヒゲを延ばし放題の酔っ払い、肩から背中に大きな袋を担いだ目つきの悪い男。
彼らにとって奴隷売買というものは珍しいものではなく、ごくごく当たり前のことなのだろう。冬磨を眺める視線は、売りに出される牛や馬を見るそれだった。
(だめだ……これじゃ……)
助けを求めて叫んだとしても、反応はなさそうだ。冬磨はへたり込み、頭を抱えた。
まさに袋のネズミである。
オークションがどうのとか言っていたから、どこかで競りにかけられるのだろう。しかもあの男の口ぶりから、かなりいかがわしい類いのものであることは疑いようがない。
冗談じゃない、こんな知らない世界で貞操を脅かされてたまるものか。
(せめてこの鍵を壊さなきゃ、だけど、どうやって)
やがて馬車は大きな通りへと出た。突如、馬がいななき、馬車ががくんと揺れる。
「お、おおい!?」
男が叫ぶのと馬車のスピードが上がったのが同時だった。
「おい、なにしてる馬鹿野郎!」
「きゅ、急に馬が暴走しちまって」
「前を見ろ、ぶつかるぞ!」
前方から男たちの怒鳴り声が聞こえる。馬車が右へ左へと蛇行しながら走るなか、冬磨は鉄格子にしっかりと捕まり、事の成り行きを見守るしかなかった。
暴走する馬車に向かってたくさんの人が怒鳴っている。車輪が軋みをあげ、檻をのせている荷台がミシミシと不吉な音を立てた。
(おい、もしかして壊れたりしないよな)
そんな心配を余所に、馬車はいっこうにスピードを落とす気配がない。
いつのまにか馬車の走る道が石畳へと変わり、周囲の建物もより高く立派になっていく。あっけにとられる人々の格好も、さっきとは違って清潔感があり、どこか小洒落ていた。
「広場だ! 広場へ向かえ!」
年配の男が若い方に向かって怒鳴る。
「次の道を左だ! いいから手綱を渡せ!」
そのときだ。悲鳴をあげていた車輪が派手な音を立てた。車軸を失った輪が外れると同時に荷台が大きく傾ぐ。
冬磨の身体がふわりと浮いた――かと思うと、檻と一緒に道へと転がり落ちていった。
背中に強い衝撃がはしる。
一瞬気を失って、再び目を開けたときには、すぐそこに大きく開いた鉄の扉が見えた。