097:≪番外編≫出発前夜1
出発を翌日に控え、壮行会という名目で町の西側にある酒屋を借り切って、盛大に宴会が開かれた。昼時から開始された宴は、時刻が深くなるにつれて集う面々の顔ぶれも変わっていった。
今はまだ日が落ちたばかりだというのに初めから居た者達は少なく、席を囲む多くの者が酒好きの騒ぎ好きで、普段の酒場の雰囲気と全く変わらないような状態になっていた。
リィンは酒場の端のテーブルにいて、深いため息を落とす。クレイ達診療所の面々もジェイク達もとっくに帰っていて、ここに残っているのは酔いどれの連中ばかりだ。その上リィンは今、むさ苦しい男達に囲まれて腕相撲の相手をさせられている。
「おおし!次は俺だっ!こんな女みてえなひょろっ子に負けるもんかよ!」
どん、と大きな手でテーブルを叩きながら、顔に派手な傷のある男が目の前の席に座った。それから大木のような太い右腕を突き出して、鼻息荒くリィンを睨みつける。
「威勢の良いこった!あとで泣きっ面かくんじゃないぞう!」
リィンの隣にいるバーツが赤ら顔ではやし立てる。顔とは言わず坊主にしている頭まで、赤い。完全に酔っている。それに呼応するかのように周りで見物する男達が手に持っていた酒瓶を掲げて、やいやいと野次を飛ばした。
「おら、小僧!勝負だ!『力』使うのは反則だからな!」
仕方なく右手を差し出すと、ものすごい勢いで掴まれてぎりぎりと締め上げられる。
「ってえ!」
酒が苦手なリィンにとって、この場の雰囲気には最初からどうにもなじめない。その上どうして自分がこんな熊みたいな大男に手を握り潰されそうにならなきゃいけないのか。リィンはむっとして相手を睨みつける。
「ふん。そんな可愛い顔で睨まれたってこわかねえや!」
リィンは開始の合図とともに右手に力を込めて、渾身の力を振り絞って相手の腕をテーブルに沈めた。どっと歓声が上がる。
「おおお!いいぞ小僧!」
「顔に似合わず怪力だなあ!ほら、賭けに負けた奴はさっさと金を出せ!」
「さっすが、男の中の男ッ!!イリアスの英雄は半端ねえ強さだ!」
リィンはむっつりとしてグラスに入った茶を一気に飲み干した。
そうなのだ。イリアス族の英雄と町で噂されるリィンと一度で良いから力比べをしたいと言って、皆がわらわらと集まって来たのだ。その為全員が護衛とか左官とか、男らしい職業に就いている汗臭い者達ばかり。挙句の果てにはその腕相撲で賭けまでする始末。
「じょ、冗談じゃねえ!今のはナシだ!もう一回っ」
「…もうやらない。僕だって疲れるんだ。このゲームはおしまいだよ」
そう告げると、男達から不満の声が上がる。リィンはうんざりしながらずっと先にあるテーブル席をちらりと見やった。そこはこのテーブルとは違い、何だか華やかだ。女性達が周りに座り、集まっている人々もどことなく優雅な物腰。その中央にラディスがいた。今はラディスの隣に歌姫ネルティエが寄り添うようにいて、その反対側にはグレイアが座っている。両手に花。
何なんだ、この差は。
ますます不機嫌になってゆく。ラディスの隣にあのグレイアがいる時点でも腹が立つというのに、自分はむさ苦しい男達に囲まれて、男前だと褒められている。ちっとも嬉しくない。
リィンの視線に気づいたバーツが、にいっと笑って顔を寄せてくる。
「いやあ、気付かなくってすまん。そうだよなあ。リィンだって、綺麗な女の子に囲まれたいわなあ」
最近やって来た護衛のバーツは、リィンが女性であるという事実をまだ知らない。話す機会を逃してしまって、結局そのままだ。もう面倒なので返事をせずに頬杖をついた。
「なあ、どっちが良い?」
「…何」
「歌姫の可愛らしい笑顔と綺麗な白の髪、それに美しい歌声。良いよなあ!しっかし、俺は断然グレイアが好みだ!たまらんよなあ、あのスタイル…」
ぐへへ、と変な笑い声を上げて鼻の下を伸ばしているバーツ。リィンは頬杖をついて先に広がるその華やかな光景に目を向けた。ラディスは今は眼帯ではなく、左目の視力を補う為の片眼鏡をかけている。上品な鼻筋にぴったりの眼鏡。薄茶色の髪は短く切られていて少し若返ったような気もする。優しく微笑むその表情に、周囲の皆が安心しきってうっとりとラディスを眺めている。
「まったく悔しいが、絵になるよなあ。美女と先生…」
隣にいるバーツの呟きが、いちいちカチンとくる。リィンはふん、と鼻息を荒くしてそっぽを向いた。これ以上見ていたら胸が焼け焦げてしまいそうだった。
だってやっぱり、ネルティエとラディスはお似合いだ。美しい二人。
「うっわ!どろどろした真っ赤な炎!」
大きな声で言いながら、ウィリアムがリィンの肩にがしりと腕を回して笑った。彼は貴族のようにこぎれいな格好をしているのだが、口が悪いし目つきも悪い。
「これ、ジェラシーってやつ?化け物でもやきもち妬くんだな」
「うっ…うるさいな!違うよっ!」
その時、がたん、と椅子が倒れる音がして、ふらりと一人の男が立ち上がり大声を上げた。
「せんせいよお、そりゃ、ねえんじゃねえかあ」
健康的に日焼けをして頑丈そうな身体。ニコルの主人だ。ふらふらとした足取りでラディスのいる席へと近づいてゆく。
「みーんな、あんたの考えに賛成してよう、ずっと一緒にやってきたんじゃねえかあ」
リィンは少しだけ緊張してニコルの主人を見つめ、その場の皆が静まり返って様子を見守っている。主人はよろりとよろけてテーブルに両手をつき、ラディスの顔をのぞきこんだ。
「それなのに、せんせい、みんな置いて出てっちまうのかよお。こんの薄情もんがあ」
今まで大騒ぎしていたのが嘘のように、しんみりとした空気が酒場を包み込んだ。皆が縋るような視線をラディスに向けている。彼は席を立って、静かに語り出した。
「俺は常々思っていた事がある。ここの連中は人が良すぎる。俺は自分の好きなように動いていただけだよ。そのせいでひどく迷惑をかけてきて、申し訳なかったと思っている。こんなに勝手ばかりする自分について来てくれて、本当に感謝しているんだ。今回は命まで救ってもらった。…結局俺一人では全て、どうにもならなかった事ばかりだ。あなたたちのおかげで今も俺はこうしていられる。
本当に、ありがとう」
長身を折り曲げて、ラディスは深々と頭を下げた。皆が彼の声に聞き入って、彼の姿を目に焼き付けようとしているかのように、無言でじっと見つめている。どこからか鼻を啜る音が響いた。
「俺はこれからも、あなた達にもらったこの命を使って、あなた達に恥じぬように、あなた達が誇れるように、生きて行こうと思っている。どれだけ離れて遠くに行こうと、俺の故郷はこのルキリアの帝都、ベイルナグルだ。そして俺の家族は、ここにいるあなた達だ。俺は決してそれを忘れない。…それで勘弁してくれないか」
ラディスはそっとニコルの主人の肩を抱く。主人は彼の真摯な態度に感動して、目を潤ませていた。
「せ、せんせい…俺は忘れないよ、あんたの事ぁ…。この町でしてくれた事ぁ、ずっと忘れねえ!」
「そうだ…。きっと他の町ではまだ治療さえしてもらえない人だってたくさんいるはずじゃないか。きっとここよりもラディス先生を必要としてる場所があるんだよ」
「先生、この町の事は俺達とクレイ先生にまかせてくれ。困ってる人を助けてあげてくれえ」
「せんせい…」
ニコルの主人がラディスに縋るように抱きついた。その感動的な場面で、彼は不敵な笑顔を作る。
「…だから人が良すぎるというんだ。皆簡単に騙されて、俺を許す」
主人は一瞬呆気にとられてから、こんのおお、と大きな声を上げた。
「ゆるさん、ゆるさあん!!この詐欺師ッ!」
どっと笑い声が起こる。酒場はまた穏やかで砕けた雰囲気に包まれた。
それからも宴会は続き、リィンは先程から酒瓶の入った木箱を各テーブルに置いて回るという仕事をこなしていた。こうも長時間宴会が続くと店の人間達も酒を飲むので、必然的に動ける者が店の仕事をする羽目になるのだ。
「おーい、化け物!こっちにも酒頼む!」
遠くのテーブルにウィリアムの赤毛が見えた。片手を大きく振って呼んでいる。リィンは向かっ腹を立てて叫び返した。
「化け物って言うな!自分で取りに来いよ!」
「俺、か弱いからそんな重たい酒瓶持てないもーん!」
げらげらと一斉に笑い声が上がった。
この酔っ払い!心の中で毒づいて、酒瓶を持ってどすどすと歩く。
空になった木箱を手に酒場を出て空を見上げると、金色の大きな月が昇っていた。ひんやりとした風が頬を撫でて心地が良い。室内の酒の臭いと喧騒に解放されてほっとしながら木箱を壁に積んで、中身の入った別の木箱をうんしょと持ち上げる。戻ろうとした時、視界の隅に何かが見えた。酒場の裏口に誰かが佇んでいる。リィンは壁を背にして息を殺し、じいっとその人物を見つめた。
そこにいたのはラディスとネルティエだった。
二人を見た途端に緊張して、すぐにその場から離れようとするのだが、身体が動かず目は二人を凝視したまま固まってしまった。
ラディスは背をこちらに向けているので表情は分からないが、ネルティエの表情はよく見えた。彼女は盲目の為、リィンには気付いていないだろう。月に照らされて輝く白の髪につぶらな黒い瞳。少し切なげな表情をしているネルティエはとても美しく、リィンは呼吸をするのも忘れて彼女に見入っていた。
突然、歌姫の褐色の頬に透明な涙が伝う。
ネルティエは俯いて力無く首を振り、よろめくようにラディスの胸に寄り添った。リィンの目に彼女の一つ一つの動作が焼き付いてゆく。歌姫は薄紫色の身ごろのゆったりとした服を身にまとっていて、それがとても良く似合っている。ラディスは白のブラウスに黒のベスト、黒の細身のズボンに茶革の長靴といういつもの格好。なのに、まるでおとぎ話に出てくる騎士のように見える。お姫様と騎士。あまりにも綺麗で、幻想的な情景を見ているようだった。
その時。
震えている歌姫の小さな肩を、いたわるようにラディスの手が包んで…。
ラディスが優しくネルティエを抱き締めた。
思わず手が震えて酒瓶の入った木箱を落としそうになり、慌てて持ち直した。かちゃり、と瓶が鳴ったので、リィンは急いでその場から逃げ出した。
心臓がばくばくと張り裂けそうな程鼓動を打ち、耳がわんわんと鳴って訳が分からない。勢い込んで酒場の扉を開き、どん、と木箱を置いて部屋の奥へと駈け出した。
「おう!サンキュー」
リィンは誰も通らない店の奥の倉庫で、両手を胸の前でぎゅうと握り締め、小さく丸まってしゃがみ込んだ。身体中の血液がどくどくと脈打って、破裂してしまうんじゃないかと思うくらいだ。
ああ、どうしよう…。僕に勝ち目なんかない。
リィンの思考はどんどん暗闇に沈んでゆく。考えれば考える程、泥沼にはまる。
相手は世界一と称される程の歌声を持つ、美しく可憐な歌姫。
自分は世間では男性として通るくらいの、ちんくしゃだ。
ぶんぶんと首を振って慌てて打ち消した。そんな風に卑しく比較する自分が情けない。胸が痛くてたまらない。
リィンは今まで男性として性別を装って生きてきた十八年間のおかげで、女性である自分にどうしても自信が持てないでいた。女性としての自分は、ラディスに不釣り合いな気がしてならない。胸もないし言葉使いも粗野だ。その為にすぐ動揺して自信を失くしてしまうのだった。
リィンはぎゅううと小さく丸まったまま、うんうんと唸って、少し泣いた。




