36話 黒い狼
ポツリと冷たいものが頬を伝い、私は目を覚ました。まだ夜が明けていないのか、辺りは薄暗くてよく見えない。
捻った足はもう痛くない、しかし立ち上がろうとするも、足は空を蹴る、腕の自由も効かない。
どうやら吊るされている模様。ということはだよ、もしかして、牢屋よりも恐ろしい拉致ではないだろうか。
あの眠気は催眠、もしくは眠気を誘う毒、これは事件です。人生初の誘拐事件、まさか自分の身に起ころうとは思ってもみなかった。
犯人はおそらくブラックウィドウ。しかしアランの話だと温和な蜘蛛ってことだったけど、あれは違う種類の蜘蛛だったのだろうか。
でも三つの青い目だったし……。
「……さま、紅様、ご無事ですか……?」
と私を呼ぶ声が――そういえば森の中でも誰かが呼んでいたような、誰?
「紅様、私です、アランです」
「えっ! アラン?! 何やってんの?!」
「申し訳ありません、心配になって探していたら捕まってしまいました……」
心配って、私が何者か知ってて探しに来たのなら相当なお馬鹿さんだ。主人のフォルティスは承知しているんだろうか。
「ちょっと、伯爵を待ってたんじゃないのか?」
「そうなのですが、情報を提供した者としては、やはり正確な情報をと……」
「正確な情報って、他にも何かあるのか?」
「はい。山神様はご存知かと思いますが、デルニエ国より東方は獣神様の領域なので、人間は立ち入らないのが常識です」
ここへきて新たな展開か――
それにしても、アランは執事としてはハイスペックだけど、今ひとつ抜けてるというかお人好しというか、肝心な情報を伝える前に捕まってたら世話ない。馬鹿なの?
「それで、その獣神様ってどんな奴よ」
「私もどの様なお方かは存じません」
――この抜作の大馬鹿野郎が。
「あっそ。とにかくここから脱出するよ」
「――脱出ですか、それは困りましたね」
嘲たようなアランの返事に私は戸惑った。でも聞き返すより質問したほうが正解のような気がした。
「へえ、困るとは?」
アランは平然と縄を解いて地面に降りた。急な手のひら返しに私はようやく気がつく、どうやら誘拐犯はアランのようだ。
その意図は――
「あなたは何かと面倒を起こす冒険者と聞いています。確か隣国で牢屋に入っていたとか、まあ噂ですがね。今あなたに問題を起こされると困るんです」
隣国とはフェルモント国のことだろう、平和になった人々の口が緩むのも仕方ない。
それはいいとして、なにもこんな手の込んだ芝居をしなくても出でいけと言えば済む話だと思うが、他に目的があるんだろうか。
「随分と手の込んだやり方だが、他に目的があるから困るってことか?」
「そうなんですよ。伯爵は何やら山神の仕事をされているようで、今さら聖剣士の真似事とか、困りましたねえ、実に不愉快です」
「不愉快とは随分な言い草だなあ、聖剣士なら山神様の仕事をして当たり前だろ」
「ほう、昔話をされたようで――まったく、伯爵としてデニエル王女との婚約も決まり、王の座を確保したというのに、あなたや山神に私の計画を邪魔されては困るんですよ。伯爵はなぜあなたに興味を持たれたのか、悪趣味も程々にしていただきたい」
悪趣味か、船の博物館のことなんだろうが、フォルティスの婚約者が王女とは驚いた。
なるほど、王女ともなればいろいろ問題もあるだろう、だからハクはゆっくりと言ったのか。
どうもアランは博物館を良く思っていない様子、私がいると不都合なことがある、だとすると、あの落下事故は仕組まれた可能性が高い。
それと、執事といえば身内も同然、なのにフォルティスは私とライの関係をアランに教えていない。
いつの間にかふたりに溝ができてしまった、と考えるのが妥当だろう。
アランの計画とはいったい――
「計画とは?」
「冒険者のあなたが私ら商人の苦労話しを聞いてどうしようと? 時間の無駄です。私はこれにて」
アランは背を向け歩き出す――
「お、おい! 私を放置して行くのか?」
「フッ、縄を解いて私を倒すのも結構ですが、お泊り頂いてる観光客がどうなってもいいのであればどうぞご自由に。ではご機嫌よう」
放置プレイはモブなんでどうってことないんだけど……そういえば、獣神がどうのって話をまだ聞いていない。
「ちょっと待て! 獣神の話は本当なのか?」
「はて、何のことでしょうか、でも人間が近寄らないのは本当ですよ。お気をつけて」
アランは振り返ることなく去っていった。さてどうするか、選択肢はふたつ、戻るか留まるか。
アランの話は信用できない部分が多い、だからといってリスクを犯してまで戻る勇気もない。
しかしなぜ私がひとりで出掛けるのがわかったんだろうか、見張られていた?
随分と用意周到なことで、まるで危険人物みたいじゃない、まあ当たらずも遠からずだけどね。
とうとう独りぼっちか……でもこれで原点に戻った。ハクは心配しているだろうか、それどころじゃないと割り切っているだろうか、騎士宣言したくせに逃げたと怒っているだろうか、ハクを元に戻すって決めたのに……情け無い。
とにかくこの状態を打破しよう。
「あらヨッ、ブチッとね。拘束プレイは好みではないのでやめて頂きたいっと」
縄をぶち切り地面に降りてわかったこと、ここはブラックウィドウ、もしくは他の蜘蛛集団の洞窟だということ。
彼方此方に蜘蛛の糸、それと、美味しく召し上がったであろう残骸物。
つい自分に照らし合わせてしまって背筋が凍る。なので一目散に退散しようと思う。
「あれ? 私のアックスがない……」
キョロキョロと辺りを見回す、有りました、奥の暗闇にぼんやりと白い皮袋が。
抜き足差し足で近寄ると、あと一歩というところでカサカサと鳴る足音。
私は2、3歩後ずさる――赤い目の蜘蛛が迫る。
「え、えっと、怪しい者で……すけれども、あのう、もしかして……ゲキ怒?」
と、軽いジョークを飛ばしたら、余計に怒りを買ったようで、赤い目の蜘蛛が更に増えた。
いくら怪力の私でも、この数の蜘蛛を相手に勝てるとは思えない。絶体絶命のピンチ――
するとそこへ、私を庇うように1匹の蜘蛛が間に入った。見れば青い目をしたブラックウィドウだ。
「また私を助けてくれるの?」
と、思わず声を掛けると、何かの気配を察知したのか、私の後ろにコソコソと隠れた。
威嚇していた赤い目の蜘蛛たちも、一斉に散らばり岩の間に身を隠した。
何が起こったのかと緊張が走る。すると洞窟の奥から大きな影がゆっくりと近付いてきた。
月あかりに照らされたその影の正体は、馬の背くらいはあるだろう巨大な体と、黒い立髪を靡かせて悠然と歩く狼だった。しかもアックスを口に咥えている。
そして私の前にポンっと投げて、悠長に人間の言葉を語り出した。
「そんな隠れなくても俺は怒っちゃいねえよ。人間嫌いのお前が懐くんだ、そう悪い奴ではないんだろう。このアックスはお前のか?」
「あ、はい、そ、そうです」
「クリュソスがお前にねえ――まあいい。用が済んだらとっとと帰れ」
「あのう、クリュソスとは何ですか?」
「ああ、お前らはマンモと呼んでいるんだったな。クリュソスは黄金という意味の古来聖獣だ」
古来聖獣?
確かマンモは害獣指定モンスターなのでは?
この黒い狼はもしかして――