下
ケブロンが自室の花を切り揃えていた。
「ふむ。少しここが枯れてるか」
明朝。まだ外は薄暗かった。
扉をノックする音が聞こえる。返事を待たずして扉は開いた。
「おはようございます。ケブロン様。もうそろそろお時間ですよ」
ギーノがケブロンに“いつもの用事”を催促に来たのだ。
「ああ、今行こうとしていたところだ」
「ほんの一時間程しか滞在出来ないのですから、しっかりと準備を整え、遅れないようにしてくださいよ」
「わかっている」
ケブロンは城を出る準備をした。
あれから十七年が経った。
ケブロンはいつも朝は七時まで寝ていることになっている。だが実際は四時前に起床し、裏口を使い馬を全力で走らせ、片道一時間でミーノックの元へ向かっていた。
ヒューに会うためだ。二十年もの間、ただ顔を合わせるという理由もあったが、己が伝えられる知識・経験を余すことなく伝えた。もちろん毎日欠かさずというわけにはいかなかったが、それでも極力会いに行くよう努めた。勤勉で好奇心旺盛なヒューにはそれが一番の喜びだと知っていたから。
馬の駆けてくる音が聞こえると、ヒューは読んでいた本を置き、すぐに外へと出た。
「やれやれ、いつもいつも飽きんものじゃ」ミーノックは嬉しそうに作業の続きを始めた。
ヒューがすぐに出てくるのが見えた。ケブロンは馬の足を止める。
「いやはや、今日は少し飛ばし過ぎたかな?」
ヒューは両手を振り、そんなことないよ、と身振り手振りで伝える。
いつも通り体を動かす稽古から始める2人。ケブロンは国でも剣の腕を高く評価されており、ヒューに護身の為にもと剣術を教えていた。
ミーノック特製の木剣で打ち合う。ヒューの猛攻をケブロンが後手に回り、受けている形だ。後ろではミーノックも顔を出し、玄関先から遠巻きに様子を窺っている。
「おーい、少し押されてるんじゃないか〜?」
(た、確かに……。もう、後五年もすれば私を超えるであろうこともわかる……)
上達も早く、飲み込みも良かったヒュー。
「ならばこちらも本気で行くぞ!」
ケブロンが強い踏み込みで一気に距離を詰め、振り下ろしをする。
(もらった!)
するとヒューは体を半身にし、ケブロンの剣を滑らせるようにして受ける。そのまま受け流し、ケブロンの首元に剣先を持ってくる。
「な……」
「ほほう。こりゃ一本じゃな」ミーノックもたまらず感心する。
ヒューがケブロンから一本を取るのはこれが初めてのことであった。両手を上げ跳ねて喜ぶ。
「これは五年などと悠長なことは言ってられんな…」
城へ戻ったケブロン。背後の柱の影からはバロンが目を光らせていた。
「テレサ、大事はないか?」
「大丈夫よ、お父様。心配性なんだから」
王妃であるペルコを病で亡くし、親族はハリーだけとなっていた。他はレベッカやケブロンといった城の皆が家族のような存在であったのだ。
「昨今は物騒な事件ばかりだ。優しいお前のことだ、民を案じるあまり、疲弊していないかと思ってな」
テレサは過保護な父の姿に笑ってみせる。
「何かあればすぐに申すのであるぞ」
「……」
テレサは少し思い詰めた表情を見せる。
「なら、お兄様のことを……」
ハリーが眉間に皺しわを寄せる。
「お前に兄などいない! 何度もそう言った筈だ。」
執拗に兄の存在を隠す父に疑問を覚える。
「もう分かっているんです! なぜそう何年も意固地になって隠すのです!? それに、亡くなられたならまだしも、まだご存命と聞きます」
「どこからそんな情報を……。はあ。とにかく、そんなことは一刻も早く忘れなさい。今、私は忙しいのだ。悩みの種を増やすでない」
テレサはむっとした。部屋の外からハリーを呼ぶ声が聞こえる。
「陛下」
「む。せっかくの親子の時間を……テレサ、体を冷やすでないぞ」
「わかっています」
そう言ってハリーは部屋を出た。
「テレサ様。どうかお父上のことを許して差し上げて下さい」
レベッカはそう優しく諭した。テレサもハリーの心中を分かっていないわけではなく、歯痒い想いをやきもきしていた。
「どうした」
「今日は予定通りならヒューが二十を迎える頃合いです。やつもほぼ毎日、よく飽きないものです」
「良い。ケブロンの勝手だ。こちらに影響を及ぼしさえしなければ、咎めはせん」
二人の密会はバロンが監視としてハリーへと報告するという形で静観されていた。
「して、例の異形の件は?」
「はい。調査に送ったガンタベーゾの戦死が報告されました」
ハリーが驚いた様子を見せる。
「何だと…!?」
「やつはうちでも五指に入る腕利きなのですが……。やはりあの鬼のような牛のような怪物は人の手に負えるものでは無いのかもしれません」
王国を脅かす影があった。
半年ほど前から民の失踪事件が相次いだ。以前はそれほど気に留めてはいなかったが、数を増すにつれて事態は深刻に捉えられるようになっていった。そして約三か月前にその怪物は姿を現した。怪物は自らをここの新しい王にしろと要求してきた。
すなわち、その怪物は人語を解したのだ。
ヒューはミーノックへ毎日書き留めてある手記を見せ、同時に別の紙に『二十になったから少しまとめたんだ。どうかな?』と書いてみせた。
「うむ。筆談も随分上達したものだ。……初めはお前の姿に驚き、さぞ生き辛いだろうと同情したものだが、お前はそれを難なく乗り越えてみせた。脱帽するわい」
ヒューは全身で喜びを体現する。ミーノックは少し考えた様子をみせてから、一呼吸おいて話し出す。
「儂も昔は色々と試行錯誤を続け、研鑽を積んだものだ。戦いを研究するのはもちろん、生命の理に触れもした。だが、終わりを遅めることは出来ても、不老や不死というのは中々に難しいらしい。こう見えても、徐々に肉体は死へと向かっている。それを日々実感するよ」
ヒューは横槍を入れることなく静かに聞いている。
「ヒューや。儂にも師がいてな。この世界で、たった一人の魔法使いであった。儂よりも遥かに現実離れしており、それこそ、火を起こし、風を吹かせ、雷を落とした。嵐をも呼びかねんほどさ。……聡明な方だった。儂はお前に魔法を見せはせど、教えたことはなかったな。あれは才能があったとて、何十年と時間を要する。それより、剣じゃ。お前には剣の才覚がある。今までもそう思っておったが今日初めて一本を取るお前を見て確信した。ケブロンは国で一番の剣士じゃ。もう国でお前に敵う剣士はそうはおらんじゃろう」
ヒューは自らの掌を見る。
「ケブロンはもう年じゃ。体力も劣っておる。……実は国で今。問題があってな。ある“魔物”、いや、“魔獣”がバレリアイに現れた」
初めて聞く単語の羅列。頭にはてなを浮かび上がらせ不思議な様子のヒュー。
「それは”暴魔牛”と言ってな。見た目は二足歩行の猛牛、特徴を簡単に言うなら象よりも大きく熊よりも凶暴な生き物だ。普段は雑食で山の動物や草木を食べているが、此奴は十年に一度、興と称して人を食べに人里を訪れる。今年がその活動周期だ。前回は隣国のイーセンが被害を被った。ここいらは魔物の少ない大陸なのだがな」
想像だにしない話だった。魔獣? そんなもの見たことない。動物だって知識だけでろくに見たことがなかったのに。馬や鹿、兎に猪などがせいぜいのものだ。
「そこでお前にはバレリアイ城下に降りて欲しい。儂はもう山を降りる体力は残っておらん。ケブロンも暴魔牛を退けられるかは分からん。一人でも戦力が欲しいところだろう」
ヒューは急いで紙を用意し、純粋な疑問を書き連ねる。
「! 『どうして国に追い出されたのに、国を守ろうとするの?』か……」
ミーノックは微笑み、そしてヒューの目を見てゆっくりと優しく、穏やかに語りかけた。
「お前は優しい子だ。草木を愛で、尊ぶ心を持ち合わせている。言葉を使わないお前だからかもしれんが、万物に敬意を払うその精神はとても大切なものだ。……ただの施しだよ。わしは怨恨など下らんものには興味が無いからな」
ミーノック、ケブロンという人格者に育てられたからこそ今の自分がある。ヒューはそれが身に染みて理解出来ていた。
そうと分かれば。近くに立てかけてある木剣を手に取るヒュー。
「待て待て。そんなものでは行かせんぞ」ミーノックがヒューを裏の倉庫に呼び寄せる。
そこにはたくさんの武器が揃っており、まさに武器庫といった風になっていた。奥に人一人分の大きさの何かが布に覆い隠されている。
「完成まで一ヶ月ほどかかったが、間に合って良かったわい」
ミーノックが布を剥ぎ取ると、そこには厳かな一式の甲冑が屹立していた。
「“ブリックホッグ製”じゃ。オーダーメイドしか作らない、故に世界で唯一の鎧。武具防具を作らせて”奴等”の右に出るものはいない」
ヒューは奴等という言葉に引っかかる。ミーノックが様子を察し、説明を補足する。
「ん? ああ、ブリックホッグというのは屋号や雅号のようなものでな。完全世襲制というよりはその“資格”を得た者はブリックホッグを名乗る権利を得るという。この世界のあちこちに存在するらしい。儂も数人にしか会ったことは無いがな」
マントを帯びた甲冑、そして剣。仰々しさを感じつつもその圧巻の仕上がりは素人のヒューにも伝わった。肌の隅々が震えるようだった。
「……!」
突然、ミーノックの顔が険しくなる。
「ヒュー! ついて来い!」
ミーノックはすぐに家へ戻る。部屋の棚の中から何かを探しているようだった。手探りで物を散らかす中、小さな鏡のようなものを取り出した。変わった装飾品だった。
ミーノックは鏡面を指の関節でノックするように二回叩いた。すると、鏡にある景色が映し出された。
「きゃあああ!」「助けて!」「バ、バケモノ!」「ひぃぃ!」
バレリアイ城下町の民衆の阿鼻叫喚。その騒ぎの中心には恐らく、件の怪物が暴れ狂っていた。
「交渉の猶予まであと一週間ほどあるはずじゃが、痺れを切らしおったか。いや、ある意味ベストタイミングじゃな。……ヒュー! 準備をしろ! 馬をとばすんじゃ!!」
ミーノックの怒号にヒューも応え、急いで鎧を身に纏う。
「ははは! やっぱニンゲンは旨えなあ!」
傷だらけの肉体に隻眼の怪物が猛る。騒ぎを聞きつけた近くの兵が急いでやってきた。警備にあたっていたテントも顔を出す。
「化け物め! 生贄を献上するという交渉にはまだ猶予があったはずだ! 何故早まった!?」
化け物は両手に握られた人間の死体を放り投げる。
「あ? そんなん守るわけねえだろ。テキトーだよ、テキトー。この国の奴等程度じゃ俺を倒せないのは下調べ済みだ。ハナから俺がここを蹂躙するのは決定事項なんだよ」
「な……」
兵士達は皆、剣を抜く。テントの手は震えていた。鋒が僅かに振動していた。それが、怒りによるものなのか恐怖によるものなのかは本人にも分からなかった。
「か、かかれ!」
「何の騒ぎだ!?」
ハリーが慌ただしい城内の中、捕まえた兵に訊ねる。
「例の怪物が現れ、町を襲っているようです!」
「何!?」
「すでにバロン様らは向かわれました!」
ハリーは予想だにしない状況に困惑する。
「ぬぅ……。私も連れて行け!」
流石の兵も王の命令に同意しかねる。
「王自らが!? いくらなんでも危険です!」
「どのみち皆がやられればこの国はお終いだ! 私が向かう必要がある」
その騒ぎの近くで、ハリーと兵とのやり取りの始終を王女テレサは耳にしていた。
「ぐはぁ……!」
兵が次々と倒れていく。テントの剣も折れ、満身創痍であった。そこに、城の増援が駆けつける。
「テント!」
「バ、バロン……!」
馬上から暴魔牛を見つめる。その中、後方には、あろうことか王の姿もあった。
「貴様、これだけの民を傷つけておいて……ただて帰れると思うなよ!」
弓兵が一列に並ぶ。
「撃ぇ!」
数十人からなるボウガンが暴魔牛を襲う。矢が到達する間際、大きな右腕でそれを薙ぎ払う。数本が刺さったが全く意に介しておらず、出血も殆ど見られなかった。
「痛えじゃねえか。飛び道具なんて“ちゃち”な真似やめろよォ!」
その時、機を窺っていたケブロンが背後から一太刀を浴びせる。
「つっ! 野郎ぉ!」
暴魔牛は大きな尾をケブロンの腹に当て、吹き飛ばした。骨の折れたような嫌な音がした。
「がはっ……!」
「ちっ、めんどくせえ。一掃してやる」
そう言って身を屈める。兵に向かい、正面から暴魔牛が突進する。
「な! 速い!」
盾を持った兵が群がり、肉の壁を作るも、忽ちばらばらに壊れ散った。
「しゃらくせえ!!」
人の力で、暴魔牛の全体重とスピードが乗った突撃を防げるわけがなかった。壁は崩れ、下敷きとなった兵はすり潰される。
「お、終わりだ……。勝てっこない」
一人の兵の弱音が、全員の恐怖心として伝染する。もはや皆、足が動くような心理ではなかった。絶望的。血塗れの惨劇。
コツッ。
暴魔牛の足元に小石がぶつかる。
「……あ?」
石を投げたのは、ある一人の小さき少女だった。
「まちから、でていけ……!」
少女は続けてもう一つの石を拾い、投げる。
「や、やめなさい……!」
後ろにいる足を負傷した母親が小声で叫ぶ。他に止めるような大人はいなかった。声が出ない己に皆、腹が立つばかりである。暴魔牛は小指で耳をほじくりながら面倒そうに少女の前に立つ。
「命知らずか。まあ、ガキの肉もいいだろう。死ね」
「やめて!」
兵の注目が逸れていたからか、その女性は迷いなく少女と暴魔牛の前に立ちはだかった。
「テレサ!?」
「王女!!」大勢の声が重なる。
こんなところに居るはずのないテレサの姿に皆一様にさらなる混乱に陥る。
「おうおう、勇敢なことで」
「むやみやたらと生き物を傷つけて……。人の言葉を理解し、使うことの出来る頭があるなら、何故道徳や倫理というものが分からないのです!? こんなこと、おやめなさい!」
暴魔牛が手を振り上げる。数秒後に確定された凄惨な現場に思わずその場の数人は目を瞑る。
馬の足音が聞こえたと同時に、馬上の騎士が空高く跳び上がる。
大きな金属音が響いた。
「……はぁ!? 止めた!?」
皆が到底敵う筈のない怪物の一撃を、一人の騎士が受け止めた。王女が肉塊になるのを未然に防いだその騎士には、首から上が無かった。
「ヒ、ヒュー!」
重傷のケブロンが声を上げる。民や兵、そしてハリーまでもがその信じられない光景に目を丸くする。
「何故、こんなところに……!」
バロンは予想もしてなかった呪われし嫌悪の対象に驚きを隠せない。対して、ハリーは驚きよりも先に成長した子の姿に感極まった表情を見せる。
ヒューを知る兵もいれば、聞いたことすらない兵、そして民もいる。
「まるで怪物同士の戦いだ……」
兵の一言にハリーが声を荒げる。
「……か、怪物ではなどでは断じてない!!」
ヒューは声の先を見る。そこには、数回しか会ったことのない、”父”の姿があった。
「! ……其奴は、私の息子だ!!」
周囲のざわつきと共にヒューは剣で暴魔牛の爪を振り払う。
「……っ! クソ、“人間もどき”ィ。邪魔すんなよなァ!」
テレサと少女を急いで兵達が救出する。
「あれが……兄上、だというの!?」
ヒューと暴魔牛が交戦を始めた。暴魔牛の攻撃を紙一重で避けつつ、的確に体に切り込みを入れていく。爪が当たりそうになるや、即座に剣で対応し、その激しい剣戟に火花が幾度も飛び散る。
ケブロンはどんどんと研ぎ澄まされていくヒューの剣に驚いた。自分と手合わせした時よりも遥かに強い闘志。それはヒューが、明確な”敵”を作ることで真価を発揮するということを示していた。ヒューがこんなにも死を実感する状況は初めての経験だった。周囲は、凄まじい嵐のような光景にただただ立ち尽くす。
暴魔牛の爪が徐々に掠り始める。鎧の端々が砕けていく。続けて、怯んだところに暴魔牛の振り払うような前腕部が直撃する。ヒューは近くの家の壁に埋もれるように飛ばされた。見かねたケブロンが仲間達の方を見やる。
「何をしている……? 加勢せぬか!」
ハッとしたように兵達が狼狽える。
「くっ。……総員、あの首の無い騎士を援護せよ!」バロンが大声で兵全員に指示を出す。
「は……はっ!」
剣と槍の歩兵に、騎兵、そして弓兵が二人の戦いの隙を見ながら攻撃をする。ヒューに当たらぬよう矢を放ち、ヒューへ意識が向いている間は背後から、暴魔牛の背や脇腹に剣・槍を突き刺す。
「小賢しいんだよ!」
段々と暴魔牛の息が上がり挙動も大振りになってくる。
「いける、いけるぞ!」
思わずハリーも昂ぶる。ヒューの斬撃でもはや血だらけの暴魔牛。
「くそ、くそっ。こうなりゃヤケだっ!」
残った力を振り絞り、両手と尾を広げ、自らの周りの広範囲へ攻撃を図る。ヒューや兵達もたまらず吹き飛ばされた。近くの倒れた老人のところへ一目散に駆け寄り、人質にとる。
「ぜーっ、ぜーっ。捕まえた……」
このままでは迂闊に手を出せない。ヒューは焦りながらも打開策を考える。
「予定は狂ったが、こんなところでお前らみたいな下等生物にやられる気はさらさら無い。道を開けろォ! 少しでも妙な動きを見せたら、こいつは“おじゃん”だ」
周りを警戒しながらゆっくりと後退していく暴魔牛。
「くそ、どうすれば」
そして吹き飛ばしたヒューの元へ近づく。
「変な真似考えんなよ?」
ヒューは剣を構えつつも身動きを取れないでいる。暴魔牛の意識は危険度の高いヒューに、それ以外の兵や民の意識は暴魔牛に向いていた。
故に、遅れた。
「———捉えた」
兵達に囲まれ守られていた集団の中から一本の矢が放たれ、一筋の光のように、暴魔牛の残った右目を正確に突き刺す。テレサの仕業だった。
「ぐわあああっ!!」
たまらず目を押さえる。瞬間、一つの隙が生まれた。それをヒューは見逃さなかった。
最高速度の一振りで暴魔牛の首を切り裂く。そして、離された老人をそっと抱き寄せる。
「あっ……かはっ……」
町を混沌に陥れた怪物は、膝をつき、力尽きた。
「勝鬨かちどきだ……」バロンがそっと呟く。
「おおおおおおおおおおお!!!」
兵達の力強い声が響いた。
やっと勝てた……国の脅威を退くことが出来た、初めて人の役に立った。ヒューはえも言われぬ感情に満たされていた。
だが一転。周りが『残る怪物はお前か』そう言わんばかりの目を向けているように見える。鼓動が速くなる。国を助けに随分と久しぶりに山を降りたが、それは果たして正解だったのだろうか。自分のことを考えると、するべきではない判断だったのかもしれない。
ケブロンがその様子を見て、体の痛みを耐えながらヒューに近づこうとする。すると、ヒューの元へ一人の少女が近寄る。
「おにーちゃん、たすけてくれてありがとう!」
小さな体で首の無い相手に怖れることなく近づき、感謝を述べる。信じ難い光景だった。そんな光景に周りの大人達も感化されヒューの元へ行く。
人質にされた老人も、「私からも、礼を言わせてくれ」と。
他の民、そして兵もがそれに続いていく。
「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」
まるで一つの絵画のような、奇妙で神秘的な光景だった。
「あなたは救世主よ」
テレサが近づきそう告げる。ヒューは両手を大きく振り、謙遜した様子を見せる。こんな見た目の自分を、こんな大勢に受け入れられるなど、ヒューは思ってもいなかった。自分は周りと“違う”と知っていたから。
ケブロンはバロンの元へ近寄った。
「これは、国をあげて表彰せねばならんな」
バロンはやれやれといった様子でヒューを認めたような素振り。
ケブロンはそのままハリーの横に立つ。ハリーが口を開く。
「ケブロン。体は?」
「ご安心を。まだくたばるには早いようです。……正直私も、こんなにもヒューが喜ばれるような状況は想像していませんでした。ミーノック翁との親交のあるご老体がいるからか……いや、それに加えてあの少女を含めた子供や若者もヒューに感謝をしている。……我らより、彼ら民草の方がずっと”理解を超えたものへの理解”があるのやもしれませんな」
「私はテレサ。この国の王女であり、ハリー国王の娘です。つまり……あなたの妹なのよ。兄さん」
テレサは涙を流しつつも、混じり気の無い笑顔でそう言った。
「兄さん。本当に王位を継ぐ気は無いの?」
テレサの問いにヒューは上半身を倒して頷いた。
鎧を纏い、出立の準備を整える。民や城の兵が総出でヒューを見送る為に来ていた。その中にはミーノックもいた。
「ヒューには多くの恩恵を与えてもらった。この国を救ったことも含めて。……翁、あなたが姿をお見せになられたことも意外でした」ケブロンが言う。
ミーノックは鼻で笑った。
「なに、ほんの数日だけじゃい。国の連中が馬車を出してくれたでな。まあ、あの子がトラウマになるようなことにはならんかっただけでも、儂は嬉しいがな」
「……ヒューはもう戻らないのでしょうか」ケブロンが寂しげな表情でミーノックに尋ねる。
「……あの子にはもっと広い世界を見て欲しい。強い子じゃからな。心配は無いわい。儂らの身勝手であの子の好奇心を止めるのは惜しい」
なるほど、とケブロンは納得しヒューを見つめる。ミーノックと同じ方向だ。
「別れの言葉は?」
「もう済ませたわい」
「ふっ。私もです」
ハリーとヒューが向かい合う。
「ヒューよ。私がお前にした仕打ちは到底許されるものではない。もちろんミーノックにもな。……お前がいなければ此度の脅威には太刀打ち出来なかった。この国も破滅していたかもしれん。感謝してもしきれんよ」
ヒューは用意していた紙と筆を出す。
『少しでも役に立ったのなら僕も嬉しいです』
ハリーは自分を恨んでいる様子すら見せないヒューに改めて感心し脱帽した。
「出立だ!」
バロンが叫ぶ。音楽隊が豪勢な音でヒューを祝う。その場の全員がまるで祭りの如くはしゃいでいた。
「ヒュー様〜!」兵達の声が何重にも重なる。
ケブロンとミーノックは、泣きながらヒューを見送るギーノの背中を摩っていた。
「英雄ヒューを皆で見送るのだ!」
ハリーの声とともにヒューは馬に乗り、国を後に駆け出した。
「テレサ、知らなかったぞ。ボウガンの技術などどこで?」
「お父様が大切に大切に育ててくれたおかげで、時間が有り余って退屈でしたの。女でも出来る弓やボウガンの練習は、いい暇潰しになりましたわ」
こいつめ……、ハリーは笑って娘の成長を喜んだ。
それから、戦場を駆ける首の無い騎士の名が轟くのに、そう時間は掛からなかった。