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闇夜に警笛が鳴る。その街の中を二つの影は駆け抜けていた。新月。明かりなどない。でもまっすぐに走り抜けられるのは彼女がこの街すべてを把握しているからだ。長年培ってきたもの。自慢できる事では無いけれど。けれど隣の少年は凄いと言って笑った。何となくそれが嬉しい。
「ほんと。面白い。」
「マジかよ?泥棒なんて何がたのしいんだか?――俺は生きるためにやっているだけだし。」
隣で面白そうにけらけらと笑う少年。かなり走ったはずなのに息一つ乱していない。それに迷うことくリズにぴったりと付いてきていた。その様子は貴族と言うより兵士や騎士の動きによく似ている。動きすべてが洗練されていたのだ。たぶん戦いもそれなりの実力を持っているだろう。もっともそのことに何か言うつもりはない。
「一度やってみたかったんだ。」
けらけらと相変わらず笑う。豪華な衣服を脱いだ少年はさらにどこにでもいるような少年と変わらない。まぁ、楽しそうで何よりだがと息を付く。ただ暗闇の中彼女らと並行するように動く一筋の光をリズは見つけて彼女は顔を顰めた。それは彼女たちの周りを取り囲むようにして動いている。どのくらいの数だろう?
何だろうか?『局員』ではない。そんな気がした。
「囲まれてるねぇ?」
呑気な声に彼女は頭を抱え、彼の前に立つように剣をすらりと抜いた。なぜこの少年は何時でも笑っているのだろう?とにかく。この少年は逃さないといけないだろう。入って盗んだのは自分自身だと彼女は唇を噛んだ。
「……誰?」
暗闇から浮き立つように男が現れた。黒い衣服はまるで闇に溶け込むようでその白い顔だけが浮いているように見える。
「ただ、お迎えに上がっただけですよ?我が君。少し遊びが過ぎるのではありませんか?そろそろお休みになりませんと。」
「迎え?」
ロムの使用人だろうか?にしては気配が怖い。向けられる敵意に彼女はゴクリと唾を飲み込んだ。ただロムは幾分にも感じていないようで相変わらずにこにこ笑っている。いつもの笑顔だ。
「ルーファスよくわかったね。」
「レナードを締め上げました故。その女性も連れてかれますか?」
ロムは少し考えてリズを見た。
「いや、俺は――。」
遠慮したい。はっきり言って貴族の家は盗みに入るだけでお腹いっぱいだ。あんな堅苦しい世界のどこがいいんだろう?
「そうだね。僕の――妃。と言う事で通しといて?」
「……は。」
闇に消えるルーフアスを見送りながら彼女は思考停止した頭を働かせていた。
妃……木崎……いや、違う。キサキ。キサキって何だろう?――一般的に『奥さん』の事なのだろうけれど。
妃。
「え?あ?――は?」
困惑気味にリズはロムの顔を見た。彼は一つも悪びれた様子も照れた様子も無い。ニコリとここまでくれば悪魔とも思える笑みだ。
「だって君僕の願いを叶えてくれるんでしょ?――何でも。」
しれっと言った少年からダッシュで逃げ出そうとしたけれどしっかり首根っこを掴まれたことは言うまでも無かった。
我が君。ようやく知ったその意味にリズは絶望を覚えるしかなかった。連れてこられたのは立派な宮殿。白くまばゆいばかりの調度品――もう値段などリズでは見当がつかないほどその辺に転がっている。とにかく、一つか二つ。いや持てるだけもって逃げ出そうと考えながら彼女は『謁見の間』に通されていた。おまけに窮屈なドレスを着せられ、化粧まで……おまけに白いひげを蓄えた男――たぶん大臣?――とか睨んでくるし。そういえば先ほど部屋を出る前に立派な服に着せられた男が嫌味を言ってくし。
泣きそうだ。
「いやだ。帰りたい」
ぶつぶつ。ひたすら呪いの言葉を吐いていると見知った顔がいつもの笑顔――悪魔――を浮かべながらゆったりとした動きで目の前の椅子に座った。その姿も加わって威厳も何もない。にこにこ。リズの顔を見ている。
「あの?もう帰っていい?」
「やっぱり美人なんだね。スタイルもいいし。」
聞いてないし。そんな事どうでもいいし、帰りたいし。
リズは目の前の少年――この国の王『ロム=エゥリオン』を見つめた。だがおかしいのは国民が知っている彼の姿とここにいる彼の姿がかけ離れている。と言う事だ。確か国民の前にいつも出てくるのは白髭をふさふさと蓄えた威厳ある男で確か年齢も35歳。前王の死後15歳で王に付き今年で治世20年のはずだ。だがここに座っていると言う事は間違いないのだろう。誰も止めないし。レナードが怯えるのがよくわかった。
そういえば大体この国の王は在位二十年ほど――前後あるが――で王位を退く。
「――はぁ。何で……。」
「あはは。これでも僕は35歳だよ。僕じゃ威厳もくそも無いからね。弟に国民の前には出てもらってるんだ。」
何が?どこが?どう見ても同じ歳くらいだろう?言動も。彼女は言葉をぐっと飲み込んだ。何か言えばすぐに首が飛びそうだ。あははは。と笑う彼につられるようにしてリズも口端を上げ『あはは』と力なく笑った。
「あの?何で俺はここに?」
「命少ない僕に何でもしてくれるって言ったよね。好きな願い叶えてやるって。リズができることなら。」
ぐらり。頭痛がする。確かに言った。残り少ない命ならぼんやり生きているのはもったいないと――したい事なら何でも協力して叶えてやると。悔いを残さないように。だが到底リズにはロムが嫁を欲しがっているようには見えなかった。
「嫁になるとは言ってないし。」
「貴様に選択権は無い。」
リズの言葉にぴしゃりと隣で立っていた若い男が言った。騎士だろうか?精悍な顔立ちで腰には立派な剣を指している。彼女は彼を睨むように一瞥した。ここでの恨みを男に向けるようにして。ただ単に『王様』を睨むと絶対に殺されると言う自身があったので半ば八つ当たりだ。当然睨み返されたけれど。
「……もしかして、もうすぐ死ぬって、嘘か?」
「いいや。本当だけど?そんなウソ言っても意味がないよ?で。君が僕の願いを叶えてくれるんでしょ?」
彼は椅子から降り膝を曲げて座っているリズと目線を同じくした。吸い込まれるような深紅の双眸。まがい睫毛。薄い唇に滑らかな肌。整った顔立ちは誰もが見惚れる。それはリズだって例外ではない。我に返ると小さく頭を振った。まっすぐ彼の目を見据えて見せる。
「――あんたの願いは嫁に俺を入れることじゃないだろ?」
「そうだね。」
あっさり認めるとくすりと笑った。妙に大人びた表情だ。なんだか悔しい。ロムはすくっと立ち上がると近くの者に声を掛ける。
「我が姫は疲れたらしい。部屋に通しておくように。」
近くの家臣らしき男は『はっ。』と小さく声を上げた。
「帰りたいんだけど。」
(あんたの女でもないし。)
げんなりしてリズが呻いた。無駄に広い部屋を思い出す。何かの集会場か?ここはと言いたくなるほどの部屋の広さと無駄に豪華な調度品。柔らかすぎて眠れるはずの無いベッド。また近くのソファで眠る羽目になるらしい。――いつまで続くのだろうか?一日置いておかれただけで自身も調度品の一部となりそうだ。
逃げよう。そんな決意をしながら彼女は『奥』に消えていく少年の背を見送った。