20. 麗しの女性
日曜日の昼間。
トーコはのんびり過ごしていた。
特に用事もないし、後で近くの本屋を覗きに行こうかな、などと考えながら部屋でごろごろする。
至福の時だ。
お隣は今日は静か。
ヤマト兄は生徒会絡みの用事、タケルはあの三人に付き合ってどこかに出かけているようだし、ミコトもまた友達のところなのだろう。
(重畳、重畳)
平和とはかくも素晴らしい。
そんな益体もないことを内心で呟く。
「トーコ!」
そんなトーコを呼んだのは母だった。
声が発せられたのはキッチン。
「何?」
首を傾げながら足を踏み入れたキッチンには美味しそうな香りが充満している。
その香りの元を探し視線をめぐらすトーコに、母は一つの指令を下した。
「お隣におすそ分け持ってってちょうだい」
「今日はロールキャベツ?」
「そうよー。今日はハナちゃんも帰ってるみたいだから多めにしといたの」
「了解。届けてくるー」
「よろしく言っといてね~」
「はぁい」
言われて差し出されたタッパーを受け取る。
のんびりした口調の母に頷いて玄関に向かう。
「ハナさん帰ってるなんて珍しい……」
母にとっては友人であるハナちゃん。
彼女はタケルの母親だ。
「お邪魔しまーす」
チャイムも鳴らさずに玄関を開けて室内に声をかける。
返事はない。
「トーコですけど、おすそ分け持ってきましたー」
…………。
やっぱり返事はない。
「仕方ないか。あがりますねー」
小さく吐息をついてサンダルを脱ぐ。
勝手知ったる他人の家とは正にこのことで、タケルの両親からも自由に出入りしていいと許可をもらってる。
悪びれず家に侵入して、冷蔵庫のあるキッチンを目指す。
その途中で――――。
「あ……」
思わず上がりかけた声を慌てて押さえた。
ダイニングキッチンに続くリビングのソファーに人影を見つけたからだ。
ちょっと広めのリビングはこじんまりした庭へと繋がるサッシがあり、そこは開け放たれ網戸にされていた。
さらりと頬をくすぐる心地よい風は、そこから流れ込み廊下へとそよぐ。
壁紙に合わせたベージュのソファーに横たわるのは、少し光沢のあるグレーのスーツを着た女性。
艶やかな黒髪はサラサラのストレート。胸元くらいまであるそれが重力に従い、床に数筋流れている。
しなやかそうな肢体は、出るところがでて、へこむべきところはへこんでいるナイスバディで、整い過ぎた美貌は目を閉じていて尚よくわかる。
とても三人の子供を産んだ母親とは思えない。
しかし、その女性こそがお隣の三兄弟を産み落とした三児の母、コノハナだった。
「…………もう」
ふぅ、とため息が零れる。
しょうがないなぁ、と内心で呟いて、ひとまず近くのテーブルにタッパーを置いて隣室へ。
御座敷のある隣室の押し入れを開け、薄手のタオルケットを取り出したトーコは、極力足音を殺して傍に歩み寄った。
ふわり。
そんな柔らかさで無防備に眠る女性を包み込む。
寝息と寝顔を確認。
起きた様子はない。
やれやれ、と吐息をついて、改めて、足音を殺してダイニングキッチンへと向かった。
コノハナがこんな昼間に家にいることは稀だ。
普段は夫の経営する貿易会社で、やり手営業として日夜忙しい日々を過ごしている。
その仕事は経営や経済に詳しくないトーコでも推測できるほどに過酷だ。
その為、家に帰れないこともしばしばあり、その間三兄弟はトーコの家に預けられていた。
これもまた、トーコと三兄弟が根強い兄弟感覚を与えた原因の一つであろう。
(今日も疲れてるみたいだなぁ……)
顔よし、スタイルよしの美女で、更に言うと人当たりも良く頭もよい才女だ。
完璧と呼ばれ、憧れと言われ、高嶺の花と遠巻きにされる。
だが、トーコにとっては、夫を助ける為仕事に全力を尽くしながらも、子供達へ割く時間をどうにか捻り出そうと奔走する、ちょっと無理をし過ぎるとこのある女性だ。
冷蔵庫にロールキャベツ入りのタッパーを収納しながら、しみじみとため息。
(もうちょっと肩から力を抜いてもいいのに)
気遣わしげな吐息を零しながら思考していたトーコの耳に、くすくすという押し殺した笑い声が聞こえたのはそんな時だった。
「……?」
ソファーの上には横になったコノハナの姿。
それは先ほどと全く変わりがなく…………。
(いや、ちょっと姿勢が変わってる……?)
「……起きてますね?」
確認するようにそう問いかけると、ほっそりとした指先が動いてタオルケットの端を摘み、口元を隠すようにくいっと引き上げられた。
悪戯っぽい光を宿した瞳が笑みに和らぐ。
「ってか、寝たフリしてたんですか? 『おばさん』」
「酷いトーコちゃんっ! コノハナさん、又はハナさんって呼んでって言ってるのに!」
「はいはい、コノハナさん」
表情豊かに答える彼女の傍に歩み寄る。
近づくトーコを目で追いながらも動く気配がないコノハナに苦笑した。
さらりとした手触りのい草仕立てのカーペットに膝をつく。
コノハナの長い黒髪は重力に従い、肩口から下へ。
そのカーペットにも触れていて、ふとそれが気になったトーコは無意識に指で掬いあげて、整えた。
「んふふ、ありがと、トーコちゃん」
「いいですよ。……それより、部屋に戻って寝た方が」
「んー……もうちょっとココがいいかな。風が気持ちよくて」
「でもスーツも着たままで」
さわさわと吹き込む風を感じるように目を閉じるコノハナの目の下には、うっすらとした隈。
化粧で隠されているソレが見えて深いため息が零れた。
「本当に、ヤマト兄といい、タケルといい、コノハナさんといい……。頑張り過ぎ!」
自分には手伝えない事で無茶ばかりする三人に本音が漏れる。
普通な自分のもどかしさ。
どうすればこの人達を助けられるのか。
考えても考えても足りない。
手が届かない。
「心配ばかりかけてゴメンネ?」
思わず表情を曇らせてしまったのだろう。
そんなトーコを愛おしげに見つめて微笑む。
幸せそうな微笑みだ。
「何ですか」
「ううん、なんでも」
緩く首を振るコノハナを訝しげに見る。
トーコは分からない。
当たり前すぎて。
コノハナは伝えない。
無意識の慈しみ。
無条件の心配。
無制限の愛情。
それが嬉しかったから、なんて。
それらが与える安心感は、確かに依存したくなる。
ある意味において、トーコの当たり前の愛情というものには、麻薬に近い魅力があるのだということを、トーコが自覚する日は多分こないのだろう。




