48. 壊れた仮面
「う……」
保健室に小さな呻き声が零れる。
「トーコさん?」
それに慌ててカナメはカーテンの内部を覗いた。
「カナメ、せんぱい?」
少しかすれた声で返された言葉に、トーコの覚醒を知る。
「……保健室?」
今の状況がいまいち掴めないのか、ぼんやりとした口調で呟いたトーコに慌てて近づく。
「気分はどうですか?」
「……ああ、そうか、私」
心配そうなカナメを前に、ようやく意識をとばす前のことを思い出したらしく、苦笑する。
「すいません、お世話おかけしました」
「トーコさん、私は気分はどうですか? と聞いたんですよ」
体調を伺う台詞よりも、謝罪を優先させたトーコに、声が少し刺々しくなった。
それはトーコの明らかな拒絶で、わかりやすい逃避であると気づいたからだ。
触れないで。
優しくしないで。
そんな言葉が聞こえた気がした。
普段なら、それを尊重してあげてもいい。
だけど、今日は違う。
例の『彼』が姿を消してから今日まで、トーコがこうした不調を表に出すことはなかった。
少なくとも、カナメは聞いていない。
つまり今の彼女は、いつもの冷静さとはほど遠い不安定な状態なのだ。
それをわかっていて、見過ごすことができるほど、彼女はどうでもいい存在じゃなかった。
自分にとっても、敬愛するヤマトにとっても特別な女の子。
「トーコさん」
「ごめんなさい」
重ねて呼ばれた名前にため息をついて肩を落とす姿を見つめる。
「少し、頭が痛いです」
「もう一度熱とかはかっておく?」
「や、多分大丈夫です」
「そう」
「あの、ところで」
心配そうなカナメに申し訳ないと思いながらも言葉を続ける。
「あれから、どれくらい経ちました?」
意識を失ってから今まで。
その問いが本当に経過時間を知りたいだけではないことを悟って、カナメが沈黙した。
「それは……」
少し迷って口を開こうとしたカナメの後ろで。
コンコン、とドアがノックされる音。
「失礼いたします」
控えめなノックと入室を告げる声はエリシアのもの。
「トーコお姉さまはどうですか?」
問いかける声に、トーコは深く吐息をついた。
(遅かった、かぁ)
その声に、迷うカナメの様子に、自分の不調がヤマトやタケルに知れたことを知ったトーコは、深く重たいため息をこぼした。
それはきっと彼らの心のしこりとなり、苦しめるだろう。
それはトーコがもっとも避けたかったことだった。
(駄目だなぁ)
もう、本当に。
自分はどうしてこう下手くそなのだろう?
完璧になりたいとは思わないが、それでももっと、もっと彼らにとって助けとなる人間でいたいのに。
何もかもが不十分で、こんな時だけは普通の自分を呪いたくなる。
(これでは駄目だ。全然駄目だ)
守る、と約束したのに。
彼らを。
それは大切な、何より大切な誓いだったのに。
「あの……お姉さま?」
「エリシア」
気遣わしげに問う声に苦笑を向ける。
「ごめんね。心配をかけて」
「いえ。お姉さまが謝るようなことは」
「うん。ごめん。…………タケルも」
エリシアの後ろで、気難しげな顔をしているタケルにも声をかける。
「さて。もう大丈夫だし帰ろっか」
「待って下さい。トーコお姉さま」
「うん?」
ベッドから降りるべく身じろぎしたトーコを、エリシアが制した。
「少しお話をさせて下さい」
そう言ったエリシアの表情は酷く緊張していた。
(え、何で?)
話をしたいなどという突拍子もない提案よりも、その緊張ぶりの方に驚く。
その場にいる誰も知らない。
今、エリシアは何度も同じ言葉を心の中で繰り返し、心を奮い立たせようとしていた。
(だ、大丈夫。大丈夫。私もちゃんとできる)
ぎこちなく、ベッドの側にある椅子に腰掛ける。
(ちゃんと、『お手本』を見せてもらったでしょう? エリシア! しっかりしないと)
周囲にはカナメ、タケル、エリシアから少し離れたところに、三人娘。
キースはエリシア警護のため、ドア近くに静かに控えている。
保健室のドアについた磨り硝子越しに見える人影はヤマトだろうか。
そんな中でエリシアは、息を吸い込んで呼吸を整え、きりっと表情を引き締める。
「さっき、トーコお姉さまの話を聞きました」
「……うん」
それに少しの沈黙をおいて頷く。
ただ静かにその言葉を受け止めることができたのは、既に予測できていたからだ。
ばれているだろうと、思っていた。
必死で張った虚勢と、作り上げた優しい姉風の仮面はもう壊れてしまった。
苦しさに喘いで、替わってくれと叫んだ時点で、もうボロがでたのだ。
「がっかりしたでしょ? ごめんね」
肺の奥から吐息を吐き出して、力ない声でそういったトーコの顔は、笑みを浮かべていた。
自然と浮かんだ、苦笑のような顔。
だけど、それは、疲れきった老人のようで、見る者の胸を締め付ける。
「せっかく、お姉さま、って呼んでくれたのにね」
実はちょっと嬉しかった。
あんなに真っ直ぐな憧憬を向けられて嬉しくないはずがない。
エリシアはそれにきゅっと唇を噛む。
「そっちも」
次に視線を向けたのは、離れたところに立っていた三人娘。
「あんなに、君らのこと自分のことしか考えてない、って詰ったのに、私だって同じだった」
自分を保つために、三兄弟にすがりついたも同然な自分を知っている。
本当は、三人が自分から離れることが何より怖かったのだ。
そう言われた三人が何かを返そうとして、言葉にならず目を逸らす。
「家族だって言いながら、守るからって言いながら、一番私が、しがみついてたんだよ。ごめん」
更にタケルを見てそう言ったトーコに、険しい口調がぶつけられた。
「いいかげんにしろよ、トーコ」
その声に、空気が凍った。
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キースの立ち位置を書き足しました。