異変
「……ですので、作者はこの文に、戦争の虚しさを込めたのです」
教室の外、澄み切った青空に柔らかそうな雲が浮かんでいる。頬杖をついたまま眺めてはいるが、網膜の裏には昨夜の光景が焼き付いて離れない。当然、授業の内容など一切入ってこなかった。
遙は公欠扱いになったらしい。あいつ、大丈夫だろうか。顔色は最悪だった。
ふと、昨夜の光景がフラッシュバックする。
変わり果てた娘の姿を抱きしめ、夜の病院に響き渡った母親の慟哭。
死因は『突然死』。その脳には老化現象が顕著に現れていたという。
疑いようがない。あの少女の魂を喰らったのは、間違いなく『SS』だ。
事情を聞きに来た刑事の、あの穏やかな顔を思い出すだけで吐き気がする。
「大変な目にあって、混乱しているんだね」
「冗談じゃない! 俺は見たんだ、アプリが勝手に消えていくのを!」
必死に訴える俺の横で、遙がビクッと肩を震わせた。それでも刑事は、憐れみの色を浮かべたまま「今日はゆっくり休みなさい」と聞き流すだけだった。
警察がスマホを解析したところで、結果は見えている。この数年、あれほど多くの突然死が起きながら、『SS』との因果関係が一度も発表されていない。それが答えだ。
「おーい、奏太。生きてるか?」
いつの間にか授業が終わっていた。声をかけてきた瀧本に、俺は思わず問いかけた。
「……瀧本。お前、『SS』ってアプリ、知ってるか?」
「おっ、いきなりだな。杉田に聞いてみたよ。あいつの親戚が死んだ時も、原因は『SS』じゃないかって言ってたんだ。でもな、スマホを調べても使用形跡が一切なかったんだと」
「……やっぱりか」
「でもよ、そのアプリ、使うと凄く《《ハイ》》になるらしいぜ。ハマると辞められないってさ」
ハイになる? 少なくとも、一回の使用で即死するわけではないということか。
ふいに、腹が『ぐう』と鳴った。朝から何も食べていない。
「わりぃ、ちょっと購買行ってくる」
何かを腹に入れれば、この重い頭も少しはシャッキリするかもしれない。
購買へ向かう廊下、俺は歩きながら『SS』を立ち上げた。
開発元の『(財)エリクサー』は、調べれば調べるほど潔白な人道支援団体だ。そんな組織がなぜ、こんな呪いのようなものを?
「……試したいなんて言ったら、遙は怒るだろうな」
一人、呟く。
一度で死なないなら。もし、この違和感の正体を突き止められれば、あの少女のような犠牲者を救えるかもしれない。
指が震えていた。
画面には『課金補助を行いますか?』の文字。
俺は心臓の鼓動を耳の奥に聞きながら、ゆっくりと、スマホを自分の頭に近づけた。
「っ……!! ぐ、あ!!」
何だ、これ。
頭の中に、粘着質な熱がドロリと流れ込んでくる。不快感──、いや、生理的な恐怖だ。ゾゾゾ、と毛穴が総毛立つ感覚に耐えきれず、俺は反射的にスマホを床へ投げ捨てた。
「はぁ、はぁ……っ!」
投げ出されたスマホが、赤と黒のノイズを放ちながら明滅している。
『エラー。アンインストールを開始します』
画面が激しく歪み、勝手に再起動が始まる。再び立ち上がったホーム画面から、あの黒いアイコンは消滅していた。
「一体……何なんだよ……」
掌で額を拭うと、冷たい汗がびっしょりと滲んでいた。ハイになる? とんでもない。死の気配しか感じなかった。
結局、食欲も消え失せて教室に戻り午後の授業が始まった。
ふと視線を感じてグラウンドに目を向けた時、正門に立つ女性の姿が見えた。
黄色のサマーニットにショートカット。
彼女は真っ直ぐに俺を見つめ、静かに微笑んでいた。
「……佐々木さん? 具合が悪いなら保健室へ行く?」
「あ、すいません。大丈夫です……」
先生に返事をして視線を戻したとき、正門にはもう誰もいなかった。幻覚だったのだろうか?
その後も授業に集中できなかった俺は、昼前に早退することに決めた。
校門をくぐったところで、遙から『休んでるなら、ウチに来ない?』とのメールが届く。
昨日の今日だ。あいつも一人でいるのが怖いのかもしれない。
「仕方ないな」
そう呟いた俺の心臓が、妙に高く跳ねた。何だろう、この昂揚感は。
商店街を抜ける。歩調が自然と早くなる。
まるで世界が自分を祝福しているような、全能感。
だから、俺は気づいていなかった。
商店街を行き交う人々の動きが、まるで止まりそうなほど「ゆっくり」に見えていることに。




