第3話
やがて空腹にも慣れ、わずかながら身体に余裕が生まれると、凍りついていた思考が少しずつ回り始めた。
(……しかし、この状況は……)
グライスは、静かに息を吐く。
(絶望的、だな)
幾多の死地を潜り抜けてきた帝国最強の軍人であっても、魔力を封じられ、ここまで身体を痛めつけられては打つ手がない。
痣と傷に覆われた自らの腕を見つめる。
(帝国最強……聞いて呆れる)
愛する妻と息子を奪われ、無実の罪を着せられ、待っているのは断頭台。
それが、現実だった。
仮にこの状況を打破し、冤罪を証明できたとしても――
フィーとアレンは、もう戻らない。
その事実だけが、頭の中で何度も何度も反芻される。
胸の奥で、記憶が一気に溢れ出した。
――戦場で大怪我を負い、死の淵を彷徨っていたあの日。
その治療にあたったのが、当時衛生兵だったフィーだった。
戦場には不釣り合いな可憐な容姿と、必死に命を繋ごうとする真摯な眼差し。
気づけば、グライスの心は彼女に惹かれていた。
同じ軍に身を置く者同士、距離が縮まるのに時間はかからなかった。
やがて“不死身の戦鬼”と呼ばれるようになった頃には、二人は姓を共にしていた。
そして――アレン。
二人の間に生まれた、元気な男の子。
自分に瓜二つの顔を見た瞬間、胸がいっぱいになったことを覚えている。
初めての育児に悪戦苦闘し、夜襲を受ける方がよほど楽だと愚痴を零したこともあった。
「将来はパパみたいな軍人になる!」
そう言って胸を張ったのは、先月迎えた五歳の誕生日だった。
――月明かりが、より強く独房に差し込む。
(……あなた……)
(……パパ……)
聞こえるはずのない声が、確かに耳に届いた気がした。
途方もない喪失感が、全身を包み込む。
胸に灯っていた復讐の炎は、今にも消えそうだった。
「……いっそ、このまま死んで……フィーとアレンに会いに行くのも、手かもしれないな……」
気づけば、独り言のように呟いていた。
「――らしくないですよ、ランズデー大佐」
突然の声に、反射的に身を起こす。
だが、視線の先には誰もいない。
深く息を吐き、鉄格子の向こうへ顔を向ける。
「……情けないところを見せちまったな、マイン」
次の瞬間、冷たく無機質だった景色が揺らいだ。
そこから姿を現したのは、黒い隠密服に身を包んだ一人の女――
グライスの部下、マイン・ヴェイル中尉だった。
「もっと情けない姿、いくらでも知ってますけどね」
フードを下ろし、艶やかな黒髪を揺らしながら、彼女は微笑む。
「さすがは諜報小隊の小隊長だ……まるで気づかなかった」
「あなたに鍛えられましたから」
「……それで、なぜここにいる」
「助けに来たに決まっているじゃないですか。準備に時間がかかってしまって、すみません」
「俺は……家族殺しに、国家転覆を企てた大罪人だぞ」
「そんなこと――!」
マインの声には、微塵の迷いもなかった。
「大佐を知っている人なら、誰だって分かります。冤罪です……いいえ、ネイマンの謀略だって!」
「……それでも、俺を信じるのか」
「無実を――証明しましょう、大佐」
差し出された手。
だが、グライスは静かに首を横に振った。
「もう……フィーとアレンはいない」
生を諦めるには、あまりにも十分な時間が過ぎていた。
「俺には……もう生きる意味がない」
力なく項垂れるその姿は、かつて戦場を駆けた英雄の面影を失っていた。
マインは、思わず目頭を熱くする。
「……それでも“不死身の戦鬼”ですか」
静かな、しかし強い言葉。
「確かに……奥方様も、ご子息も戻ってきません」
一拍置き、マインは声を張り上げた。
「――ですが! お二人の魂はどうなるんですか!? あなた自身の魂は! このままでいいんですか!?」
その言葉が、グライスの胸に火を灯す。
――愛する妻を。
――愛する息子を。
反逆者の家族として終わらせていいはずがない。
「……あぁ。そうだな……すまない」
グライスは、ゆっくりと顔を上げた。
「お前たちのためにも……ここで終わるわけにはいかないな」
「そうですよ! ネイマンのクソ野郎をぶっ飛ばしましょう!」
「……力を貸してくれ」
「もちろんです。そのために準備してきました」
マインは懐から、小さな物を取り出す。
「まずは……こちらを」
銀色に輝く鍵。
それは、グライスの魔力を封じる枷の鍵だった。
「……随分と、危険な橋を渡らせてしまったな」
「私の得意分野ですので」
鍵が差し込まれ、解錠される。
枷は鈍い音を立てて床に落ちた。
次の瞬間――
抑え込まれていた膨大な魔力が、グライスの内から一気に溢れ出す。
「……最高の気分だ。これで脱獄は容易だな」
「ですが、このままでは、いずれネイマンの包囲網に捕まります」
マインは、真っ直ぐにグライスを見据えた。
「そこで――大佐に、お願いがあります」
グライスは息を呑み、次の言葉を待つ。
『……亡命していただきます』




