最凶左腕ラブブレイカー
地区予選決勝の三日前、佐伯克也はスコアブックの山と向き合っていた。
三十七歳、私立翔陵高校数学教師。野球部監督就任から四年、スポーツ科学とデータ分析に基づく指導で弱小校を地区決勝まで引き上げた男が、今ひとつの謎に直面していた。
「出してくる投手が読めない」
机の上には対戦相手、北央高校のデータが広げられている。防御率一点台、奪三振率の高い技巧派エース、宮田。球種豊富で制球力抜群。順当に考えれば決勝のマウンドはこの男だろう。
問題はもう一人だ。
二年生の速球投手、水島健吾。ストレートとスライダーだけのシンプルな投球スタイルの左腕。球速は宮田より上だが、試合ごとに成績がばらつく。完璧に抑え込む試合もあれば、四回も持たずに崩れる試合もある。
「何が違う」
佐伯はデータをもう一度洗った。気温、風向き、球数。何かを見落としているはずだ。
「先生、もしかしてなんですけど」
マネージャーの田中優香が顔を上げた。二年生で、部内では情報通として知られている。選手のコンディションから対戦校の噂話まで、なぜか彼女のところには情報が集まってくる。
「何だ」
「水島くんって、試合ごとに成績ばらついてますよね。完投勝利の試合と、早々に崩れる試合」
「ああ」
「対戦チームの打者、彼女いる人といない人で分けてみたら、どうなりますかね」
佐伯はペンを止めた。
「…何だそれは」
「いや、なんか気になって。ほら、こっちの試合、水島くんが完璧だった西峰高校。調べたら野球部員ほぼ彼女いないんですよね。で、こっちの五回KO、有馬工業。彼女持ちの選手が多い学校で有名で」
「…なんでそんなことに詳しいんだ。まあ、なにはともあれそれは偶然だろう」
「そうですよね。バカなこと言いました」
二人は同時に笑い、データに戻った。
佐伯はその後一時間かけて分析した。投球フォームのブレ、対戦打者のアプローチの傾向、ベンチの動き。すべてを検討した末に出した結論は変わらなかった。決勝で北央が最も重要視するのはエース温存ではなく確実な勝利だ。宮田で来る。
翌朝、佐伯は部員たちに宮田対策の練習を指示した。
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試合当日の朝、北央高校のアップを見た瞬間、佐伯は眉をひそめた。
ブルペンで投げているのは宮田ではなく、水島だった。
想定外ではあるが、対応できないわけではない。球速重視の打撃練習もしている。問題ない、と佐伯は自分に言い聞かせた。
試合が始まった。
一番打者の東田が打席に立った瞬間、佐伯は何かを感じた。うまく言葉にならない何かを。
水島がセットポジションに入る。その目が、妙に据わっていた。
初球、外角のストレートが吸い込まれるようにミットに収まった。球速表示は一四四キロ。データと変わらない数字だ。なのに東田のバットがまったく動かなかった。
二球目、インコースへのスライダー。東田が詰まって内野ゴロを打った。
次の打者も、その次も、同じだった。翔陵の打者たちが次々と凡退していく。佐伯はスコアブックを見た。球速は計測値の範囲内だ。変化量も想定通り。なのになぜ、誰も捉えられない。
三回が終わったところで佐伯は気がついた。
水島の目が、打者ごとに違う。
三番の木村と対峙したとき、水島の目から一瞬だけ、あの据わった光が薄れた。ほんのわずかだが、佐伯には見えた。木村は外角のスライダーを拾って内野安打にした。出塁を許した唯一の場面だった。
四番の石橋と対峙したとき、水島の表情に何かが宿った。怒りとも違う、執念とも違う、説明のつかない何か。石橋は三球三振だった。
しかし、濃淡はあるとはいえ、ここまでの水島の活躍は圧倒的だ。
データからは推し量れない何かに由来するのか。それとも分析にあたって重要な何かを見落としているのか。
(……見落とし)
佐伯は先日の田中との会話を脳内で巻き戻した。
『対戦チームの打者、彼女いる人といない人で分けてみたら、どうなりますかね』
腕を組み、しばらく考え込む。
(…まさかな)
だが、可能性があるならば検証は必要だ。
「田中」
意を決した佐伯はマネージャーを呼んだ。
「うちの部員、彼女持ちは何人いる?」
田中が目を見開いた。
「え、今それ関係ありますか?」
「答えてくれ」
田中はしばらく考え込んだ。彼女は部内の事情にやたら詳しい。
「全員だと思います」
「全員?」
「全員です。キャプテンの石橋先輩が二年つきあってる吹奏楽部部長、しかもめちゃくちゃ美人です。他も大体みんないます。エースの吉里君に至ってはおさななじみのチア部部員ですよ。しかもすごい可愛いんです。小学校の頃から付き合ってたも同然だったという話もあるくらいです。あ、あと東田先輩も最近できたって言ってました。ただ、すごいブスだそうです」
各部員の恋愛事情を目を輝かせながら事細かに、そして早口でまくしたてる田中に佐伯は目を丸くする。
「なんでそんなところまで把握しているんだ?」
田中は少し間を置いた。
「あ、でも三番の木村先輩だけ、最近ちょっとヤバいって聞きました。別れそうとか別れなさそうとか」
「なんでそんなところまで把握しているんだ!?」
驚嘆した佐伯は目頭を押さえて息を吐き、そしてグラウンドに目を戻した。
水島が、また、あの目をしていた。
五回終了時点で零対四。その打点は水島の二回のツーランホームランによるものだ。この現状に、佐伯は静かに決断した。
「ベンチに集合」
部員たちが集まってくる。佐伯は一呼吸おいた。
「今すぐ彼女と別れてこい」
しばらく沈黙が続いた。
「…え?」
部員の一人が絞り出すように言った。
「今すぐ別れを告げてこい。応援席にいるだろう」
「いや、待って先生、それって」
「データが示している」佐伯は言った。完全に真剣な顔で。「対策はそれしかない」
また沈黙。
「先生正気ですか」
「正気だ」
部員たちが顔を見合わせた。監督の目は本気だった。四年間、データを信じてここまで来た男の目だった。
一分後、翔陵野球部の選手たちが応援席に向かって歩き始めた。
最初の悲鳴が上がったのはそれから三十秒後のことだ。
事態を把握した女性たちが次々とグラウンドに降りてきた。審判が試合の中断を告げたとき、ダイヤモンドの周辺はすでに修羅場になっていた。
スタンドから北央の控え選手が状況を見ていた。水島は三塁側ベンチから腕を組んでそれを眺めていた。その表情は、なぜか心なしか晴れやかだった。
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この試合は翔陵の没収試合負けとなった。
後に地区高校野球連盟の記録には「試合中断・秩序維持不能による没収試合」と記載され、関係者の間では長く語り継がれることになった。
佐伯克也は翌年も翔陵野球部の監督を続けた。部員たちも全員残った。応援席の女性陣のうち何人かは実際に別れを受け入れたが、翌月には大半がよりを戻したという。
データ分析の重要性について、佐伯は今も信じている。
ただしその年から、翔陵野球部の試合前資料には新たな分析項目が一つ追加されることになった。
仕事帰りの健康ランドの漫画コーナーでH2読んだときに思いついたネタです




