5. 心配なヒト
すたすたと、ごく普通の足取りで廊下を進むトーコ。
そのトーコがある教室の横を通り過ぎようとした瞬間、その教室のドアが開いて両腕が伸びてきた。
「っ!」
声を上げる間もない素早さでその両腕はトーコを抱え込み、教室に引き摺り込み。
そして、胸の中に包みこんだ。
「ちょっ!?」
「……しー……だよ、トーコ」
驚き暴れようとしたトーコの耳に、心地よい美声が囁かれる。
それを受けたトーコの目がまんまるに見開かれた。
「…………何やってんの? ヤマト兄」
驚いた表情で見上げ抵抗をやめたトーコに、トーコを教室に引き摺りこんだ両腕の持ち主。
タケルの兄であるヤマトは艶やかに微笑んだ。
後ろ手でドアを閉めたヤマトはトーコを腕に抱いたまま、座り込んだ。
当然トーコもその場に座ることになる。
背中をドア近くの壁に預け、両足を投げ出して座るヤマトの膝の間に座り、その背をヤマトに預けるようにして。
その体勢になってから、ヤマトは満足げに笑って、両腕を緩くトーコの腰にまわした。
「なんかすごく久しぶりな気がするな。トーコ、元気?」
「……割とちょくちょく顔を合わせてる気もするんだけど」
「顔を合わせるだけでしょ。挨拶くらいしかしないじゃない」
「まぁねぇ……」
こつんとトーコの頭の上に自分の顎を置く。
嬉しそうなヤマトに困った顔をするしかない。
「こういうとこ見つかったらまずいんじゃない?」
「大丈夫。ここには誰も近づかないようになってるから」
ちょっと見上げて、問うトーコに返される言葉の意味。
それを聞いて、納得したという小さくうなずく。
「カナメ先輩ね?」
「うん」
カナメ先輩。
それはヤマトの公認親衛隊隊長。
ヤマトにはファン組織としての親衛隊が存在し、その男子部、女子部の統合長を治めるのが彼女。
ある意味ではヤマトの秘書と言えるかもしれない。
これが、トーコがヤマトを心配する理由だった。
トーコは中学時代に、学校倉庫に閉じ込められたことがあった。
犯人はヤマトに恋情を抱く女生徒達。
一晩、行方不明で捜索願まで出す騒動となり、青ざめた犯人の自首によりトーコの居場所が判明、保護されたのだ。
その事件のことを、ヤマトはとても気に病んでいた。
俺のせいでトーコが。
ごめん、トーコ。
ゴメン。ゴメンな。
朝になったら誰か見つけてくれるでしょ、あー、おなか空いたなぁ、などと呑気に一夜を過ごしたトーコを待っていたのは、ぎゅうぎゅうに自分を抱きしめながら謝罪するヤマトだった。
もう、トーコがいくら『大丈夫だよ』と言っても、その耳には届かない。
翌日からヤマトは自分のファン達の統率に入った。
上下関係、情報伝達制度。
誰かが暴走して不祥事を起こさないように。
自分の周りの誰かが傷つかないように。
それは、ヤマトが今まで避けてきた、自分の偶像化に近い行動だ。
本当の、素のヤマトを見ることのできる人間が限りなく少なくなる。
飾らないヤマトを見る人は家族とトーコだけになった。
信頼する親衛隊長のカナメには気を許しているようでもあるが、それでも一線を引いているのだろう。
トーコが心配するのは、ヤマトの孤独が癒されないままなこと。
ヤマトを理解する彼女が早くできて、傍に寄り添って欲しいと思うのに、おいそれとは近づけない。
作られたヤマトしか見えない。
それは、とても寂しいと思うのだ。
タケルよりもずっとずっと心配なひと。
だが、今日のところはトーコよりもヤマトの方が心配度が大きいようだ。
「トーコ、大丈夫?」
「ん? 何が?」
「呼び出されたって聞いたからさ」
「…………もう知ってんの?」
朝のHR前の約束を二学年上のヤマトが把握している。
ヤマト親衛隊の情報網はすでに一年まで手が伸びているのだとわかる。
「そりゃあね」
腰にまわした腕をぎゅっと引き寄せる。
「ヤマト兄、ちょ、苦しい……っ」
「どうしてトーコが矢面に立ってんの。ダメでしょ、そういうことしたら」
「あう……」
『トーコは普通なんだから』
敢えて言葉にしなかった想いに口ごもる。
それはトーコを否定するのではなく、トーコの無茶をたしなめるもの。
今までにいくつかの無茶を行い、その結果心配をかけた事実があるだけに反論できない。
「俺は、トーコには今まで通りでいてほしい。トーコがトーコであるなら、それが『普通』ということならそれでいい。だからあんまり無理はしないこと」
「はぁい」
その声は真剣でトーコも受け入れるしかない。
「今回はちゃんと伝えることが必要だと思ったからさ。向こうの出方はわかんないけど、私なんかを気にしてる場合じゃないでしょって釘はさしてきた」
「……トーコはタケルが変わった原因を知っているんだね?」
「うん。ヤマト兄は聞いてない?」
「ああ。…………それを聞いてトーコはどう思った?」
「どうって……」
「悪いことだと思ったかどうか、ってこと」
「ああ……うん、それはないよ。タケルはちゃんと間違えずに進むよ」
「じゃあ、大丈夫かな」
弟を心配する声に口元がゆるむ。
心配しても、押し付けたり、無理に聞き出したりしない。
そんなヤマトを尊敬する。
二人の兄弟の絆が嬉しくなった。
そして、その中に自分の感想が全面的に取り入れられる。
その信頼がどれだけ幸福なことか。
「タケルに彼女できそう?」
「どうかなぁー……あの三人の努力次第、と言いたいところなんだけど」
タケルの目に恋情を引き起こす熱が見えないことが気にかかる。
「ところでヤマト兄は?」
「俺? 俺が一等大切な女の子はトーコだよ」
「もう! そうじゃないよ! ソレ、妹としてでしょ!」
「バレたか」
背中が笑いで震える。
その心地よさに怒る気も失せて。
「…………ヤマト兄もさ」
「うん?」
「誰か見つけることができるよ、きっと」
「…………」
「その時までさ……ううん、その後も。私はいるから」
「…………ああ」
心からの想いをこめた声で呟くと、返される囁き。
声音に、隠しきれない寂しさと諦めを感じて、目を伏せる。
それから。
二人、空き教室で身を寄せ合いながら、ぬくもりだけを共有した。
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