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ピークォドの箱庭  作者: 虚咲小夜
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生存と選択

 座席の上に置いてある杖が忙しなく前後に動いている。バスの揺れは激しく、とても国道を走るバスとは思えない速度だった。こんな速度ではいずれ警察に捕まるんじゃないか、と私はぼんやりと考えていた。

「おーおー、お疲れッスね」

 手に湿布を持ってきた車掌が眼前でしゃがむ。銀色のまつ毛と白い肌の中にピッタリ納まっている金色の目が随分と印象的で、まるでいつか見た冒険映画の中の、祭壇にはめ込む宝玉のようだな、と思わず見蕩れてしまう。そんな様子を見て彼はその端正な顔を少し歪めると、少し乱暴に私の左腕を捕る。走る痛みに思わず声が漏れる。

「ボーっとしてるのが悪いッスよ。疲れてんのは分かりますけど」

 白手袋をした手で器用に湿布のフィルムを剥がしていく。ちらりと隣の座席を見れば、あの怪物の手当が終わっていて、長く何も考えずにぼうっとしていたことを物語っている。しかし、眠りから覚めたばかりの思考が上手く出来ない頭のようなふわふわした感覚が、未だに私を宙吊りにしているようだった。

「ちょっとヒンヤリするッスよ」

 そんな車掌の言葉が聞こえた気がして、はっ、と思った時には腕から痛みとは違ったゾワゾワとした感覚と、その数秒後に冷たい水をかけられたような張り詰めた感覚が襲ってきて、また私は短く声を漏らした。

「はいお終い。忠告したのに驚くとか、どんだけッスか」

「すみません……」

「いや、別にいいッスけど」

 そう言って少年のような見た目相応の笑顔を見せる車掌の顔に、起きた事実を突きつけられる。私は思わず下を向いた。何も分からないまま走って、走って、走って。そうしておそらくもう二度と戻ることができない所まで来てしまった。ただ平凡に過ごしていた一介の女子高生である私には、この仕組まれたような理不尽を受け入れることは出来そうになかった。身寄りがいない私を狙ったのか? ただ単純に偶然遭遇したのが私だったのか? なんで私なんだ? 私じゃなくてもよかったじゃないか。なんで、なんで、なんで私から日常を奪うんだ。バスにしては珍しいフローリング式の床に爪を立てる。唇からは血の味がした。

 車掌は一向に立ち上がる気配を見せなかった。ただじっとあの独特な目で私を見つめていることだけが分かって、刺さる視線に目を逸らすように固く目を瞑った。

「……なんで自分が、って顔ッスね」

 車掌の声がした。

「いや、とんでもないことをしてしまった、って顔ッスかね?」

 続く。

「何にせよ、自分に降りかかる理不尽に怒りを抱えている顔してるッス」

 爪が掌の中へ収まる。微弱な指先の痛みがやがて掌から全身へと伝わる肉体的な痛みへと変貌していく。

「それでも、その理不尽を受け入れたのは紛れもない真実ッスよ」

「は……?」

 私は呆気に取られてしまった。痛みが引いていく感覚すら二の次にしてしまえるほどの言葉に、私は目を見開いた。揺れるバスが信号で停車する。

「だってそうじゃないッスか。あの時、家に倒れているコイツを置き去っていくことだって出来たはず。自分だけが助かればいい、って。コイツをあの骸の餌にしてしまおうって」

「それは──」

「それでもそうしなかったのは、他でもない。あんた自身の決めたことッス。あんたが、自分のその小さな脳で、身体で、あんた自身を構成する全てのもので、『コイツと逃げる』と決めたんスよ」

 バスがまた激しく揺れる。よろける私を支える車掌の手は手袋越しでも温かかった。その温かさも他所に、私の思考を穿つ銃弾のようなその言葉は、さっきまでの私の思考の中で確かな重みとして残る。その一分にも満たない時間の中で発せられた言葉の弾は、一生分の言葉のような鉛のような重みを持ち、留まった先でズシッ、とのしかかる。

「言葉は凶器であり、その言葉を扱う私たちのような小説家は時として扇動者となり、他者に影響を及ぼす。想いは言葉に、感情は表現に姿を変える。だから自覚しなければならない。言葉は人を変える力がある、と。扱うには知識がいる、と。そして、想いは人を動かす超常的な力がある、と」

 かつて弟子入りした直後に師匠が言った言葉を思い出す。忘れかけていたその言葉は、途端に色を取り戻し、荒んでいた自分の思考を上書きしていく。

 私が選び、私が実行した。紛れもないその真実は理不尽と偶然の渦の中で私が生み出したものだ。今更変えようもない真実は、さらなる偶然を呼び寄せて、今こうして二人とも無事でいる。

 最善であったかは分からない。師匠の家に行かなかったあの時の本能的な何かも説明の仕様がない。それでも──。

 顔を上げると車掌と目が合う。金色の左目が優しく細められているようで、その表情に視界が濡れ、嗚咽が漏れる。

「げっ!? なんで泣くんスか!? 勘弁してくださいッスよ!」

 滲む視界の中で車掌の顔が分かりやすく青ざめているのが見えた。それでも、慌てながらも優しく頭を撫でる手袋越しの温かさは変わらなかった。


 相変わらず揺れる車内でやっと座席に座った。あの怪物は一番後ろの席だが、私は話を聞くためにも車掌の定位置である運転席近くの最前席に座った。手渡されたラベルレスのペットボトルがなんだかやけに懐かしく、思わず鼻を啜る。

「それにしても、マジで間一髪だったッスね。アイツに呼び鈴持たせたのは正しかったようで」

 やれやれと目の前で大袈裟なジェスチャーをする車掌の名前はラワンセウと言うらしい。どう考えても私の地区の生まれではない名前だったが、特別警戒するものでもなかった。

 この要塞国家では人種の違いは珍しいものではない。地上から逃げてきた人々からしたらそんな極限状態の中で、肌の色の違いだの国の違いなどは考える余地もなかったのだ。それまでは随分とその軋轢は深刻なもののようだったが、私の中ではそれは歴史の教科書の中での話だ。

 なので、この車掌──ラワンセウの見た目とその名前には疑問視するものがない。白が少し強い銀髪に、マネキンみたいな白い肌。金色の瞳は右側が前髪で隠れていて見えないものの、おそらく露わになっている左目と同じ猫のような細い瞳孔を持つ満月のような目なのだろう。黒い車掌服が色素の薄い体の神秘性を強調している。その見た目の冷たさと、彼の持つ人間性のアンバランスさが不思議と人の警戒心を解くもののように感じて、車掌という職種はうってつけだな、とすら思える。

「それにしてもアイツも数奇な人生ッスね、まったく」

「なあ、あの怪物……のような少年は一体なんなんだ? 逃げるのに無我夢中でろくに正体も知らないままここまで来たけど……。殺されたりしないよな?」

「逆にあんなひ弱な、しかも死にかけの怪物が、人一人殺せる余力を残してると思います?」

「愚問だった」

 ラワンセウは苦笑を零した。その苦笑にからかいと、どこか諦めのようなものが含まれていて、私は眉を下げた。

「なあ、あの怪物の少年は何者なんだ? なぜウチに倒れていたんだ?」

 なにか話題を変えようと思い、ずっと痼のように残っていた疑問を投げかける。

 少年の正体。人間の形、しかし決定的に違う特徴を持つその容姿に少なからず恐怖を抱いているのは紛れもない事実だ。それは出会った当初もそうだが、今も変わらない。人に危害を加えるのが「怪物」であると教わってきたのなら当然なのだ。一般人ならば「怪物」に恐怖を抱くことは至極自然なことであり、私も例に漏れない。

「詳しいことは知らないッスよ」

 ラワンセウは少し声を落として答えた。

「俺が知っているのは、少なくともアイツはヘクセンナハトから紅陽に来たという事だけッス。おそらくヘクセンナハト出身だとは思うッスけど」

「ヘクセンナハト……魔葬地区の……?」

 私は思わず聞き返した。ヘクセンナハトから来たということは相当の距離を移動してきているはずだ。

 この要塞国家は六つの地区から成り立っているが、この紅陽と接している地区は黄とメインなのだ。円形状に形成されているこの要塞国家において紅陽とヘクセンナハトは対局に位置しているため、移動が最も困難な地区間であるはず。たとえこの越境バスを利用したとしても一日、二日でたどり着けるような距離ではないのだ。

「魔葬……そういえば紅陽の人達はヘクセンナハトのことをそう呼ぶんスよね。さすが創作の地区。適した表現をするもんス」

「お世辞として受け取っておく」

「別に世辞ではないッスけど……」

 なんでそんなに捻くれてんスかね、とぼやくラワンセウの言葉を耳から耳へ聞き流しつつ、あの怪物について考える。

 もしもヘクセンナハトの出身者ならば、越境バスに乗るまでの間、相当な迫害にあったはずなのだ。凶悪な怪物ならまだしも、こんな今にも消えてしまいそうな儚さを持つ怪物であったら、魔女を恐れるヘクセンナハトの住民でも簡単に排除しようと動くだろう。地区として成立し、この要塞国家の構成地区である以上、怪物の排除はどの地区でも一貫して取り組んでいることだ。ヘクセンナハトも例外じゃない。だからこの怪物が本当にヘクセンナハトから来たというのならば、この怪物の生命力にただただ驚くばかりだ。

「それにしてもアイツ、すごいッスよね。あの炎と死体の山の中をひたすら走って、怒号がすぐそこまで迫ってきているのを背中に感じながらヘクセンナハトとロンディニウムの国境沿いまで逃げてきてたんスよ」

「な……! ヘクセンナハトは地区でも相当広かったはずだ! その国境沿いなんて……」

「俺もびっくりしたッスよ。ロンディニウムからバスを走らせていたもんで……。まさかあんなに早く見つかるなんて。一二〇キロほどしか走らせてないんスよ」

「……」

「死臭がこびりついていたッス。おそらく逃げるためにやむを得ず死体の山に隠れていたりもしたんでしょうよ。俺自身もヘクセンナハトに行くのは気が乗らないッス。ただ、アイツの鳴らしたベルはどうも……」

 ラワンセウはそこで口を噤んでしまった。満月が後部座席をじっと見つめている。私は荒々しい運転のバスの中でまるで時間が止まったような錯覚に疑問を覚えた。一体どうしたというのだろう。私はゆっくりと後ろを振り向いた。そうして目を見開いた。そこには――。


 眠たげな、翡翠の眼を持った金色の少年がそこにいた。

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