091:闇夜
「ルーベン司教も保身の為に真実を述べるはずだ。そうすればトワ妃の企みも世に暴かれる。うまくいけばアルスレイン元帥を失脚させようとしている皇族達にも追求の手を伸ばせるかもね」
「ええ…。しかし審議が開かれるまでのこの時間の方が危険ですね…。追い詰められたトワ妃が何をしでかすか分かりません」
「そこはペイン副指令が本部に詰めていてくれるから大丈夫じゃないかなあ…」
「ですが相手は皇族ですから…」
ソアは神妙な面持ちで語り合うクレイとエンポリオに茶を出してから居室を静かに退出した。
その後パウラは審議が開かれるまで安全な場所に身を隠す事になり、請け負ったジェイクと共に、診療所を後にした。もう既に真夜中だ。この夜が明ければルキリア国の法に則って審議が開かれる予定である。審議要請の書簡が提出されてから三日以内に審議を開かなければならないという法律がある。しかしそれさえも不安の要素が十分に残っているのだ。何故なら相手は皇族、その法を統べる者達だ。簡単に世界の秩序さえ覆せる力を持っている。
それに明日になれば、ラディスが拘束されてから既に三日が経過する事になる。≪早馬≫もザイナス国に到着している頃だろう。もしかしたら国王達は自国へ向けての帰途についているかも知れない。
やっと黒幕であるルーベン司教の尻尾を捕らえ、こちら側の勝利が決まったというのに心は晴れないままだ。これによって彼の信者や支持者達にも何かしらの判決が下るだろう。そうなればラディスとロンバートが進めて来た新しい診療システムの構築と医療改革に、大きな障害がなくなる。とても晴れやかな前途になるわけなのだ。しかしクレイもエンポリオも、長年敵対してきたあの司教を捕らえる事が出来たというのに少しも浮かれる事もなく、ずっと難しい顔をしたままだった。
皆恐ろしくて口には出さない。
けれどその可能性は打ち消しても打ち消しても、黒い靄のように心を覆ってゆくのだ。
ラディスが既にこの世にはいないのではないか、という可能性…。
ソアはため息をついて二階へ続く階段を昇り、リィンが眠っている寝室の扉をそっと開いた。ランプの灯が落ちている室内は予想に反して青白く光っていた。見ると窓が大きく開いていて月明かりが室内を照らしている。
「…リィン?」
ゆっくりとベッドに近づいてゆく。そこに、リィンの姿はなかった。
◇◇◇◆
ウィト・ネールが眼鏡を外し、眉間を押さえて唸る。
「まさかこんな事になるとは…。あの権力に弱い男が寝返るとは思わなかった…ペインめ」
「そんな悠長な事を言っている場合ではないぞっ!我々が絡んでいた事が世に出れば、我々とて追放だけでは済まされんッ」
ワイゼフが唾を飛ばし身を乗り出して、テーブルを囲む者達の顔に視線を巡らせる。
「速やかに事後の処理をしなくては…。罪人か労働者の中から何人かを引っ張ってこさせよう」
ガズナイルが苦虫を噛み潰したような顔で呟き、それに首を振ってレイベンロウが口を開いた。
「審議でルーベンが自白をすれば終わりです。工作は無意味ですよ…」
「ああ!何だってこんな事にっ。これも元はと言えばトワ妃殿下、あなたの提案に乗ってしまったからだ!!私だって今回の策には疑問があったのだっ!それをあなたが強引に押し進めたのですよ!」
太った指先をトワに突きつけてドムクスが声を張り上げた。その場の全員が無言でトワを見つめる。重苦しい沈黙を破るかのように、トワが顔をひきつらせて怒鳴った。
「ドムクスっ。言葉を慎め!私を誰だと思っている!お前とて乗り気だったではないかっ!」
「…いかがなされるおつもりか、トワ妃殿下」
「怖気づきおって!やっとあの男を捕らえたのだぞ!?今を逃せばもう奴を捕らえる事はできぬ!殺すしかないのだ、そうであろう!?」
まくしたてるトワを冷ややかに一瞥して、レイベンロウが席を立った。
「もうゲームオーバーです。私は降りますよ…今回の事はなかなか勉強になった」
それを合図にがたがたと椅子を鳴らして、ワイゼフとドムクスの二人が去って行った。トワは呆然とその後ろ姿を見送る。
「…トワ妃殿下、あの男に執着するのもそろそろおやめになった方がよろしいでしょう」
ガズナイルが低く呟き、立ち上がった。
「な…んだと…?」
トワのこめかみには青筋が浮かび、力が入りすぎた両手が小刻みに震えている。
「何十年も昔の話です」
大きな広間にある、縦長のテーブル席にトワとウィト・ネールだけが残された。乱れた豪華な椅子が沈黙で闇を深くする。
「私は老い先短い老人です。トワ妃殿下…お供いたします」
ウィト・ネールがぼそりと呟きを落とした。
「ノランド!」
トワはウィト・ネールの言葉には反応せず、背後に控えていた軍人の名を叫んだ。壁際に佇んでいた紺色の軍服を来た男が返事をしてトワの背後に立つ。背が高く大柄な軍人は目がぎょろりと大きく、口元は不気味に微笑んでいた。狡猾、という言葉がふさわしい表情。
「ついて来い」
短く告げ、トワが席を立ち軍人を連れて広間を後にした。
無機質な大広間にたった一人残された老人は、力無く椅子に背を凭れて両手で顔を覆った。
◇◇◆◆
茂みの中から裏口の門扉を守る軍人にじっと視線を向ける。ゆっくりと静かに、相手の喉元を睨みつけて『力』を発動させ圧を加えてゆく。加減を間違えると相手を絞め殺してしまうので慎重にしなくてはならない。武装をした軍人がよろりと傾いて、どうと地面に崩れ落ちた。もう一人、門扉を守っていた軍人が驚いて同僚の元へ駆け寄る。気絶して倒れている相手に呼びかけているところへ素早く駆け寄り、無防備な脇腹に剣の鞘でつきを食らわせる。相手は、ぐう、と声を出しばったりと倒れた。
リィンは短く息を吐き出して目の前の扉に深紅の瞳を向ける。ぱきり、と小さな音を立てて扉が開かれ、するりと身体を滑り込ませた。イリアス族の『力』があれば、牢破りなど簡単な事だ。リィンは難なく帝国軍本部に侵入した。
もうこれ以上、じっとなんかしていられない。もう耐えられない。…もう、良いだろ?
リィンは浅くなりがちな呼吸を整えて暗闇にじっと目を凝らす。
僕には耐えられない。
ラディス。あんたを犠牲にしてまで、他に何を求めろっていうんだ。
それなら他のものなんか全部、いらないんだ…。
薄暗い通路を進み、詰所にいた軍人達も気絶させて壁にかかっていた鍵束を持つ。最下層の牢獄はビーダ石で出来た特別な牢だと聞いた。その牢へと続く暗い階段を下りる。空気が冷えていて壁に手をつくとひやりとして湿っていた。先にぼんやりと光の輪が見え始め、ためらわずその光の中へと突き進んだ。牢を守っていた三人の軍人が突如現れたリィンの姿を見て驚き、一瞬動きが遅れる。リィンは間髪入れずに『力』を放って相手を吹き飛ばした。軍人達が気を失っている事を確認して、牢へと駆け寄り震える手で鍵を掴んで施錠を開く。視界の隅に、壁にもたれかかった彼の姿が見えて心臓が止まりそうになった。
「ラディスッ」