幼馴染契約を結んだ。
通学に使用する地下鉄で良く遭遇するクラスメイトがいる。
彼女の名は三木綾香だったか。学校で会話することは事務的な内容以外ほぼない関係だ。
先に電車に乗り込み空いているシートに座ることの多い俺は、乗車してきた彼女によくこんな提案をする。
「三木、席やるよ」
「……また?」
若干の疑念が籠った瞳をこちらに向けながら、彼女はしぶしぶ俺と入れ替わる形で席に座る。
「毎回思うんだけど、滝本くんは何が目的なの? それはそれとして、席、いつもありがとう」
「どういたしまして。理由? そんなの単純なものだよ。体幹を鍛えるためだ」
というのは冗談半分で、本当の理由は以前、彼女が明らかに体調が悪そうにしながら乗車してきたところを目撃したことがあるからだ。
その日に席を明け渡して以来、自分でも正気か? と疑いたくなるような行動力を見せた俺は、彼女が乗車する度に彼女に席を渡すようにしている。
心地よく揺れる車体に身を任せながら、俺は吊革に掴まりながら三木の正面に立つ。
彼女のことをじろじろと見るのは流石に失礼に当たるので、俺は窓の外で流れていく風景を眺める。
しかしカーブに差し掛かり、車体が揺れたことにより俺は踏ん張るために若干下を向いた。
その時、三木と目が合った。
「どうした? 俺なんか見ても何も面白くないだろうに」
「そう? 結構面白いよ?」
なんてことを言うんだ、この子は。それではまるで俺は何もしなくても面白い人間になるじゃないか。
「いや、悪気があったわけじゃないのよ? ただ、思うところがあって……なんだろう? えっと、そう。私たちって一体どんな関係なんだろうって」
「そりゃクラスメイトだろ。それ以外何だって言うんだ?」
「ただのクラスメイトにここまで優しくするのかなって思うんだけど」
そうか、三木からしたら俺の行動原理が分からないのか。
かといって『前に辛そうにしていたから助けるために席を譲るようになりました』なんて正直に言えるか? いや、無理だ。恥ずかしい。
しかし彼女の言うことにも一理ある。
ただのクラスメイトにわざわざ毎回席を渡すか? それはないだろう。
ということは俺にとって彼女はもう一クラスメイトではないし、逆に彼女からしてみても俺はただのクラスメイトの枠に納まらない男子ということになる。
「俺ら、本当にどんな関係なんだろうな。クラスメイトに留まる関係じゃないとしても、友達って訳じゃないし」
「いつも席を譲ってくれるお人好しさん。冗談。感謝はしているけど、なんかしっくりこないの。よく対等な関係じゃないなーって思う」
善意の押し付けが仇となったか。
しかしただ席を譲っているだけだぞ? それだけで対等な関係がどうとか考えるか?
だが実際彼女がその問題で悩んでいるのは事実だ。だとしたら俺からしても他人事ではないし、相談に乗るか。
「つまり対等な関係になるか、そんなの気にしなくても良い仲になればいいんだろ? 無難に友達になればいいんじゃないか?」
「そうなんだけど、私からしたら滝本くんは友達って感じじゃないのよ。この際だから言うけど、滝本くんは少女漫画の登場人物みたいなことをしているからね?」
なんだと……? そんなことをした覚えはないぞ。
彼女の言う少女漫画的行為が何を指すのか分からないが、想像の範疇で言うと少女漫画の男子って壁ドンとかそういうのをするのではないだろうか。
「少女漫画の登場人物になった覚えはないな。じゃあどうすれば三木の悩みは解決するんだよ」
「うーん……。友達以上の関係になってみるとか?」
友達以上の関係って選択肢が少なくないか? 例えば親友。親友って友達関係から発展して気づいたらなっているものではないだろうか。
或いは恋人か? 俺だって思春期だしその辺りは気になるお年頃だ。
だが何故か気分が高揚することもなく、淡々と思考を繰り広げるだけに留まり、三木と恋人関係になるという未来を想像できなかった。
それは何故か。理由は至極単純。俺らは現時点では大して仲が良くないからだ。
「で、友達以上って具体的には?」
「――それじゃあ幼馴染みたいな関係がいいな。滝本くん、じゃないね。これからは陽平って呼ぶね。私のことも綾香って呼んで欲しいな」
「俺の意思は? ……いや、いい機会か。よろしく、綾香。でもこれ、仮契約ってことで」
「なにそれ。やっぱり陽平って面白いね」
はにかみながらそう答える彼女はとても魅力的だった。
◇◇◇
綾香と談笑しながら俺らは学校の正門を潜り、教室へと向かった。
クラスメイトとタイミングが被って一緒に教室に入ることは珍しくない。だから俺らに注目する者はいなかった。
席に着いた俺は机の横にスクールバッグを掛け、前の席の大橋に挨拶をする。
「大橋、おはよう」
「おっす、滝本。そういえば新作映画情報見たか?」
「詳しくは見てないけど、大橋が言いたいのは新作の『アーバンストーリー』のことだろ? 評判いいらしいな」
「そう、それそれ! あっ、ネタバレは無しでいこうぜ」
大橋と映画情報を話し合いながら、俺は綾香のほうを見た。
彼女も何か思うところがあったらしく、こちらを見ていたが心ここにあらずといった雰囲気だ。
大方電車内でのやり取りの件だろうな。彼女から幼馴染のような関係になりたいと言いつつ、行動できないことにもどかしさを感じているのだろう。
俺がここで見て見ぬふりを出来る人間なら、きっとあの時電車で彼女に席を譲ったりしなかったんだろうな。
「大橋、悪い。一旦会話終了で」
「いいけど、席から立ってどこに行こうっていうんだよ」
「ちょっと野暮用」
俺は席を立ち、綾香のもとへ向かう。途中女子グループが物珍しそうに俺を見ていたが、そんなの気にしている場合じゃない。
何故かは分からないが、俺は綾香のことを助けてあげたくて仕方がなくなることがある。
「よう、綾香」
「よ、陽平……?」
彼女は驚き半分、期待半分といった表情をしていた。
変なところで大胆なくせに、引っ込み思案で遠慮がちなところもあるんだよな。
遠慮がちという部分については、初めて電車で席を譲ったときに嫌というほど経験したので割愛する。
「なんだよその反応は。俺らの仲じゃないか」
「――陽平はそんなんだから陽平なんだよ」
「何そのディスり」
「悪い意味じゃないから安心してよ」
笑みを浮かべながら答える綾香はとても彼女らしく見えた。
きっと本来の彼女はこんな風によく笑う子なのだろう。
その素の表情を常に引き出せれば一端の幼馴染のような男子になれるのではないか、という淡い幻想を俺は抱く。
「さっき大橋くんと何を話していたの?」
「ああ、あれか? 『アーバンストーリー』っていう新作映画の話」
「あー、名前だけだけど知ってる。観に行きたいな」
そう彼女は言い、俺をじっと見つめる。
こんなの皆まで言われなくても分かる。彼女を映画に誘うかどうするか、どちらを選ぶかは俺の役目だ。
「なら一緒に見に行くか。いつにする?」
「早い方がいいなぁ。今日は上映してないの?」
「上映してるぞ。じゃあ放課後映画館に行こう」
「うん」
にやけ顔を隠しきれない彼女のその表情を見るだけで、俺は多幸感に包まれる。
彼女の幸せそうな表情を見るだけで満たされる。もっと楽しませたいと思う。出来れば困らせたくない。悲しませたくない。
俺はその感情の名前をまだ知らない。
「じゃあそういうことで。席に戻るわ」
「うん、また――」
「ちょっと綾香ちゃん! どういうこと!?」
「滝本と何があったのさ!?」
すまん、流石に女子グループの輪に割り込むことは出来ん。
どうにかして自己解決してくれ。
◇◇◇
放課後、俺らは映画館へ向かい、指定席のチケットと飲み物を購入して防音扉を開き、薄暗い部屋へ入った。
目の前には巨大なスクリーンがあり、既にいくつかのコマーシャルが流れている。
席番を確認しながら、俺らは自分の席に着いた。
「このコマーシャルを見ている間が一番わくわくするんだよな」
「わかるなー、それ。いよいよ始まるのか、って感じがするよね」
そんな何気ないやり取りをしていると、舞台は暗転して動画泥棒の寸劇の映像が流れだした。
そして映画が始まる。
* * *
私は悪い女だ。
彼には悪いことをした。
映画を観たいと思ったのは嘘じゃない。
でもそれ以上に、ただ単純に彼と一緒にいる時間を増やしたかった。
これから映画が始まる。
でも終わってほしくない。
ずっと二人だけの時間が続けばいいのに――
きっかけは彼が電車で席を譲ってくれたことだった。
その日はたまたま体調が悪く、登校するか悩んだくらいの憂鬱な一日になる、はずだった。
でも一人の男子が顔色の悪い私を見かねたのか、席を譲ってくれた。
ただそれだけなのに、その日は素敵な一日になった。
滝本陽平くん。前まではただの滝本くんと呼んでいた人。今は陽平って呼んでいる人。
私は結構頑張ったと思う。この関係性まで持っていくのに本当に、本当に葛藤を重ねた。
でも、だから――これから幼馴染契約がどうなるかは私次第だと思う。
陽平のほうをちらっと見たら、彼は視線に気づいたようでこちらを見てきた。
「なに?」
「いや、それ俺の台詞だわ。――改めて見ると、綾香って顔整っているよな」
ほら、彼は普通なら恥ずかしくてやらないことを平気でやる。
だから前言撤回。絶対に彼に意識してもらえるようになってやるんだから。