4話
マッチ売りの少女が俺の前から消えてから数日が経った。
その間、俺の頭の中にはあのマッチ売りの少女の事が頭の中をグルグルと回って離れないでいた。
彼女が出演しているハリウッド版マッチ売りの少女の映画を何度も観かえし、あげくには円盤まで買ってしまった。
なぜあの時、マッチ売りの少女の擦ったマッチの炎の中に彼女の事情が映し出されたのか、今ならばわかる。あの時には俺はもうあの子の事が好きになっていたのだ。
「せめて、もう一度会いたいな」
日が沈みいつの間にか薄暗くなっていた室内で、マッチ売りの少女から買ったマッチの箱を見つめながらそれに彼女の面影を重ねていると、
「……? なんだ?」
遠くからサイレンの音がした。
何があったのかと窓を開けて外の様子を伺うと、焦げた臭いと共に立ち昇ったオレンジ色の光が夜空を照らし出していた。
「火事……か?」
どうやらそのようだった。最もオレンジ色が濃い部分から想像するにおそらく火元は近所の中華料理店付近。
消火活動はしているようだが炎の勢いは収まるどころか強くなっているように見える。この風の強さと向きだとこちらに来るかも知れないな。
「……っ」
俺は手に持ったマッチをポケットに突っ込むと、家を出た。
そして火元と当たりをつけた中華料理店の前に来ると、建物はもはや原型がわからないくらいにただただ巨大な火柱へと変貌していた。
ものすごい熱気。完全に大規模火災だった。あるいはこれから更に大規模な火災になるのか……。
消防士が必死にホースから水を掛けているが、全く効果がない。
多くの野次馬が見守る中、その野次馬の一人になって固唾を飲んで見守っていると、
「マッチを擦りたまえ」
いつの間にか、帽子を目深に被ったロングコートを着た男が隣に立っていた。
「俺に言ったのか?」
「君以外に誰が居る? マッチ売りの少女から買ったマッチを持っているだろう」
「!? なんでその事を。あんた一体……」
「いいからマッチを擦りたまえ。全ての話はそれからだ」
男はそれ以上は話す事はないとばかりに口を噤んでしまった。
くそっ、なんなんだよ。
心の中で悪態をつきながらも、俺はポケットからマッチ箱を取り出すとそこから一本マッチ棒を取り出し箱の側面で擦ると火を点ける。
その瞬間、中華料理店を包み込む巨大な火柱が揺らめいた。
なんだ?
更に近づけるように、火の点いたマッチを近づけるように手を伸ばすと明らかに火柱がざわつく。
嫌がって……いるのか?
荒唐無稽な話だが、俺の目には確かにそう見えた。俺が更に火柱に近づこうとすると慌てたように消防士が制止の言葉と共にやってくる。しかし、すかさずコートの男が間に割って入った。
「さあ、行くがいい」
「……」
俺が男の顔を目の端で一瞥すると、そのまま中華料理店から立ち昇る巨大な火柱へと一歩一歩足を進めて行く。
最初は小さな変化だった。しかし、近づくにつれてより顕著な変化として現れる。
やっぱり嫌がっている。
ぼんやりと思っていた事が確信に変わる。
俺が火を持って近づけば近づくほど、中華料理店を包み込んでいた火柱は逃げるようにうねり小さくなっていった。そして最後には黒こげになった建物だけを残して完全に炎が消えてしまったのだ。
何が起こったのかと周囲はざわついていたが、当事者じゃなかったら俺もその中に入りたいくらいだった。
何しろ俺にも何が起こったのかわからなかったのだから。
「何簡単な事だ」
俺が呆然としていると、コートの男が俺の隣に立った。
「ドライアドの枝毛から作られた最高級マッチにはサラマンダーの火を遠ざける効果がある。それはより強い火に喰われないようにする為にだ。娘からそう聞かなかったか?」
「娘だって……」
その時、俺は初めて男の顔を見た。間違いなく初対面だが、どこかでその顔には見覚えがある。
「心配はいらん。イタズラをしたサラマンダーにはイフリート卿からみっちりとお仕置きされるだろうからな」
薄い笑みを浮かべそう言う男の顔を見たのはどこだったかと考えて、俺ははっとマッチ売りの少女が灯した炎に映った映像を思い出した。
「あんた、マッチ売りの社長か」
「ほぅ、やっと気づいたか」
男は目深に被った帽子に手を伸ばすと、掴んで持ち上げた。
帽子がなくなった事ではっきりと現れた顔は確かに、あの時マッチの炎の中に映し出されていたマッチ売りの少女がマッチ売りの社長と呼んでいた男に間違いなかった。
そしてマッチ売りの少女はこの男の事をこうも呼んでいた〈お父様〉と。
「つまり、あの子の父親か」
「いかにもそうだ」
堂に入った構えで男が――マッチ売りの社長が肯定する。気がつくとあれだけ周りに居た野次馬達は姿を消していた。
変わりに現れたのは黒ずくめのマッチの籠を持った者達。
それが俺たちを囲い込むようにズラリと並んでいた。
「ああ、邪魔だったので少し人払いをさせてもらったよ。気にしなくていい。彼らは我が社の社員だ」
どうやらマッチ籠を持った黒ずくめ達を使って、消防士と野次馬達を追い出してここら一帯を占拠してしまったらしい。うーん、まるでマフィアだな。
「それでマッチ売りの社長がこんなに部下を引き連れて俺に何か用なのか?」
ちょっと声が震える。この状況でビビるなという方が無理な話だろう。
俺が警戒しながら言うと、マッチ売りの社長はふっと小さく息を吐き出した。そして改めて俺の顔を見ると、
「実は娘が君の事を大層気に入った様子でね。内気な性格なあの子があそこまで他人について熱心に語るのは珍しい。それでどれ程の男なのかと私が会いに来たというわけだよ」
「それはどうも」
俺がいまいち要領を得ずに返事を返していると、マッチ売りの社長が続けた。
「単刀直入に訊こう。君は私の娘、マッチ売りの少女の事をどう思う?」
「どう思うって……」
やっと相手が何を言いたいのか理解して、俺は逡巡しながら言葉を捜す。
「可愛い……と思うが。マッチ売りの少女の映画も何回も観たよ」
「ああ、可愛いな。私もマッチ売りの少女の映画はもう百五十回以上は観ているよ」
いや、それはさすがに観すぎだと思うが……。
「だが、私が訊いているのはそんな表面的な感想ではない。恋愛感情はあるのかと訊いているのだ」
「また、えらい直接的に言ったな……」
「いや、すまない。これはとても大事な事でね。ぜひ明確にしておきたいのだ。何しろ返答次第によっては君はここで死ぬ事になるのだから、こちらからの一方的な好意だけで君を殺すわけにはいかないだろう?」
「なっ……」
俺が死ぬ? 殺すだって? 何言ってるんだこのおっさん。
「どういう事だ?」
俺が眉を寄せながら訊ねると、マッチ売りの社長の目が細められる。
「君も薄々気がついているだろうが、我々は君ら人間とは異なる世界に生きている存在だ。婿にするというのならば一度この世界で死んで我々と同一の存在に転生してもらわなければならない」
「異世界……転生だと」
これはまさかウェブ小説でよくあるあれなのか……。
「よく考えたまえ、これは君の人生の岐路だ」
マッチ売りの社長は落ち着いた口調でそう言うと、思い出したように「ああ、そうだ」とポンと俺の肩を叩くと耳に口を寄せた。
「ところで君の事を少し調べさせてもらったよ。就職活動に失敗し、今は面接を受ける気力もなくバイト三昧の実につまらない人生を送っているようだね」
「!?」
「どうかな。私の会社に来ないか? まだ就職を諦めてないんだろう?」
「でも、あんたの会社に行くって事は死んで異世界に転生するって事なんだよな?」
「何か問題があるのか。どうせ大した人生でもあるまい」
言ってくれるなこのおっさん。微妙に当たってるのが悔しいが……。
「俺は――」
口を開きかけた時だった。
「お父様!」
黒尽くめのマッチ売りの壁を掻き分けて、赤いずきんを被った女の子が割って入ってきた。