23. 彼の思い
『サクヤさん』
幼いその少女の声は、いつだって愛情と好意で溢れている。
彼女以外ならうざったいと思ってしまうのに、その声だけは心地よかったのだと気付くのに、数年を要した。
炎の中から助け出した少女が何の衒いもなく、大好き、と繰り返すのはこそばゆく、面映ゆい。
誰かと比べた上での感情ではなく、ただ自分だけを見て、自分だけを『特別』にしてくれる。
自分だけしか知らない。
自分だけしかいらない。
同年代だったら、年上だったら。
重たかったかも知れない。
だけど、十も年下の女の子だ。
いずれ大人になり、周りを見て気が変わるだろう。
だからそれまで、少女が大きくなるまで、その一途な思いを独り占めしても許される。
それに甘んじていればいい。
そう考えていた。
それが彼女、トーコの思いを軽いものとみくびっていることに気付かずに。
当時のサクヤは荒れていた。
何をするも、割と簡単にできてしまって手ごたえはなく、それによって集まる嫉妬を初めとした悪感情は直接ぶつけられることがないゆえに、遅行性の毒のように周囲とサクヤの精神を蝕んだ。
わかってくれる友人もおらず、親はむしろそんな無能は切り捨てろ、もっと高みを目指せと口うるさい。
やたらと構いたがる女子もまた一方的で、サクヤの気持ちをわかろうとする者もいない。
ましてや、ステータスとして、周囲に自慢できる彼氏としてのサクヤを欲しがるものすらいた。
いつも一人でイライラして、全てを否定して。
そんなサクヤが唯一くつろげる場所。
そこが敬愛する姉の家だった。
父は姉のことを、度し難い、どこの馬の骨とも知れん男の元にいった親不孝者、ああはなるな、と散々に罵倒した。
由緒ある我が家の能力を受け継いだお前は完璧であれ。
他者に負けるなかれ。
そう繰り返す父に反発して喧嘩になるたびに逃げ込んだ、温かい家。
顔を見せると嬉しそうに駆け寄る子供たちが、心配げに労わってくれる姉と義兄が救いだった。
その場所でだけ、サクヤは笑顔でいられる。
子供たちとは一緒になって遊んで、時にヤマトとタケルに武術の稽古をつけた。
最初は驚いた。
彼らは自分から、戦い方を教えて欲しいと言ってきたのだ。
『強くなりたいんだ。だからお願い』
真剣な顔の二人の、強くなりたい理由。
それは母を、妹を、幼馴染を守る為。
強制的に覚えさせられた、自分とは違い、彼らの意思で。
頭をガツンと殴られたような衝撃が、サクヤを襲った。
幼い甥っ子達は、強くなる為、成長する為、努力している。
では、自分は――――?
父に噛みついて、世を拗ねているだけか?
他者を遠ざけて、全てを否定しているだけか?
(変わらなければ)
――――今のままでは、子供たちにも劣る。
(進まなければ)
――――今の自分に、彼らの真っ直ぐな憧憬を受け取る資格はない。
自分で自覚した弱さ。
みっともない、浅ましさに恥じ入る。
そんな自分にかけられた言葉。
『サクヤさん』
真っ白のワンピースを着た少女はまだ小学生だった。
『私ね、決めた。私は何も人に自慢できる特技なんてない、普通のコだけど、私も何かを守れる人になる』
にっこりと笑った純粋な笑顔。
『私は、サクヤさんが大切にしてるものを守れるようになるよ』
その言葉に呆けたように口を開けた。
『サクヤさんが大切なもの。家族。私は、私にできる方法で、ヤマト兄やタケルや、ミコトちゃんを守る。コノハナさんも無茶しないように見とく』
ぐっと小さな手で拳を作って。
『頑張るね! 私も』
相変わらずぽかんとしたままのサクヤを置いて、ちょっと恥ずかしそうに笑った後、トーコは駆けていった。
それを見送って、数秒。
膝が砕けたようにしゃがみこむ。
(ああもう。完敗だ)
ここまで言われて、見せられて。
ただいじけているわけにはいかないじゃないか。
彼らに相応しいように。
サクヤは、ようやく歩き出すことを決めた。
大学で知り合った人物を通じてあるアメリカの会社にスカウトされたサクヤが、コノハナ宅を訪れることは減ったが、長期の休みが取れるたび、逢いに行った。
自分のスタート地点を確認するように。
その頃には甥っ子二人と、トーコは中学生、ミコトも小学校に入っていた。
逢うたびにどこかしら、色気のような物を感じさせるようになっていったトーコが末恐ろしいと思いつつも、もうそろそろ他に気になる男子くらいいるのではないかと思い始めていたころだった。
長期休暇をゆっくりとコノハナ宅で過ごし、アメリカに帰るその日。
トーコもまた見送りに来た。
上半身の体格がはっきりわかるワンピースをきた少女の胸元が、女性らしくなってきていることに気付いて、どきっとしたのはここだけの話だ。
『じゃあ、またな。休み取れたら来るから』
いつものように笑って、軽く手をあげる。
そんなサクヤを、いつになく真剣な顔でトーコが見ていた。
『ん? どうかしたか?』
『ううん。…………あのね、サクヤさん』
『おう』
視界の端、にやにや笑っている姉に嫌な予感を覚えつつ向き直ると、真っ直ぐにサクヤだけを見て、トーコは言った。
『行ってらっしゃい。サクヤさん。それと、』
すぅっと一回息を吸い込み。
『大好きです』
『ぶっ!? え、な!?』
今まで何度も繰り返された愛の言葉とは違う。
その一言に込めた思いの重さが分かる声音に、かっと顔が熱くなるのを感じた。
周囲にいた他の子供らも、顔を赤らめてびっくりしているのも視界に入らない。
そんなサクヤを、当のトーコはちょっと驚いたように見て、コノハナの方を見る。
コノハナは大成功、と言いたげな満面の笑みだった。
『姉さん! トーコに何吹きこんでんだよ!』
『なぁによ。あんたがなんの動揺もしなかったら、もう諦めなさいと説得しようと思ってたのよ』
『ちょ!?』
とんでもないことを言い出す姉にひきつった表情になる。
そして、ちらりとトーコに視線を戻すと、トーコもまたサクヤを見ていた。
『…………ええと、だな』
真っ直ぐな視線にちょっとたじろぐ。
そんなサクヤを見て、トーコは、ちょっと悪戯っぽく笑う。
『少しは脈あり?』
ちろっと見上げる上目づかい。
『~~~~~~っ!? い、行ってきますっ!』
『はい、行ってらっしゃい』
引きとめることもせずに、朗らかに送りだすトーコを前に、逃げるように家を飛び出した。
それが、最後の逢瀬だった。
「おい! 起きろってサクヤ!」
「……あと五分」
「ふざけんな! 起きろ!」
「ぐお!?」
ごっと凄い音を立てて振り降ろされた拳に、呻いて起き上がる。
「何しやがる! このまま死後の世界に行くかと思ったわ!」
「おーおー、『行ってらっしゃい』」
「…………」
「なんだよ」
「『大好きです』が足りない」
「ああ!?」
「いや、お前じゃ役者不足だな。忘れろ」
「寝ぼけてんのか、全く。それよりいきなり魔物の数が減った理由がわかったぜ」
「お?」
ごそごそと寝具を片づけ出すサクヤの背中に、今仕入てきたばかりらしい情報を躊躇わず口にした。
「勇者だ」
「ああん?」
「異世界から召喚した勇者が、魔物のゲートを塞いだらしい」
「……異世界?」
その単語に表情が真剣になる。
「ああ、北の国の姫さんが召喚した、タケルっていう名前の勇者が世界を救って、自分の世界に帰ったんだって言う話が……」
その話を最後まで聞く前に、サクヤはがばりと振り返り、がしっと肩をつかんだ。
異世界。
タケル。
それは自分の大切な家族であり、心優しい甥っ子の――――。
「詳しい話を聞かせてくれ!」
すがりつくようにして叫ばれた声は、二人が野営していた森に吸い込まれるように響いていった。
しつこいようですが、この話はロリコンを推奨するものではありません。
しかし、少女の白ワンピは正義だとおもうのです。