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エリクサー社

 バスが山道を抜け、視界が開けた瞬間に眼下へ大海原が広がった。車内に弾けるような歓声が沸き起こる。


 母なる海には、理屈抜きに人間の本能を呼び覚ます何かがあるに違いない。

「ちょっと! 奏太、はしゃぎすぎよ!」

 どうやら、海へのマザーコンプレックスを一番露骨に爆発させていたのは、俺だったらしい。


 前の座席に座っていた部長が、こちらを振り返った。

「もうすぐ着くわよ。到着したらすぐに主旨説明会を始めるから、準備しておいてね。海水浴の時間を目一杯取りたいでしょう?」


 その言葉に、歓声は一段とボリュームを増した。

 今日の予定は、施設到着後の説明会。そして明日の本番に向けた準備。それが終わればお待ちかねの海だ。さらに明日の発表が終われば、夜はバーベキュー。

 ……そんな浮かれた空気の中、俺の脳裏に一つの深刻な疑問がもたげた。


「部長! 顧問の先生って、来てないんですか?」

 そう、このバスに大人の姿は見当たらない。


「あら、言ってなかったかしら」

 部長の話によれば、顧問はいわゆる『幽霊顧問』であり、部活動の運営はすべて部長に一任されているという。宿舎の管理人が学校関係者ということもあり、この「生徒だけ」の合宿も学校公認なのだとか。

 しかし、多感な年頃の男女が一つ屋根の下、大人抜きで過ごすなんて。もし何かの間違いが起こったら……いや、起こってくれたら……。


 しまった、そっちの方面の「備え」を完全に忘れていた。


「奏太、さっきから表情がコロコロ変わりすぎ。顔芸の練習?」

 遙の鋭い突っ込みが飛ぶ。

「えーっ。面白かったから動画撮ろうとしてたのに!」

 いつの間にか、由紀さんがスマホのレンズを俺に向けていた。遙、ナイスだ。危うく取り返しのつかない黒歴史をデジタル保存されるところだった。


 ふと視線を外に投げると、海岸沿いに太陽の光を跳ね返す、巨大な白い箱のような建物が目に飛び込んできた。


「……あれが、エリクサー社か」

 周囲の自然から浮き上がった幾何学的な外観。そのあまりの美しさは、どこか死後硬直した遺体のような寂しさを湛えている。先ほどまでの浮ついた気持ちが、急速に冷えていくのがわかった。


 遙も気づいたらしい。さっきまでの賑やかさが嘘のように、彼女は口をきつく結んでその「白い箱」を見つめていた。


 バスは脇道に入り、舗装の甘い砂利道へと進む。振動がダイレクトに体に伝わってきた。

 程なくして、灰色のコンクリート造りの建物が姿を現した。

 合宿所は、噂通り本当にエリクサー社の目と鼻の先だった。


 人はよく『偶然』という言葉を口にする。

 だが、作為的な意図によって手繰り寄せられた事象を、果たして偶然と呼べるのだろうか。

 これは偶然ではない。誰かが書き、誰かが進めているシナリオの一幕に過ぎないはずだ。


「奏太、私たち、大丈夫よね……」

 遙のかすれるような小さな声が、不安を物語っていた。

「ああ、きっと大丈夫さ」

 今は根拠がなくても、そう言い切らねばならない。俺は自分の震えを押し殺し、彼女に短く応えた。

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