39. 眠れない夜
ひとしきり吐いて、ようやく落ち着いたトーコは口を漱いでキッチンへと向かった。
水でも飲んで落ち着いて、ああでも、たぶんもう眠れない。
重たい身体と痺れたような思考の中、キッチンの電気をつけて。
「……おい」
「…っ!?」
背後からかけられた声にびくっと震えて振り返る。
そこには困惑した表情のキースがいた。
「あ…すまん。脅かすつもりじゃ……」
「ああ、そうか。うん、そうだ。君もいるんだった」
「どういう意味だ…」
「いや、そうじゃなくてさ……うん。ごめんね、起こした?」
キッチンの隣はリビングだ。
そもそもトイレも一階にある。
騎士だという、所謂戦闘職の彼には動きまわる人の気配は立派な睡眠妨害だろう。
いつものように、と自分に言い聞かせながら笑ってみせるが、それに困ったような顔をして。
「そんなことは気にしなくていい。……大丈夫か?」
蛍光灯の下、青ざめた顔。
吐いていたであろうことも、薄々とばれているようで。
「あー……大丈夫大丈夫」
「とりあえず座れ。水だな?」
「いやいいから、自分で」
「大人しく座ってろ」
そっと伸ばされた手がトーコの手を掬うように取って、手慣れた仕草で椅子にエスコートされた。
その様子に少なからず驚く。
「すごい、騎士みたい」
「騎士だって言ってるだろうが。全く」
茶化すように言っても、呆れたような口調で流されて、仕方なくそこに腰を下ろした。
ガラス戸の食器棚からコップを取り出す彼に、冷蔵庫の中のミネラルウォーターを所望。
そうすると、慣れない手つきで水を注ぎ、トーコに手渡してくれた。
「ありがとう……」
受け取ったコップの冷たさがひどく心地よくて、トーコは微笑んだ。
「ありがとう……」
そう言って微笑った彼女はとても儚く見えて、どくんと心臓が震えた。
生意気な女。得体のしれない女。
そう思っていたのはほんの数時間前まで。
互いに就寝の挨拶をして別れるまでそうだったのに、深夜部屋から飛び出してきた彼女は、ひどく弱っていた。
顔色の悪さはもとより、眼の強さが違う。
何かに打ちのめされたかのような様子に、悪態もつけない。
「何かあったのか?」
「何も」
返された即答に目を瞬く。
そして、反射的に返した言葉が自分でもぶっきらぼうだと感じたのか、言葉を添えてくる。
「怖い、夢を見た、だけだよ」
自分に言い聞かせるように、一言一言、呟く。
コップの水を見つめるように俯いた顔は、表情を窺わせない。
「タケルを呼ぶか?」
自分では話せないことなのかと推測し、そう言った瞬間、彼女、トーコはがばっと顔をあげた。
「っ駄目!」
いきなり強くなった口調に驚いて身を引く。
「あ…」
それに気まずそうに眼をそらす。
「ごめん。できれば、内緒にしてて」
「わかった」
そうとしか答えられなかった。
トーコが、ひどく傷ついた顔をしていたから。
落ち込んでいる少女に何をしてやればいいのか。
ああくそう、もっとこういう時の対処法なりを学んでおけばよかった。
何故自分は女性を避けて育ってきてしまったんだろう。
女性や子供、弱者は守るべき。騎士の美徳で信念。
だけど、かける言葉一つ持たない自分がはがゆい。
ましてや自分は彼女を何も知らない。
恐らくこの表情は、限られた人間しか知らないものだ。
『特別』な姿。
そう思った瞬間、胸の奥がざわつくのを感じた。
初めて見た時は、女性らしさを持つ身体をしていながら恥じらわないところに驚き、うろたえた。
会話して、エリシアを威嚇するところに憤慨した。
泣かしたと聞いて激怒して、でも、それすら嬉しそうなエリシアや絶対的な信頼を寄せるタケルに困惑した。
タケルの兄であるという男に、タケルに、どこか苦々しい思いを寄せられている姿が不可解で、行動の一つ一つが理解不能。
そんな彼女がこうして、傷ついている。
弱った姿を見せている。
その事に、優越感のような何かを覚えている自分に狼狽する。
「ここに、いた方がいいか?」
慌てて声を出し、そっと窺う。
「ごめん。寝ていいから」
「いない方がいいか?」
いたところで何もできない。
そんなことは、キース自身も分かっている。
それでも、隣にいたいと思った。
だが、トーコは。
「うん、できれば」
「………………わかった」
控え目な、それでいて決定的な拒絶に、内心の想いを押し殺して背を向けた。
リビングのドアを開け、くぐる直前。
「…ありがと」
小さな謝意が届いて、反射的に振り返りそうになる。
一瞬動きを止めて、振り返らないまま小さく手を振ると、キースは扉を抜けてリビングへと移動する。
そして。
(これはもう、朝まで眠れないな)
そう嘆息しながら、それでも形だけはとソファーの上で毛布をかぶった。