092:命
ラディスの傍にひざまづき、じっと見つめた。血だらけだった。
薄茶色の髪も美しい顔も赤黒く汚れていて、身体中に無数の切り傷と打撲の跡。そのどれもが生々しく血を滲ませている。力無く垂れた両手には鎖が巻き付き、右腕の傷口は完全に開いてしまっていた。
リィンは震える心を押さえつけて、じっと息を殺す。彼の薄い唇から僅かな呼吸音を聞き、やっと息を継いだ。
「ラディス…」
リィンの指先が震えながら宙をさまよう。彼に触れたいのだが、どこに触れたら良いのか分からない程に痛めつけられていた。す、と頬を撫でると、瞼が痙攣して薄く目が開いた。もう顔を動かす体力も残っていないのだろう。彼の視界に入るように顔を近づける。ラディスの左目は血で赤く濁っていた。
「…俺は、死んだか…?」
「まだだよ、馬鹿」
ひゅう、と音がして、ラディスが僅かに口元を上げた。リィンは彼を包み込むようにふわりと身体を寄せる。ラディスの身体はひどく冷たくて、くたりと力がない。リィンの全身がじんわりと青白く光り出した。
「リィ…ン、よせ…」
硬質な鎖の音が響く。リィンが『命の力』を発動させた事を感じ、ラディスは力の入らない身体で身じろいだ。
「ラディス、じっとして」
「だ、だめだ…よせ…」
ぐ、とリィンのブラウスをラディスが掴む。
「や…やめてくれ…」
リィンは困惑して彼を見つめた。ラディスは眉根を寄せ目をつぶって、弱々しく首を振っている。
こんなにひどく傷ついて、今にも死にそうだっていうのに…。
「ラディス」
ラディスの頬に両手を添えて顔をぐっと近づけると、彼はうっすらと目を開けた。視点の定まらない瞳。
「ラディス、僕の目を見て」
彼の瞳を真正面から睨みつけるように見つめる。ラディスは苦しそうに喘ぎながらリィンに視線を合わせた。
胸が詰まる。
「ラディス、大丈夫だよ。僕は死なない」
ラディスの口元が動き、何かを言おうとしたが、それは声にならなかった。
「僕は死なないよ。あんただって死なせない」
彼の瞳から、涙がこぼれ落ちる。
もう一度傷だらけの身体を優しく抱いて、リィンは囁いた。
「一緒に生きよう、ラディス。一人になんかしない。あんたを一人になんかさせない。僕と、生きて…」
優しい光が二人を包み込み、じわりと身体が温かくなっていった。徐々に青白い光は強さを増し、暗い牢獄の隅々までが照らされてゆく。
冷え切って凍りかけていた体内に、その血管の隅々にまで、命の温もりが染み渡るように流れ込んでゆく。今にもその動きを止めようとしていた心臓にまで伝わり、そこからまた全身へと送り出される。大きな温もりが全てを包み、鼓動を促して、弱々しかった彼の身体が少しずつ力を取り戻す。
ラディスは震えながら大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「ああ…温かいな…」
リィンが伏せていた瞳を開けてラディスを見つめる。彼は目を閉じたまま泣いていた。
ラディス。
あんたはとても強くて、ずっと自分の力で自分の運命を切り開いて生きて来た。自分の思うとおりに、信念を持って生きて来た。批判も賛辞も受け止めて、少しもぶれずにたった一人で歩き続ける。自分以外の相手を護れる強さも持ってる。皆があんたを信頼して、あんたの傍で安心する。まるで太陽だ。それは誰もが憧れるような強い生き方。だけど、ああ…。
どうしてこんなに可哀そうで、不自由なんだろう。
何て、愛おしい…。
「ラディス、泣かないで…僕がずっと傍にいる…」
リィンは泣いているラディスの頬を拭って、そっと口付けた。
◇◇◇◆
「そうか…ルーベンが捕まったか」
「うん」
壁を背に、ラディスに寄り添うようにしてリィンは身体を休めていた。彼の傷はいまだに生々しいままだったが、体力が回復した事でその鼓動は力強い。彼は片足も折られていた。
ラディスが静かに笑う。
「俺は結局、護ろうとしていた者達に護られていたんだな…」
「うん…」
「…チェムカは、無事か?」
「うん、大丈夫だよ。…チェムカにはお母さんも家族もついてる」
もう夜は明けたのだろうか。この地下にある牢獄には光も音も、何も届かない。しかしリィンは心から安心していた。隣にラディスがいて、彼の鼓動を聞いているだけで良かった。
もう絶対に、離れるもんか。
「『命の力』って、ビーダ石に反応しないんだね」
リィンが思った事を何気なく口にした。
ああ、そうか…だから父様も母様や皆を癒す事が出来たのか。
不思議な力だ。
「ラディス。『命の力』の研究はしないの?」
「…する気になれない」
「僕が協力するのに…」
ふん、とラディスが鼻で笑った。
「そうか。それならまず裸にして、触診から始めよう」
「…変態」
静かに笑い合う。
「リィン」
「何?」
「あの子守唄、歌ってくれ」
「いやだ。何か不吉だ」
「…じゃあ、少し寝て良いか」
「いやだ」
リィンは彼に抱きついて不機嫌な声を上げる。
「だって…そのまま死んじゃいそうだ、あんた」
ラディスは笑いながらリィンの髪に口付けた。
「もう大丈夫だ。お前が命を分けてくれたろう」
「うん…」
その時、階段から何者かが近づいてくる足音がした。リィンはゆっくりと身体を起こして前方を見据える。姿を現した人物は、倒れている軍人達に驚きつつこちらに顔を向けた。牢の中にいるリィンを見てまた驚きの表情を浮かべる。
「ほう…そうか。これはお前の仕業か。手間が省けた」
そう言って顔を歪めて笑った。薄い青のドレスにストールを肩に羽織り、金の髪を結い上げた女性。口元にほくろのある顔は、一見愛らしいとも言えなくはない。皇族の証である≪黄金の青い目≫。けれど今まで見て来たどの瞳よりも、醜いまでに光が歪み、狂気が滲み出ていた。
これが、トワ。ラディスの全てを奪った女性。
ざわりと鳥肌が立つ。たとえ何であろうと、ラディスを傷つけようとする者は許さない。
もう、許してやるもんか。
後ろに連れていた頑強な軍人がいやらしい笑みを浮かべて剣を引き抜いた。
「何と都合の良い。自らビーダ石の牢獄に入るとは。これならイリアス族も脅威ではないですな」
「ノランド、イリアスなぞ放っておけ。ラディスを殺せ!今すぐだ!!」
「仰せのままに」
リィンが相手を睨みつけながらラディスを背に庇うように前へ出て、自らの剣を抜いた。
「ほう。戦うつもりか。随分と忠実な護衛じゃないか」
「…もうすぐ審議が始まる。こんな事をして許されるわけがない」
「ふん。カイエリオスが居ない今、帝都の頂点はこの私だ!審議など必要ない!
ラディス・ハイゼルと護衛のイリアスは反逆罪とみなし、極刑に処す!この場で刑の執行を行うっ!ノランド大尉、この反逆の徒を斬り捨てよ!」
「反逆の徒はあなただ、トワ妃殿下」
凜とした声が響き、複数の靴音がそれに続く。階段口に立つ人物を見て、トワが慌てたように後ずさりした。
「お、お前っ!何故…何故、ここに!」
金の短髪にルキリアの青い瞳。紺色の軍服に身を包み、全身から凛々しさを漂わせる青年。
毅然とした足取りでゆっくりと近づいてくるその青年は、紛れもなくアルスレイン王子だった。
「私が何も考えていなかったとお思いですか、伯母上」
軍人達がばたばたとなだれ込み、ノランド大尉を拘束し牢の中にいるリィンとラディスを助け出す。
「私のみザイナス国へ向かうのを一日遅らせて途中の町で待機していたのです。まさか≪早馬≫が全て殺されるとは思わなかった。しかしそれも浅はかな計略です。私専用の≪早馬≫が届いていたのですから…。あとでゆっくりとお話をお聞かせ願いましょう。…伯母上をお連れしろ」
「このっ…私に触るな!無礼者!!」
トワは軍人によって取り押さえられ連行されてゆく。恐ろしい程狂気に滲んだ金切り声が、延々と響いていた。
「すまない、ラディス。到着が遅れてしまった。無事か?」
アルスレインは軍人に肩を借りて歩くラディスの腕に手を添えた。
ラディスが苦笑をしながら答える。
「無事に見えるか、これが」
王子はほっと安堵のため息をこぼして、隣に佇むリィンに微笑んだ。
「ひどい有様だが、どうやら無事のようだ。良かった」
こうして事件は終息を迎えた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
最終部はまだ少し続きます。
ひどいですね、このシリアスっぷり。そして重ーい長ーい辛ーいの三十苦(笑)
しかしやっと峠を越えて光が差す。
あとはらぶらぶして欲しい。
もしここまで読み進めてくれた読者の方がおりましたら、
この身を捧げます。
あ、いらない…。ですよね。
いつも立ち寄ってくださる方々に感謝を。




