異世界文化交流~婚約破棄を添えて~
「ヘンリエッタ・フォン・ラヌボア侯爵令嬢、君との婚約を破棄させてもらう!」
社交シーズンの始まりとなる王家主催の夜会で、開幕の挨拶をするはずのアルブレヒト第一王子が声高らかに宣言した。
乾杯の挨拶が始まるものとばかり思っていた参加者は、唐突な婚約破棄宣言に我が耳を疑い、会場は水を打ったように静まり返った。
え、今なんて言った? 聞き間違い? ドッキリ? そんな貴族たちの視線が飛び交う中、名指しされたヘンリエッタは王族より一段低い壇上の教会関係者席――と言っても今夜招待されているのは二名しかいない――を見た。
ひと月ほど前にこの世界に現れ、癒しの力を持つことから教会で保護された聖女シャトゥは、いつも通り困ったような曖昧な笑みを浮かべているだけで、やはりその内心を図ることはできなかった。
今夜は彼女のお披露目も兼ねた夜会だというのに、その開幕がこれでは機嫌を損ねてもおかしくはないだろうに。彼女は笑顔でアルブレヒトを見ているだけだった。その様子には余裕すら感じられる。
彼女が口を開くのは隣に立つミハイル司教にのみで、その声を聞いた者はいないと言われている。一部では声を失っているのでは、と噂されるほどだ。
――……まさか、アルブレヒト殿下と……?
ヘンリエッタは体中の空気を吐き出すつもりで深く、深くため息をついた。
「はぁぁぁぁぁぁ……」
静まり返った会場に、ヘンリエッタのため息が思いのほかよく響いた。周囲から視線が向けられるのを肌で感じて、ヘンリエッタは――内心慌てて、けれど所作だけは優雅に――サッと扇子で口元を隠した。今のはわたくしじゃありませんという顔も忘れない。
こうなることは、異世界から聖女が降臨するよりももっと前から予期していた。
もとより互いの意思など入る隙も無い政略結婚だ。
アルブレヒトが身内へのコンプレックスを拗らせていることも、身分の低い側妃の子である第一王子の後ろ盾としてラヌボア侯爵家が選ばれたことも、ヘンリエッタにどうこうできるものではない。
自分の感情すら思うようにならないというのに。
予期してはいたが、こんな形で会場中の視線が集まるのは本意ではない。まだ心の準備ができていないというのに。
しかし王族として一段高いところで宣言したアルブレヒトの視線はすでにヘンリエッタを見つけている。
周囲の貴族たちからもヘンリエッタがどうするのか、好奇や憐憫の視線が痛いほど向けられている。
心の準備などと言っている場合ではなかった。
――覚悟はもう決めてきたでしょうヘンリエッタ! ここで泣き寝入りなどしてやるものですか!
自分を鼓舞し、ヘンリエッタはヒールの音を響かせてゆっくりと前に歩み出た。
「殿下、婚約破棄と申されましても……わたくしたちの婚約は王家と侯爵家の間で取り決められたもの、殿下やわたくしの一存で破棄できるものではございませんわ」
――何もこんなとこで言わなくてもいいでしょうが!
「そんなことはわかっている!」
――わかってんの?!
「君はいつもそうだ……そうやって正論を振りかざす。私は弟のように武勇に優れてはいないし、叔父上のように優秀ではない。皆からちょっと足りないと言われていることも知っているし、確かにその通りだ。そんなちょっと足りない私を補うために君が選ばれたとわかっている。
わかっている、が! 息が! 詰まる!!
私は第一王子とは言え側妃の子で後ろ盾もなければ王になりたいとも思っていないのに、後継争いを避けるためだけに結ばれた婚約者に会うたび正論で殴られてもう疲れてしまったんだ! だから私の有責で婚約を破棄させてほしい!
こんな私の話をシャトゥは嫌な顔一つせず聞いてくれた! 彼女は私の唯一の癒しなんだー!!」
ぜぇ、はぁ、ぜぇ。
思いの丈を全て吐きだし切ったアルブレヒトの肩は激しく上下していた。
物心つく頃から表情を整え、感情を抑えるよう躾けられる王侯貴族としてあるまじき第一王子の姿と叫びに、会場は再び静まり返った。
――否定も肯定もできない……!
――ていうか、聖女、しゃべれんの?!
恐らくヘンリエッタだけでなく、会場の皆が同じことを思っただろう。
アルブレヒトの言う通り、王妃の子である第二王子は剣技に優れた勇敢な騎士で、先日も山から下りてきて村一つを壊滅状態に追いやったドラゴンを一人で討伐してきた。
彼の叔父にあたる王弟はすでに王位継承権を自ら返上して教会の門を叩いたが、非常に聡明で特に語学においては過去に栄華を誇ったという失われた国の失われた言語を読み解き、これまでの通説を覆す歴史的発見に学会に激震が走った。
アルブレヒトは別に出来が悪いわけではない。優秀で運動神経も良く、勤勉な性格だ。
ただ、身内に天賦の才を持つ者が多かった。
しかも第二王子とは一つしか年が変わらず、国王の異母弟である王弟――現在は教会の司教である――はまだ二十代で、十六歳のアルブレヒトと一回りほどしか違わない。叔父というより年の離れた兄と言ったほうが感覚としては近いのだろう。
アルブレヒトは決して愚鈍ではない。重ねて言うが、家庭教師の覚えは良いし王族とは言えたしなみとして剣を習い馬に乗れば指導役の騎士らからも忖度なしに褒められる。
ただ、比較対象が悪かった。
「――殿下のお気持ちはわかりました」
静かな会場にヘンリエッタの凛とした声が響く。
止まった時が動き出すかのようなそれに、アルブレヒトは顔を上げた。遠目でもその目尻に涙が滲んでいるのがわかる。見えなくとも、どんな顔をしているかくらい、ヘンリエッタには想像がつく。
物心つく頃からの婚約者だ。関わる時間は多かった。そしてそれ以上に、ヘンリエッタはずっとアルブレヒトを見つめてきた。
「聖女様も同じお気持ち、ということでしょうか?」
王弟であり現在は司教として教会関係者席にいるミハイルに付き添われた聖女 シャトゥへ視線を向ける。
周囲もヘンリエッタに倣うようにシャトゥへ視線を向ける中、当の本人は困惑したように会場とミハイルを交互に見て、また微かな笑みを浮かべるだけだった。
「っ! 聖女様! 殿下がこれほどお心を開きお話しくださったというのに、なぜ何もおっしゃらないのです?
わたくしにはあなた様のお気持ちを聞く権利があると思うのですが、なぜシャトゥ様は何もお話しくださらないのですか……!」
昂った感情を理性で押しとどめて、ヘンリエッタは侯爵令嬢として、王子の婚約者として胸を張りシャトゥへ問うた。
おろおろとヘンリエッタとミハイルを見比べるシャトゥ。ミハイルが何事か囁き、彼女ははっとした顔で一つ頷くとヘンリエッタへ向き直った。
その唇が開かれ、言葉が紡がれる。
「ワタシ、ハナス……デキル、スルコト……チッチャイ?」
三度、会場は静まり返った。
え、どういうこと? いまのなに? まさか、本当に? そんな貴族たちの視線が飛び交う。
ヘンリエッタも予想外のことにぽかんとしてしまった。視界の端ではアルブレヒトも同じようにぽかんとしている。
――いや、なんでよ。二人で話したんじゃないのかよ。
「陛下、発言をお許しいただけますでしょうか?」
「――……は! ゆ、許す」
そこで戸惑う会場の空気を変えるためか、ミハイル司教が挙手とともに声を上げた。
最初からいたにもかかわらず、第一王子のやらかしに完全に空気となっていた国王陛下が、気まずげな様子の異母弟を見て、ようやく我に返った。
「聖女様は皆さまお聞きの通り、まだこちらの言葉に不慣れでいらっしゃいます」
「……過去、異世界から来た者たちはそんなことはなかったと思うが?」
「ええ、これまでに界渡りされた方々は、こちらへ来る際の何らかの影響で最初からこちらの言語を習得していらっしゃいました。ですが、シャトゥ様はどうやらその影響を受けなかったようでして……。
未知の言語を習得していただくわけですから、教育係として私が就くことになりました。ひとまず日常会話で困らない程度には単語を覚えていただいたのですが、文法の方はまだでして。ですから常に私が通訳をしております。
アルブレヒト殿下とシャトゥ様がお話しされたとは知りませんでしたが、そんなわけですので……恐らく、殿下が話されたことをシャトゥ様はご理解されていないかと……」
非常に言いにくそうにミハイル司教は彼にしては珍しく言葉をためらいがちに紡ぐ。どう言葉を繕っても、アルブレヒトを傷つけ、恥をかかせることにしかならないからだ。
「そ、んな……」
壇上で膝から崩れ落ちるアルブレヒトを見て、ヘンリエッタは良い気味だとは思えなかった。
+++
異世界からやってきて教会に保護された少女シャトゥには、言語翻訳機能が搭載されていなかった。
うっかり階段を踏み外し、気付けば異世界の教会に大の字で転がっていた佐藤は、自分を気遣うシスターの言葉を何一つ理解できなかった。
高校の授業の中で英語は割と得意な方だと自負していた佐藤だが、シスターの唇から紡がれる言葉は英語ではない。なんとなく、他の外国語とも違うようだと感じて絶望した。
――あ、これ異世界転移のハードモードだ。
佐藤はそれなりにオタク趣味も嗜んでいた。
そこからなんやかんやで言葉が通じないことを察したシスターがおじさんを呼び、おじさんが偉そうなおじさんを呼び、偉そうなおじさんが偉そうなおじいさんを呼び、最終的になんかキラキラした偉そうなお兄さんが常に近くにいることになったようだった。
キラキラした偉そうなお兄さんは自分を指差して「ミハイル」と言った。だからたぶん、キラキラした偉そうなお兄さんはミハイルさんであると佐藤は理解した。
なので佐藤も自分を指差し「佐藤」と名乗った。発音が難しいのか「シャトゥ」になった。
佐藤の活舌が悪いせいではないと思いたいが、初めてミハイルを呼んだときは「みはーる?」と失敗したので怪しいかもしれない。
お互いにお互いの言語を全く知らない状態で、意思の疎通をしようとするとどうしてもジェスチャーに頼るしかない。しかし異世界文化の壁はジェスチャーにもあった。肉体言語は同じ文化圏でのみ有効らしい。
生活様式や習慣、常識などあらゆるものが違うので、手を振るだけでも互いの認識が異なり、齟齬が生まれてはボタンを掛け違えたような違和感を常に感じながらコミュニケーションを重ねた。
佐藤は割と図太いので、異世界で言葉が通じなくてもあまり気にしていなかった。ミハイルがいるからかもしれない。
ミハイルはとても頭の良い人のようで、佐藤のために絵本を作ってきてくれた。
あとで知ったところ、この世界には子供向けの絵本という概念はなく、世界初の絵本だったらしい。
絵と単語、そしてミハイルの発音。絵本に沿って繰り返すうち、佐藤も単語をいくつか覚えて発せられるようになった。さすがミハイルである。彼のこともよく知らないが。
そんな頃、ミハイルが教会の仕事で席を外したタイミングで出会ったのが、なんかやたらと早口でまくし立てるキラキラした同年代っぽい子――のちに第一王子のアルブレヒトだと知った。
基本的に佐藤は教会の敷地から出ないので会う頻度はそう多くはないが、キラキラ早口少年はよほど暇なのか、教会に来るたびに佐藤を見つけてはいつも早口で何やら話し、すっきりした顔で帰っていく。
意味が分からない。
言ってることはもちろんさっぱりわからないが、彼の行動もわからなかった。
とりあえずいい顔で帰っていく姿を見るに、腹に溜めた愚痴やなんかを言葉のわからぬ佐藤に吐き出して発散しているのだろうと思った。
なので佐藤はキラキラ早口少年に会ったら、自分は木の洞だと思うことにした。
返事も相槌も求められていないとわかれば早口の内容を理解しようと必死にならなくてよいし、わからないものをわからないまま聞き流せばよいだけなので気が楽になった。
単語を繋げるだけのつたない会話ができるようになった頃、佐藤のお披露目を兼ねたパーティーに参加することになった。
お披露目と言っても舞台上で挨拶するとかではなく、ただ会場でニコニコしていればいい、とミハイルに言われた。たぶん。
この世界に来てから何を言われているかわからないことが多い佐藤は、とりあえず笑ってごまかす癖がついているので、それなら楽勝だと思って気楽に参加した。
佐藤はオタクで図太いうえ、楽天家でもあった。
そしてパーティー当日。
コルセットを絞められながら安易に参加することにした過去の自分を末代まで呪った。
会場に到着すると、キラキラした格好のたくさんの男女が上品に談笑をしていて、初めてドレスを着た佐藤は自分がとても場違いな気がした。いまさらになって少し緊張してくる。
ミハイルと共になんか偉い人っぽい席に案内されて、もっと偉い人っぽい席にキラキラ早口少年がいた。
知った顔がミハイル以外にもいて「お」と思ったが、本当に顔を知っているだけなので別に安心したり、緊張がゆるんだりもしなかった。心強さは全くない。
ミハイルを見れば『おすわり』と日本語で言われた。佐藤が緊張したのを感じたのか、あえて日本語で言ってくれたようだ。さすがミハイル。でもそれでは佐藤が犬のようである。
ミハイルの気遣いと犬扱いにちょっと笑って、佐藤は大人しく彼の隣に座った。緊張はすでに消えていた。
いつ始まったのかもわからないが、キラキラ早口少年が壇上で何やらまた早口で言っている。彼の言葉を聞き流すのは慣れたものである。
などと余裕ぶっていたら会場が静まり返り、なぜか参加者の視線が佐藤に集まった。
――え、何? こわ……。
とりあえずいつものように笑ってごまかした。
キラキラ早口少年の早口をまた聞き流していたら今度はキラキラした偉そうな美少女が「シャトゥ」と言った。
呼ばれた? 人違い? と思って会場とミハイルを確認すれば、彼は困ったような笑顔で一つ頷いた。どうやら佐藤が呼ばれたので間違いないらしい。あと佐藤が話を全て聞き流していることもおそらく察している。さすがミハイル。帰ったらお説教かもしれない。
しかしなぜ呼ばれたのかわからない。会場中の視線が集まっているのも怖い。
何が起こっているのかさっぱりわからない。挨拶はいらないとミハイルは言っていたが、やはりお披露目だし挨拶的な一言を求められたのだろうか。
焦ってとりあえずミハイルを見れば「話せる? 話せない?」と聞かれた。
なるほど、まだこの世界の言語は習得できていないが、その進捗を聞かれているらしい。
ここはしっかりと、少しは話せるようになったことをアピールすべきだろう。そうすればきっとミハイルの評価も上がるに違いないと佐藤は思い、緊張しつつも口を開いた。
文法はまださっぱりだが、知っている単語を繋ぎ合わせればなんとなく意図を汲んでくれるだろう。ミハイルともそうやって話している。
「ワタシ、ハナス……デキル、スルコト……チッチャイ?」
ちょっとどや顔してしまった気がして佐藤は少し恥ずかしくなった。
すごいのはミハイルであって、佐藤ではない。
佐藤の言語習得の進捗についてミハイルがキラキラした偉そうだけど疲れた顔のおじさんにし終えた頃、キラキラ早口少年が膝から崩れ落ちて佐藤は驚いた。急に気分が悪くなってしまったのかもしれない。貧血だろうか。
彼が何を言っていたのか何一つ理解できなかったし聞き取れもできなかったのですべて聞き流していたが、それでも知らぬ顔ではないので心配していると、キラキラした偉そうな美少女がキラキラ早口少年に駆け寄った。
そっとキラキラ早口少年の背に手を添える美少女。早口少年もキラキラしい美少年なのでとても絵になる。
「ニメイ、ニアイ。ヨイ」
なんかよくわからないけど映画のラストシーンみたいで、思わず佐藤は拍手した。
佐藤一人の拍手に、音が増えた。隣でミハイルも同じように手を叩いていた。
そのおかげか、徐々に会場中に拍手が広がり、キラキラした美少年と美少女のラブロマンスは感動のフィナーレを迎えたようだった。なんか知らんがよかった。
その後は特に何事もなく、ミハイルに料理やジュースを給仕されてパーティーを終えた。
ミハイルは本当に優秀で気が利く人なので、佐藤が気に入った料理やジュースをしっかり把握している。
だから彼が差し出すものに間違いはないと、佐藤は何かも分からない肉や野菜や果物を差し出されるまま口に入れる。やっぱりおいしくて佐藤の好みである。さすがミハイル。
さて教会へ帰ろうか、という時にいつの間にか姿の見えなくなっていたキラキラ早口少年とその恋人らしき美少女、そしてキラキラした偉そうだけど疲れた顔のおじさんが佐藤とミハイルを呼び止めた。
「シャトゥ様、わたくしラヌボア侯爵家が娘、ヘンリエッタと申します。先ほどは失礼をいたしまして申し訳ございません。
その、少々誤解はありましたが、シャトゥ様のおかげでそれも解けました。本当にありがとうございます」
「シャトゥ、きっと私たちが何を言っているか伝わっていないのだろうけれど、それでも私からもお礼を言わせてほしい。ありがとう。君のおかげで私は気持ちが楽になったし、ヘンリエッタのこともきちんと理解することができた」
仲睦まじく手を繋いだ美少年と美少女に、佐藤はやっぱり何を言っているのかわからなかった。
「アー……ランボー、コサック?」
何を言われているかさっぱりわからなかった。
佐藤の頭の中でランボーがコサックダンスを始めた。
「ラヌボア侯爵家、ですよシャトゥ
それでもミハイルがそっと訂正して教えてくれるので、佐藤のハードモードな異世界転移も割と大丈夫である。さすがミハイル。
この世界に来てから、彼なしでは生きていけない佐藤である。依存かもしれないが、ミハイル自身がそう仕向けているような気もするのでたぶん問題はない。
なお、教会に帰ったあと「人の話はちゃんと聞きましょう」とお説教も受けた。
ちゃんと反省すれば『いいこ』と日本語で頭を撫でてくれるから、佐藤はミハイルのお説教も割と好きだ。やっぱり犬扱いな気はするが。
ミハイルは優しいが甘くなくて、やっぱり甘い人である。
異世界なのに言葉が通じるのが何よりもチートだな、と思って。
あと王道(?)の婚約破棄ものを一度書いてみたかったのです。
思い付きにお付き合いいただきありがとうございました。