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一編 2 (7)

 月明かりが夜道を照らしていたのを覚えている。こっそり抜け出したのだったか。小道の左右には木が植えられていたはずだ。足下がどんなだったか覚えてはいないが何か植物に囲まれた小道だったと思う。田舎の夜道など時期によっては耳をつんざく虫の声がするのだがそんな覚えはない。夜だったが寒かった覚えもない。生温い空気だったかひんやりした空気だったか。漠然とした記憶はどこまでが事実でどこからが補完された空想かが判然としない。

 とにかく二人で夜道を歩いたのだ。昔は暗闇が苦手なはずだったが。手を引いて歩いていたのは間違いない。

 特に何をしたということも覚えていない。ただ居ただけ。それ以上何かを求めただろうか。幼かったからそれ以上何かを疑うこともなかったのだ。信じていた、というわけだ。友情を、愛情を、幸福な未来を。


 大人になると目の前に在るものさえ信じられなくなる。本当にあの人は私のことを信用しているだろうか。本当にあの人は私を好いているだろうか。あの人は内心では私をあざ笑っていないか。本当に私は必要とされているのだろうか。この世に安らぎなどあるのだろうか。この世に喜びなどあるのだろうか。この世に……誰か私の孤独を癒やしてくれる人は居ないだろうか。

 物理的な人の存在など何の意味も為さなくなる。


 果たして自分はいつから大人になってしまったのか。幼心に疑心の罪が芽生えた頃をそうと言うのなら、誰しも肉体の成長よりもそれは一足早いのでは無かろうか。


 余談だが「疑心」の罪はかの有名な七つの大罪には含まれていない。起源をたどっても現れもしない。何故だろうか。聖者と呼ばれる神父でさえ己の信仰を確かめようと神に祈ったほどだというのに。

 神は平等だともそれは嘘だとも言うがこれに関しては私は例外を知らない。いや、居はするのだろうがそれは精神が未熟なだけにしか見えない。大抵のステレオタイプには私も飽きたがそれでもやはり純粋で無垢なのは子どもだけに思える。宗教を問わず悟りの境地に達した者達はやや例外的に見えるかもしれないが、彼らは如何せん人間臭い感じを表に出さないから胡散臭い気もする。しかし、後々触れることにはなるだろうが彼らが人非人的性格を有しているかと問われるとそうとも思わない。いずれにしても彼らは例外的に見えるがあくまでもそう見えるだけだと私は解釈している。尤も中には私の無知を指摘できる読者もあるだろうが、それは本作全体を通して言えることであるから今は気にしない事にしよう。


 彼は自分が大人になる瞬間を覚えていた。どうしてそうなったのかも。しかし、蟲が羽化するときのように、一息に彼の精神が大人になりきることはできなかった。だから、と言っても言い訳にしかならないのだろう。


 神が絶対かは私は知らないが人は相対的な生き物である。ありとあらゆるものが完全な個人にとっては意味をなさない。水、食料と熱くらいのものであろうか。そのほかは独りの孤人にとっては在っても無くても同じことだ。時間でさえも。

 要するに彼の時間は止まっていた。(さなぎ)から羽化する瞬間に止まってしまった哀れな蟲は何物よりも危うい。ヒトの場合は、環境さえ十全であるならば肉体は勝手に育って行くから、危ういのは外敵よりもそのまま精神が腐り落ちてしまうことだ。

 ではなぜ彼はそれでも生きていたのか。これは本人にも分からない。人間の生存本能なのか、単に死ぬのが恐ろしいだけか。何とも言えぬ人間の底力とでもいうべき活力によってなんとか肉体の生命を維持した。おかげで彼の現在の境遇は悪くなかった。誰も彼を見て自殺志願者だとは思えなかっただろう。こうした、過去に要因を抱えた人間が翌日になって死体で発見されることも現代ではさして珍しくないかもしれないが、ゲゼルシャフトの存在すら怪しい時代ではこうした症例の人は少なかっただろうし、自殺が(精神的)病の延長線上に有るだなんて誰も信じなかっただろう。

 彼の現在の境遇を語る上で重要なのは彼の出自や精神というよりも肉体とそれに付随して育った知性だろう。ところが、彼がそれによって、さる高貴な身分の者達にも認められているのだから、彼がもはや自殺など望みはしないだろうというのが誤りであることは、昨今相次ぐ著名人の自殺によって証明されている。人間というのは自身さえ己を認めていれば誰の評価も気にせず生きて行けるのに、己が自身に絶望してしまうと誰が彼を認めようとも死んでしまうらしい。要するに当人の精神が腐り落ちてしまえば全てお仕舞いというわけだ。


 然して物語に於いて肝要なのはそこに至る経緯とそれから何処へ向かうのかという推移である。推移は皆でこれから見守るとしても経緯はここらで触れなければならないのだが、これが上手く書ける自信が全くない。なにせ一少年の重大事件など言語化してみればこれ以上くだらぬものもない。そこを上手くやるのがお前の仕事だろうと言われると全く立つ瀬もないのだがともかく、これは彼の今なお続く少年時代のおぼろげな記憶であるからその積もりで読んで欲しい。詰まらん言い訳だとは知りながら何を今更と書いた次第である。

 最近の芸能人の訃報がなければリアンの内心と境遇のギャップにどう説明をつけるのか、相当に苦心するところでした。

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