トラブル
「奏太……? 大丈夫?」
遙が心配そうに顔を覗き込んできたところで、俺はハッと我に返った。
視界の端には、相変わらず不敵な微笑を浮かべたイアが佇んでいる。
「ごめん、ごめん。ちょっと妄想の世界に浸ってた」
俺の答えに、遙は「しっかりしてよね」と言いたげな、呆れと不安の混じった表情を向けた。
人造大理石の床に靴音を響かせ、郷間を先頭に一行は進む。
その間も、彼の淀みない企業説明は続いていた。案内された『会議室2』には、整然と並べられた長机の上に、レジュメとペットボトルのお茶が用意されていた。
「ざっと概要を説明させていただきましたが、詳細はそちらの資料にまとめてあります。折を見て目を通していただければ幸いです」
郷間に促され、俺たちは着席した。
「本当に素晴らしい企業理念ですね。ただ、これほどの海外支援を行うための資金調達は、一体どのようにされているのでしょうか?」
如月部長が、優雅に、しかし逃げ場のない鋭さで問いかける。流石だ。核心を突くことをためらわない。
「はい。我々は旧財閥の流れを汲んでおり、その資産運用はもちろん、国からの手厚い補助も受けております。この先の資料館に詳細がございますので、後ほどゆっくり……」
『始めるわよ』
郷間の言葉を遮るように、イアが俺の耳元で囁いた。
── 突如、館内にけたたましい警報音が鳴り響く。
「失礼」
郷間が眉をひそめ、慌てた様子でスマホを耳に当てた。
「……どうしてそんなことが!? ああ、分かった。すぐに向かう」
通話を終えると、彼は俺たちに向き直り、申し訳なさそうに頭を下げた。
「皆さん、申し訳ありません。少々システムトラブルが発生したようで……恐れ入りますが、しばらくここでお待ちいただけますか?」
「もちろんですわ。その間、資料を拝見しておきます」
部長の快諾に安堵したのか、郷間は早足で部屋を飛び出していった。
「何が起こったんだ?」優弥が不安げに呟く。
「部長! これってチャンスじゃねえか!?」
本田先輩の口角が吊り上がる。
「ええ、行きましょう。やっぱり、遙さんと奏太君は『持っている』わね」
部長が静かに立ち上がった。
『扉を出て右に十メートル。非常階段から六階を目指しなさい。セキュリティはすべて私が書き換えておいたわ』
イアの指示通り、俺は迷わず先頭に立って皆を誘導する。
「ちょっと奏太!? なんで道が分かるのよ!」
「静かに。言っただろ、俺に任せろって」
重い扉の電子ロックは、俺が触れる前に音もなく解錠された。
「……あら、必要だと思って準備していたのに」
如月部長の手元を見ると、何やら不気味な電子デバイスが握られていた。解錠用のハッキングツールだろうか。
「部長……なんでそんな物騒なもの持ってるんですか?」
優弥の至極まっとうな問いに、部長は淡々と答える。
「ちょっとした、裏の仕事に通じている知り合いがいてね」
この美貌の部長は、一体どれだけ広い── そして深い人脈を持っているのか。
コンクリート剥き出しの非常階段を一気に駆け上がる。
六階フロアの扉の前で、突然イアが『待機して』と手をかざし、そのまま扉の向こうへ消えた。
「……みんな、ちょっと待ってくれ。人の気配がする」
俺の言葉に、全員の動きが止まる。
「なんで分かるんだ?」という本田先輩の追及に、俺は慌てて「人の気配がないか確認してからの方がいいと思って! 言い間違いです!」と誤魔化した。
数秒後、人の気配が遠ざかるのと同時にイアが姿を現した。
『さあ、進んで』
扉を押し開けると、そこには夥しい数のサーバーラックが立ち並ぶ、広大なコンピュータールームが広がっていた。
ここが……この国の、あるいはAIの、心臓部。
隣の遙は、スマホを震える手で握りしめていた。
「あと少し……頑張らなくちゃ」
誰にともなく呟いたその横顔は、悲壮な決意に満ちていた。




