ショーコ中古マンションを買う(7)
九月六日 午後八時五十分 中古マンション和室内
「はあ?わたしたちにできることならもうやってるじゃない。他に何があるの?」
さつきは風で乱れた制服のスカートを直しながら言った。
「まあまあ。とりあえずこれを見てよ」
ショーコはリュックからバスタオルに包んだタブレットを取り出して、さつきとカメ子の前に置いた。
「それかよ。どおりでさっき蹴ったとき変な感触が」
カメ子は足首を手で押さえながら言った。
「ふふ、カメ子ちゃん。わたしだって学ぶんだよ。リュックに入れているときは保護第一に考えているんだ」
さっきのをっと。ショーコは自分の端末を操作した後、タブレットを起動させた。
「・・・もう蹴られる前提なのね」
さつきはタブレットに目を移した。
「リスクをマネジメントしてるのさあ。心配ないさあ。んでこのマンションこんな感じなんだけどね。01側と09側の両端にエレベーターがあって」
エ 601 602 603 604 605 606 607 608 609 エ
501 502 503 504 505 506 507 508 509
401 402 403 404 405 406 407 408 409
301 302 303 304 305 306 307 308 309
201 202 203 204 205 206 207 208 209
101 102 103 104 105 106 107 108 109
「高野さん。ここって」
カメ子は玄関の方を見ながら言った。
「たしか608号室」
「そうそう。それでね、このマンションの管理人さんにだね、うーんとざっくばらんに言うと生き死にがあった部屋を教えて貰ったんだ」
「生き、のほうは関係なくない?」
「ま、まあ。そういう話もあるんだけど」
ショーコは画面を切り替えた。
「ごめんね。なんかこれ入力したらちょっとずつずれちゃって」
エ 601 602 603 604 605 606 607 608 609 エ
501 502 503 504 505 506 ⑦ 508 509
401 402 403 404 405 ① 407 408 409
301 302 303 304 ⑤ ④ 307 308 309
201 202 203 ⑥ 205 ③ 207 208 209
101 102 103 104 105 ② 107 108 109
「こうなるんだよ。数字は順番だね」
さつきは画面を凝視して、ふーん、と小さく呟いた。
「さつきちゃん、カメ子ちゃん。どう思う?」
「どう思うって。こんなの意味ねえだろ、ボケが」
「あ、でも」
さつきは、はっとして口に当てていた手を離した。
「ほう、さつきちゃんは何か気が付いたようだね」
「多分だけど。この順番はミスリードを誘うもので。単純にこれは」
「え?高野さん、なんかわかったの」
「亀山さん。これはこう見えない?」
さつきはタブレットの画面をカメ子に向け、指でなぞった。
「え、高野さん。つまり片仮名のイ?ってこと」
「うん。わたしたちが今いる608号室を使えばきれいに」
パンパンパンパンパン。
ショーコが手を叩いて、おめでとう、おめでとう、そしてありがとう、ありがとう。と言い、さつきに握手を求めたが、さつきはその手を乱暴に払った。
「なによ、それ!」
「さつきちゃんが正解にたどり着いたからさあ。一本道だったねえ、わたしもそう思うよ」
「でも高野さん。『イ』って言われても・・・」
「そうなんだよねえ。わたしもいまいちわからなくてさあ」
ショーコはタブレットを近くに引き寄せて画面を凝視した。
ねえ、ショーコ。さつきはショーコの横に移動してタブレットを見た。
「なんだい?さつきちゃん」
「あんたどうやってこの情報を管理人さんから訊いたの?」
「ふ、事前に準備しておいたのさ」
「だからどうやって」
「こちらも情報を、だよ。こういうところの管理人さんって高齢の人多いし。もしかしたら情報を仕入れるのも大変かなと思ってね」
ショーコはリュックから空のクリアファイルを取り出した。
「これに入れていたんだよ。似たような条件の職場を紙でプリントアウトしたものをね。誰だって今いる場所が、本当の自分の居場所だなんて思ってない。それが人間、それが管理人ってもんだよ」
「またあんた余計なことを・・・」
さつきはタブレットを強く握りしめショーコを睨んだ。
「渡したらもう入れ食いで、べろんべろんだよ。いろいろ教えてくれたねえ。やれ不倫からの離婚。そしてまた別のトリプル不倫。トリプルってどういう不倫なんだろうねえ、さつきちゃん」
「不倫は別にいいでしょ。当人同士の問題だし。でも問題はそこじゃなくて、生き死にのあった部屋なんでしょ。このマークみたいなのは」
「いやあ、でもトリプルだよ?どこかで不都合が起こりそうなもんだけど」
「おい、クズ!高野さんの話を聞けよ!」
カメ子は会話を遮ってショーコのリュックを蹴った。
「ああ、もう大丈夫。今のリュックの中身なら百人乗っても、だいじょ」
「だからあ!だまれって言ってるんだ、ボケが!」
そう言ってカメ子はさつきを見て、唇を、どうぞ。と動かした。
「あ、うん。あ、ありがとう。それでこの『イ』は管理人さんの意向かもしれないでしょ。初対面でいきなり他の職場を勧められ、自分は現状で満足していたのに、それをぶち壊された。そんな気持ちになったことをあんたに伝えるために」
「え?意向って。だって『イ』だよ。わたしイカダしか思いつかないんだけど」
ショーコはリュックを自分の背中に置き、カメ子の視線から外した。
そうね、もし仮に。さつきは立ち上がって室内を見渡し、
「管理人さんの衝動を表す文だったとしたら。その最初の文字だとしたら」
と言って、ショーコを見た。
「え、文章って?どんな?」
だから例えば、さつきは少し息を吸いゆっくりと口を開いた。
「例えば、『イますぐお前を殺す』とか」
さつきはそう呟いた後、再び押れを背にして座った。
「・・・え?いや、そんなさつきちゃん。え・・・」
「あ、そういう。うんうん」
カメ子は一瞬戸惑った後、激しく頷き、高野さん。他の可能性は?と言いながらさつきの隣に座った。
「そうね。他のって言われれば・・・・」
さつきはしばらく考えた後、『イつかお前を殺す』みたいなのも。と天井を見ながら言った。
「あ、ああ。そ、そういうのもありだよね、高野さん。でも、これもっとありそうじゃない?ほら、『イままで味わったことのない苦痛の中でお前を殺す』とか」
その後、さつきとカメ子は他に思いついた言葉をいくつか言い合った。
「ね、ねえ。カメ子ちゃん。あのう、さすがに無理して乗っかってる感がすごいんだけど・・・」
ショーコはカメ子の肩に手を触れようとしたが、引っ込めて遠慮がちに言った。
「う、うるせえ!無理とか。別にそういうことじゃねえよ!」
「あと、片仮名のイがもう添え物状態だよ。最後の『殺す』が強すぎて全部そっちにもってかれてるっていう」
「お前が管理人に余計なことしたからこうなってるだけだろ。高野さんが色々考えてくれてるんだ。ありがたいと思え!」
「え、でも余計といっても。さすがに他の就職先を軽く斡旋したぐらいで、今まで味わったことのない苦痛の中で殺すことなんて」
ね、ねえ?ショーコは目を閉じてぶつぶつと言っているさつきを見た。
「ショーコ。わたしにはね」
さつきは目を開けて立ち上がった。
「人が人を殺す理由なんて全部理解できない」
「う、うん。わたしもそうなんだけど。それにしても今回のはその、大分枠外というか」
「最初は全部そうよ。第三者からみれば、ほんの些細なことだから」
さつきはショーコのタブレットを手に取って画面を操作した。
エ 601 602 603 604 605 606 607 608 609 エ
501 502 503 504 505 506 ⑦ 508 509
401 402 403 404 405 ① 407 408 409
301 302 303 304 ⑤ ④ 307 308 309
201 202 203 ⑥ 205 ③ 207 208 209
管理 101 102 103 104 105 ② 107 108 109
「この101側に管理人室と正面玄関があるから。わたしと亀山さんはこっちのエレベーターから降りる。あんたは109側から降りなさい」
エレ 601 602 603 604 605 606 607 608 609 エレ
↓ わたし 501 502 503 504 505 506 ⑦ 508 509 ↓
ショーコ
亀山さん401 402 403 404 405 ① 407 408 409
301 302 303 304 ⑤ ④ 307 308 309
201 202 203 ⑥ 205 ③ 207 208 209
管理人室 101 102 103 104 105 ② 107 108 109
「ねえ、ショーコ。これ何回やっても表示が変になるんだけど」
さつきはタブレットの入力を繰り返しながら言った。
「ああ、それはねえ。わたしがやってもずれたよ。こう色々とあるんだよ、たぶん。ぎりわかるから大丈夫だよー」
「あー、もういい。それでわたしと亀山さんが少し管理人さんと話してるから、あんたはその隙に早足で玄関から出て。で、近くに公園あったでしょ?そこで待ってて」
「な、なるほど。さつきちゃんが引き付けてくれるわけだね。ヘイ、管理人。調子はどうだ?なんだよ、変わるわけないだろ。あの駅前のクソくだらない銅像と一緒さ。おいおい、それ千回は聞いてるぞ。そういえばターミナルの裏にあるパブに新しい女が来たって知ってるか?へえ、知らねえな。なかなかの美人だ。出戻りらしいぜ。マイクの家の近くのアパートメントに住んでる。へえ、何でまたこんな町に戻って。みたいな会話で繋ぐと」
「・・・はいはい。もっと普通にするから。あ、亀山さん。もう行こうかと思うんだけど」
さつきは端末で部屋の画像を撮っているカメ子に言った。
「ごめん。ちょっと資料にしようと思って撮ってただけだから。いつでもいいよ」
じゃあ。さつきはリビングに置いていた鞄を持った。
「じゃあ公園で。ショーコは先に行かないでよ。わたしたちが話してる横を通り過ぎる感じで」
「おっけえ。とりあえず、あの気のいい管理人さんが殺人鬼という設定に乗っかる準備は出来たよ。今回の相手は人間。それなりの対応をさせてもらおう」
ショーコはリュックから取り出したエアガンのスライドを引いた。
「だから!そんなので刺激してどうすんのよ!」
さつきはショーコのエアガンを奪い取り、自分の鞄にしまった。
「え、ええ!?丸腰は不安だよお」
「必要ないでしょ、ほら」
さつきはショーコの背中を押し玄関に向かわせた。
「じゃあわたしたちはこっちだから」
さつきは101側のエレベーターを指差した。
「ちゃんとやれよ、ゴミ。まあお前が死んだらゴミとして拾ってやるよ」
「まかせてよ。こういうのは何度か観たことあるからさ!」
何度も言うようだけど。さつきはショーコを見た。
「絶対話してるわたしと亀山さんの方を見ないでね。あんたは壁だけ横目で追って早足で通り過ぎなさい」
「おっけえ。見ないよ!ふりじゃないよ、ほんとに見ないから!してさつきちゃん。具体的な立ち位置は」
「だからあ、さっきも言ったでしょ!」
そう言ってさつきはショーコとカメ子に指示を出しながら、玄関前でもう一度打ち合わせをした後、さつきとカメ子は101側のエレベーター方向に歩き出し、ショーコは二人がエレベーターに乗ったのを確認した後、逆側のエレベーターに向かった。
数分後、さつきとカメ子が公園付近に着くと、ショーコが入り口の外灯の下で手を振っていた。
「いやー、さつきちゃん。大した事なかったね。むしろ夜の公園に一人でいるほうが怖かったよ」
「結果論でしょ。それは」
さつきは押していた自転車を停めた。
「んで、管理人さんと何の話をして注意を逸らしてくれたの?わたしが聞こえたのは、さつきちゃんが、すいませーんって言ってるのが最後でさ」
「まあ、それは。その・・・」
さつきがそう言って俯いていると、
「もう居なかったんだよ!いいだろ、もうこの話は!」
カメ子は自転車のハンドルを持ったまま、ショーコを睨みつけた。
「え?わたしまじでそっち方面見てなかったんだけど。そっか、もう帰ってたんだね・・・」
「お前は結局無事なんだ。それでいいだろ!」
ね、高野さん?カメ子はさつきを覗き込んだ。
「わたしの考えが浅かった。二十時か、二十一時までの勤務だったんだと思う・・・」
さつきは唇を震わせてうつむいたまま言った。
「う、うん。さつきちゃん。そんなこともあるよ」
ショーコはカメ子に目配せしながらさつきの肩を叩いた。
「そうだよ、高野さん。結果問題なかったんだからむしろ成功だよ!」
「成功かどうかはわからないけど。そう言ってもらえると」
さつきは肩にあったショーコの手を払いのけて言った。
「あ、そう言えばさつきちゃん。お腹減ったねえ、不動産屋に鍵返す前に何か食べていこうよ」
「・・・食べる、ね」
さつきは自転車のハンドルを持って、とぼとぼと進みだした。
「な、なんでもいいよ。今日はさつきちゃんが行きたい場所に行こうよ!」
ショーコは自転車を押してさつきの横に並んだ。
「わたしも。高野さんが行くところに行くから」
カメ子はショーコとは逆側のさつきの横に並び、三人は自転車を押して来た道を戻った。
「じゃあ。前さ」
しばらく進んだ後、交差点でさつきは自転車を停めてショーコを見た。
「なんだい?さつきちゃん」
「あんたと理恵がおいしいって言ってたラーメンのお店」
「ああ、順ちゃんラーメン?あれはいいよお。未だに店員の誰が順ちゃんかわからないけど」
「ちょっと。その」
「ん?」
「二人がよければ、ちょっと行ってみたいんだけど」
「いいねえ!夜の九時以降に食べるラーメンは最高だよ。行こう行こう、そこ曲がったらすぐだからさ」
ショーコは目の前の交差点を指差した。
おい、クズ。カメ子はショーコの自転車の後輪を蹴り、
「お前ラーメン代出せよ。命の恩人なんだ、高野さんとわたしは」
そう言った後、少し進んで前輪を蹴った。
「え、ええ!?そ、それは。マンション見学からの一連の流れでみると、もはや新手の詐欺に」
「あ、亀山さん。わたし自分の分は出すから」
「駄目だよ、高野さん。こういうことはきっちりしないと!」
「うーん、まあそう言われれば」
「カメ子ちゃんきっちりの意味がね。違う方向に、ね」
順ちゃんラーメンに向かう途中、ショーコは支払いは割り勘にすべきだ、と何度か抵抗したが、その度に車輪をカメ子が蹴り、自転車の修理代との差額でどちらが得か?と詰め寄るカメ子に押される形で、ショーコは三人分のラーメン代を出すことを了承した。
「あ、ここね」
さつきは、順ちゃんラーメン、とのれんが掛かったプレハブを二つ繋げたラーメン店の前で止まった。
「じゃあ、ショーコ。ありがとう」
「高野さん。いろいろトッピングしようよ」
トッピングってどんなのあるの?うーんとチャーシューとか卵とかかなあ。海苔とかメンマもあると思うよ。へえ、よくわからないけどせっかくだから。うん、それがいいよ。
さつきとカメ子はトッピングの話をしながら、それぞれ自転車の鍵を掛けた。
「ちょ、ちょっと。そんなに乗せたら元のラーメンの値段越えちゃうよ!」
ショーコは慌てて自転車を停めてた後、のれんをくぐって引き戸を開けている二人を追いかけた。
ショーコ中古マンションを買う 終わり