094:遠い記憶
心臓の鼓動。規則的に刻む。恐ろしくも愛おしい、旋律。
温かく心地の良い風が頬を撫でる。ゆっくりと瞼を開いた。
「よう、死にたがり」
目の前に美しい青年がいる。こちらをじろりと睨み、朗らかに笑った。栗色の髪に赤茶の瞳。
ああ…。俺は夢を見ている。
「ルキ。今日はな、お前に新しい名をやる」
俺は確かその時にこう言った。
いらないよ、そんなもの。
「いいや、必要だ。お前の名は今日から、ラディスだ。そう名乗れ」
ふん。ダサい名前。
青年はがっくりとうなだれて唸った。
「随分悩んで考えたんだぞ」
大きな手が頭を撫でる。ゆっくりと、優しく。
「お前はルキリア族じゃないよ。イリアス族でもないがな…。そんなちっぽけな種族の括りを飛び越えた存在だ。そうだろう?お前の目は綺麗な青色をして金の琥珀を持ってる。だが心には燃え上がる紅い炎を宿しているんだ。お前の存在はとても稀有だ。誇りを持てよ」
青年の赤茶の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめている。
「なあ、ラディス。だからもう死のうとなんかするなよ。死ぬくらいの覚悟があるんなら、必死で生きろ」
簡単に、言うな。
「ああ。簡単じゃないさ。もっと言うとな、人を育てるのだって簡単じゃないんだぜ。たった一人で生きてると思うなよ」
沈黙が二人を包む。爽やかな風に、栗色の髪がなびいた。
「ラディス」
青年が振り返る。優しい微笑み。
「生きるのだって簡単じゃないが、そう捨てたもんじゃない。俺を見てろよ、必死で生きてみせるから。
いつか、種族の壁なんてなくなる日が来る。俺がその道を開く最初の一人、次はお前だ」
何だよそれは。勝手に決めるな。
青年は声を上げて笑った。
「お前には選択の余地はない。お前自身が諦めた命を、俺が拾ってやったんだぜ?俺の好きに使って良いはずだろう?」
大きな腕に抱き締められ、頬に温かな体温が伝わる。人の温もり。その鼓動。
「ラディス。お前なら出来るよ。お前の存在は、希望だ」
遠ざかってゆく。
まるで自分が大きな鳥にでもなったかのようにひゅうと風に乗り、その場から消えた。
ティルガ…。
これは遠い記憶。全ての始まりを告げた、大事な記憶。