一編 2 (1)
最悪な夢を見た。
一番幸せだった頃の夢を見た。
夢を見ている間はそれを当然のことのように受け入れる。
夢から覚めると、もはやそれは無いものだと知る。
結果、幸福なんて現実のどこにもありはしなかった。
(あいつのことなんて考えて寝たからだ)
顔の跡が付き、顔に跡を付けた紙と、机からこぼれ落ちたペン。幸いにもインクの入ったビンは倒されていなかったが蓋は開けっ放しだった。
しばらく背もたれに体重を乗せ、天を仰ぎ見る。昨日のことを思い出すといやな笑みがこぼれてくる。
(こんな男の言葉をよくも信用できたものだ)
彼は、エリアス二世に侯爵達もそうだが、多くの人に自然と認められながら生きてきた。しかし彼が自認する通り、彼に特殊な技能や身分が有るわけではなかった。ただ、その立ち振る舞いや言動から、自然と尊敬された。
彼はそれに頼りながら旅をしてきたが、同時にそれが忌々しかった。それを誇ることもあったが、不満だった。
(どうして皆ありのままの自分を見てくれないのだろう)
(勝手に期待して、いつか勝手に失望するのだ)
彼だけは彼自身を過信しなかった。
(また朝からこんなこと考えて……駄目々々だな)
彼は考えるのをやめるために別のことを考え始めた。
(アンナをどうするべきか)
大抵のことは適当にすっぱり決めてしまう彼だが、案じあぐねていた。
(アンドレアのあいつのところに飛ばしてしまえば安全だが)
アンドレアはテベレ川下流の海沿いに広がる商業国家である。領土はさほどでもないが、帝国とその周囲にある西の文明と、遠く東に位置する大文明を結ぶ、東西貿易の重要拠点であり、古くから栄えてきた土地であった。
東から流れてくる奢侈品や進んだ文明の品々は、まずはアンドレアに着き、テベレ川を遡りながらフィル、バーゼルとたどり、帝都にやってくる。
ただし、文化のレベルとしてはアンドレアは帝国に劣る。それでも古風な街並みの残るアンドレアは、その版図に見合わぬ勢力を擁している。
(アイゼン侯爵はもう出発しただろうか)
アンドレアは諸侯同盟の中でも微妙な立ち位置だった。帝国にほとんど接しておらず、かつ大勢力な為である。同盟は対帝国のものであるので、帝国と直接の争いが起きにくく、単独でもなんとかしうるアンドレアにはメリットが薄い上に、フィラハの誰がしを王と奉るにしては勢力が強すぎた。よって、名目上同盟に参加しているけれど、実際に参戦はしていない。
そんな国を完全に仲間にする事ができれば、少なくとも完全敗北はない、というのはリアンの読みである。平凡ともいえるほど至極まっとうなこの案は受け入れられ、フィラハの南部に領を構えるアイゼン侯爵が使者として、今日の早朝にも発つ予定と相成った。
リアンは自ら赴きたかったが、王はリアンの病状を重んじて止め、諸侯はこれこそ国の運命の分水嶺として譲らなかった。
その他にも全面戦争のための準備を様々に提案し、多くが入れられたが、肝心のリアンはフィラハの政治に介入出来ないために何もする事がない。しばらくはリアンの周囲は慌ただしく動く一方で、リアンはしっかり休養をとることが決まっていた。
気が付くとまた悪いことを考えている。
(寝てしまうか?)
朝の猛烈な眠気を感じる。しかし空の暖色と寒色のコントラストは東雲の刻を告げていた。
(厩に……)
カイは居ないことに気がつく。リアンはしばしば馬とじゃれて気を紛らわせた。
溜め息をついた。
宮殿は正門の方向に、鳥が翼を広げるように建てられており、その裏には広い中庭が在った。
中庭とはつまり庭園であり、何に使うのかまったく分からない無駄な敷地と、直線で直角に交差する道が奥まで延びている。その庭と館を隔てる一本の石敷きの広場でリアンとがたいのいい大男が剣を打ち合っていた。
「だいぶ集まってきたな」
間合いを取り直すついでに言うのはヘクターである。
「みんな好きですからね、仕事をさぼるのが」
起きたての衛兵や召使いが見物客のほとんどを占める。
「ラストだな。俺が勝ったらその板に付かない丁寧口調を止めさせてやる」
「え?」
「最初に言ってたろ、こういうのは性格がでるって。隠したけりゃもう少し丁寧に立ち回るんだな」
「……では私が勝ったらいずれそちらに居候しに行くとしましょう」
そう言って下段に構えるリアン。ヘクターが驚くほど、低く構える。剣が自身の右足に当たるほどに。
ヘクターは中段に構える。これほど体格の良い男が剣を構えると、短い棒切れを持っているような滑稽な感がある。傍目からは。
それを正面から受けるリアンには尋常でない威圧感がかかっていた。この男が剣を振り上げればそれは、立ち上がった熊に上から見下ろされる様なものであり、リアンは正面からその剣を受けるのが嫌だった。これまでも、間合いに深入りしないことで力と力のぶつかり合いになることを避けた。
観衆が静かになり、場を完全な静寂が支配したと思うとすぐさまヘクターが動いた……時にはリアンの切上の刃が迫っていた。
「クソっ!」
(切り込みのタイミングが読めなかった!?)
ヘクターはなんとか防いだが、息を乱され下がろうとする。追撃に切り返し振り下ろすリアンの剣がこれまでに無いほど重く、衝撃から気がつくと首もとに冷たい刃があてられていた。
ヘクターの剣は鍔本を強く握られ動かない。
歓声が湧く。
「俺の負けか」
不意を突かれ、あっという間の出来事であった。
「オラ!散った散った!持ち場に戻れ!」
見物客がひとしきり盛り上がりを見せた頃にヘクターが怒鳴る。ぞろぞろと帰る使用人の中には未だ興奮冷めやらぬ者も混じっていた。
その中で動かない人影が一つ。
「早起きは三文の徳とはこのことですね。良いものを見せて頂きました」
「お久しぶりです、エリザベス様。長らく挨拶にも参れず申し訳ありません」
エリザベスはエリアス二世の娘である。ブリュネットの長い髪で凛とした顔立ちをしており、次女故かしっかり者の気風を備えている。それで居てお淑やかで気品がある。
「別にかまいませんわ。事情も聞きましたし。もうだいぶ元気のようで何よりです。それよりもその左手よね。痛くないのですか?」
リアンの左手は血で濡れていた。その背後で血の付いた刀身を適当に袖で拭う男が一人。よく見ると二人とも服の端々が切れていたり皮膚が裂けていたりする。
「鍔本を握った程度ですからね」
「そうね……」
エリザベスは服の裾を破りリアンの傷に当てて応急処置とする。
「痛くありませんか?私にはこのくらいしかできませんが……後でちゃんと見て差し上げますから私の部屋へ来てくださいね」
リアンの手をそっと握りしめ、純真な瞳がリアンの目を捉えて離さない。リアンは平然としている。
「この様にしていただいて感謝の言葉もありません。ですがこれ以上姫様のお手を煩わせるわけには……」
「いえ……遠慮なさらないで、是非……」
微笑みながらもその眼も手もリアンをとらえている。
「では後ほど伺います」
諦めてしまった。
首をひねって後ろを見ると目線に気づいたヘクターがようやく会話に参加する。
「昨夜振りだな」
嫌そうな口調である。リアンは屋敷の全員にこんな口調と態度なのかと思ったが、確かに、この無骨な大男が慇懃無礼にお世辞を口にする姿など想像できなかった。
「先程は素晴らしい試合でした。最後は負けてしまいましたけれど、シュタイアー侯爵のこれまでの武勇を曇らせるものではけっして有りませんでしたよ」
「試合と呼べるのなんざ最後のだけだ。しかも情け無いことにすぐ終わっちまった。もったいねえ。なあ?あんなマジになれんならハナからそうしろよ。それともそんなに嫌だったのか?」
「いえ……あなたの一撃で剣が曲がるかと思ったのですよ」
リアンが剣をヘクターに返す。
「持っとけ。どうしてお前ほどのやつが自分の剣を持ってない」
「旅には不要だからですよ」
「だが昔誰かに剣を習ったはずだ。誰に教わった。いやそもそも生まれはどこだ。なんで旅なんかしてる」
ヘクターが無作法に聞き立てるが、これにはエリザベスも興味ありげな様子でリアンに顔を向ける。
「実はアンドレアのさる商家の生まれでして、そこで剣も礼儀も教えられて育ちました。私は次男でしたから家禄も継げず、適当に放浪しているのです」
「どの家なのですか?」
「残念ながら、皆様が知っているような大きな家ではありませんから」
「それで南の使節になりたがってたのか」
「ええ」
まだ傾いた日は体を暖めてはくれず、汗が冷えてきたので戻ることになった。




