大人に憧れていた頃・書庫で・蒲公英色のスカーフを・持ち上げることができなくて驚きました。
自認年齢という概念が出てきたらしい。そもそも年齢とは、社会通念としての区分としての一つの物差しである。だが自身を認識し、自我の区別するためにも年齢は使われるようだ。年齢にこだわる日本人らしい性質で生まれたのが、自認年齢だ。自分の年齢が体の年齢と釣り合わぬことに悶々とし、問題を抱えている人間が、自身を認識する年齢を差すらしい。少なからずそれは、健やかに年を経てきた者のわがままである。テレビでそんなことを眺めて、いいなあと難病の子どもは呟くばかりだ。看護師は、テレビの報道について思うところはあるが、さあ検査だよと子どもを促す。テレビに飽きてしまった子どもは頷くと、ニット帽をかぶったままベッドを下りた。自分の足で立て、歩ける。だが子どもはただ立つだけでよろよろとして、やせ細った足は筋肉が見当たらない。骨と皮となっているのが近い。難病の種類まではここで申し上げないが、彼女はそれでも必死に看護師に付き添ってもらいながら歩き出した。歩けるうちには歩くようにという主治医の無慈悲とも思える指示があるからだ。子どもは甘やかしてあげればいいとたまに看護師は思うこともあるが、それは患者である子どもの為にもならないのだ。心を鬼にして、今日もふらつく彼女を支えながら、看護師はゆっくりと歩き出す。彼女の検査室はまだまだ遠い。
「私だって大人だもん」
そんな不思議なことを子どもが言い出したので、看護師は首を傾げた。少女はまだ十一歳である。おまけに難病を患っていて、大人になれる見込みは少ない。それなのに少女は得意げに、自認年齢のことを言ったのだった。
あれは子どもの途中で心の成長を止めた大人の言うことなの、と看護師は思わず毒を吐きそうになった。少女相手にではない。テレビの向こうの大人にである。健やかに成長を出来るだけで有り難いと考えて欲しいと、この職業に就くと思うことがある。毎回患者に寄り添っていては心がすり減ると先輩には言われているものの、それでも子どもの患者に心を寄せずにはいられない。それが性善説であるからだ。井戸に落ちそうな子どもの手を咄嗟に掴むのが大人のすることだ。子どもに死の気配から逃れてもらいたいと願うのがせめてもの情だろう。
「だって私も大人でいいじゃん」
少女が口をとがらせる。反応が遅れた看護師に拗ねたらしい。
「そうね、でもあれは違う人なの」
「どう違うの?」
「大人になっても子どもの心を持ってる人なのよ。だからちょっと違うの」
「そんなのズルい! わたしだって大人だもん。あの人が大人なら、私も大人でいいもん。だってそうでしょ」
興奮は体に障るからとなだめ、その日は師長に相談をした。子どもだから勘違いしても仕方ないが、彼女の思いを尊重してみるべきではないかというのが当たり障りのないアドバイスが返ってくる。仕方ないものだ。そしてままならないものである。子どもになれない大人と、大人になれない子どもがこの世には居て、その運命はどうにも変えようがないのだ。看護師は小さなため息を吐いた。