090:駆け引き
深呼吸を数回繰り返し、扉にある呼び鈴を鳴らした。外には半分に欠けた月がかかっている。講堂の正面入り口ではなく、その横に建つ四角い建物。その玄関に明かりが灯った。
大丈夫、うまくやれるわ…。
パウラは脳裏に愛しい娘の姿を思い浮かべて薄く微笑んだ。たった四年でこの世を去った、何よりも大事な娘。ソフィ…。力を貸してね。
扉が開いて従者が姿を現す。
「遅くに失礼致します。私…どうしてもルーベン司教様に会ってお話ししたい事があるのです…。パウラ・ビレントとお伝えしたら分かると思います」
玄関口で少し待たされてから室内に通された。ランプの灯に照らされた細長い通路を歩き、突き当たりの部屋に案内される。
「これはこれは…。パウラさん、どうしました?」
書斎らしきその部屋の中央にある机の前に、ルーベン司教は書物を手にこちらを振り返っていた。目がなくなってしまったかのような笑みを湛えた司教はいつもの法衣を着ておらず、白のブラウスに茶のズボンという楽な格好だった。パウラは深々とお辞儀をして口を開く。
「夜分に失礼致します。ルーベン司教様、いつぞやは大変にお世話になりました」
司教は一つ頷いて両手を広げる。
「私は何も。リリーネ様の思し召しです。あなたが娘さんを亡くされた深い悲しみから立ち直ってくれて本当に良かった。さあどうぞ、おかけ下さい」
応接用の椅子に腰をかけると、司教も目の前にある椅子に腰を下ろした。
パウラは以前、講堂を訪れ彼の説法を聞いていた。それは娘を亡くし、セティナの家の近所へ越したばかりの頃だ。何度か高い料金を払ってルーベン司教に教えを請うた事もある。その頃から司教はパウラの境遇に興味を持っていたようで、茶会に誘われた事もあった程だ。それはあのロンバートの病院で娘を亡くしたという事実があるからだろう。一度誘われるままその茶会に出たが、集っていたのはロンバート医師やラディスを批判する者達ばかりだった。
それからは子供達の面倒を見るようになり、そうなると忙しくてだんだんと足が遠のいていった。
「…ルーベン司教様、今回のレニツィ病院での事件の事で、ご相談があるのですが」
パウラは緊張で震えそうになる唇を舌で濡らして続ける。
「私のお世話になっているトルメさんのお嬢さんが、大変な事になって…」
「ああ、その事は聞いています。何とも痛ましい事件でしたね…。そのお嬢さんも、ラディス先生に脅されていたとか…本当に恐ろしい事だ」
司教は眉根を寄せて、辛そうな表情で首を振った。
「はい…。それで、あの、私…見てしまったんです」
ぎゅっと両手を握り締める。ここから、司教を追い詰めねば。
パウラは意を決して顔を上げ、ルーベン司教を真正面から見つめて言った。
「チェムカちゃんは、レッジ君…弟を助ける為にあんな事をしたんです。私、聞いたんです…。小さな姉弟が話し合っていたのを…」
司教は細い目を大きく見開いて身を乗り出す。
「ほう。それは一体どういう事でしょう」
パウラはじっと彼の両目を見つめ、小さな声で語り出した。
「どうやらレッジ君は、町の良くない人達に脅されていたらしいんです。その人達に家畜を絞めて持ってこいと言われていたんです。私、それから心配でチェムカちゃんの後を追いかけました」
司教は心の底から心配しているような顔で頷いて、先を促す。
「そうしたら、チェムカちゃんが男に家畜の死骸を手渡すところを見てしまったんです」
「その犯人達も既に捕まっていますよ、パウラさん。あれもラディス先生が脅して使っていた者達だとか…。しかしもう大丈夫です。安心してください」
パウラは首を強く横に振って俯いたまま言葉を絞り出す。
「ち、違うんですっ。私、そこで男の顔を見ていました」
「…ほう」
「ど、どこかで見たような気がして、何だかもやもやとして…。でもそんながらの悪い人と関わりがあるわけじゃないし…。ずっとどこで見たのだろうと思っていたんです。それでつい最近、その男を前にどこで見たのか、思い出したんです…」
下からすくい上げるように、おそるおそるルーベン司教に目を向けた。
お願い…うまくいって。
「前にルーベン司教様に誘っていただいた、あのお茶会で見かけたんですっ。
…ルーベン司教様、あの男とどこでお知り合いになったのですか!」
ルーベン司教は口を開いて驚愕し、片手を自らの胸に添えて声を上げた。
「な、何と言う事だ…。では私も狙われていたという事でしょうか」
パウラの口ががくん、と開いた。
「…え?」
「犯人の男が茶会に紛れ込んでいたという事でしょう!?ああ、何と恐ろしい。私はリリーネ様に護られたのでしょうか…」
「あ、あの、ルーベン司教様。ですがあのお茶会は、司教様に直接お誘いいただいた方しか出席できないものだとお聞きしました…」
「ええ、ええ。そうですとも。しかし…そんな恐ろしい男が入り込んでいようとは私も気付きませんでした。パウラさん、その事も帝国軍に是非とも証言していただきたい。彼が以前から恐ろしい計画を練っていたという証拠になります」
パウラは愕然として目の前の壮年を凝視した。相手はいたわるようなまなざしを向けている。
失敗した…。
司教は、何一つ動揺さえしていない。こんな言葉では彼を狼狽させる事すら出来なかったのだ。自分が提案したこの作戦が、こうもあっさりと失敗してしまうとは。相手の方が数段上手で、抜け目なく、厚顔だ。
駄目だ。
何か考えて…。一つでも良い。この仮面が剥がれ落ちるような言葉を…。
「あまり遅くなると危険です、もうお帰りになった方がよろしいでしょう。この事は私からも軍に通報しておきます。何も心配いりませんよ、パウラさん」
言いながらルーベン司教が席を立ってしまった。パウラは何とかこの場を引き延ばそうと必死に考えて口を開いた。
「で、でもどうしてチェムカちゃんに家畜の死骸なんてものをわざわざ持って来させるように仕向けたのでしょうか。彼女が誰かに知らせる可能性もあったっていうのに…。あのラディスという医者が犯人達を脅していたなら、全てを犯人達にさせれば良かったと思うんです。わざわざチェムカちゃんを、弟を使ってまで巻き込む必要があったのでしょうか!?」
司教は背を向けて書棚に本を戻して首を振る。
「さあ…私にはさっぱり…。もしかしたら、単にそのお嬢さんを苦しめたかっただけなのではないですか?豚を絞める、なんていう作業はあの年頃の娘さんには酷な事でしょう」
どきりとひと際大きく鼓動が鳴った。口元が震え息が止まりそうになりながら、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
「あ…」
ルーベン司教がパウラの異変に気付き彼女に近寄ってゆく。
「どうしました?どこかお加減が良くないのですか?」
「…司教様」
パウラの痩せた肩にそっと手を乗せて、司教は目を細めて慈愛の笑顔を作る。
「どうして、豚だと…?」
「…はい?」
パウラは真っ直ぐに彼の顔を見上げる。
「どうして豚だとおっしゃったのですか?チェムカちゃんが犯人に渡したのは…鶏です」
すっと司教の顔から表情が消えた。
「確かに犯人の指定は豚の死骸でした。でもやっぱりチェムカちゃんには豚を絞める事は出来なかったんです。一度も経験がなかったから…。だから鶏を絞めて持って行ったんです。家畜を豚だと指定された事実は、弟のレッジ君とチェムカちゃんと、犯人達しか知らないはず…。世間では家畜の死骸としか発表されなかったんですもの…。
…だからその当事者から直接話を聞かなければその事は分からないんです。チェムカちゃんは軍に捕まった後誰とも面会を許されなかった。弟のレッジ君もすぐにこの帝都を離れているから、二人からは話が聞けないはず…」
「…ああ、はは。その事ですか。私は知り合いの保安部隊の方から聞いたのですよ。もちろん本当は鶏の死骸だって事も知っていました。どうしてだろうな、つい豚と言ってしまった。家畜というと、真っ先にそれを思い出すからでしょうね」
そう語る司教の表情は既に普段の柔和な笑顔に戻っていた。パウラはそれを見てまた落胆する。
ああ、あともう少しだったのに…。
「おお、そうだ。すみません、まだお茶もお出ししていなかった。申し訳ない。今すぐご用意しますよ」
「い、いえ。私はもう…」
パウラの肩に置かれている手に力がこもる。はっとして目を上げた。
ルーベン司教はにゅうと恐ろしいくらいに、笑っている。パウラの心は震え上がり、同時にほっと安堵した。
うまく、いった…。
「そうおっしゃらずに…さあお座りになって。…おおい!お茶をお持ちして!いつものではなくて、特別に取り寄せたお茶だ!」
ルーベン司教は扉の外に向かって大声を上げて、有無を言わさずにパウラを椅子に座らせる。
「あの…」
彼は普段通りの笑顔のまま。その口が細く横に開いて声がもれた。
「私はリリーネ・シルラの使徒。お前のような貧しい女が、この私を脅かせると思うな」
どかどかと荒々しい靴音が響いて、乱暴に扉が開かれる。目を血走らせた男が三人、それぞれに剣を持って部屋に入って来た。パウラは恐怖に顔を引きつらせて悲鳴を上げる。
「この女を片付けろ」
ルーベン司教は低くそれだけ告げると、書棚からまた新たな一冊を取り出す。
「ル、ルーベン司教様!」
パウラは両脇からがしりと掴まれて動きを封じられ、また悲鳴を上げた。目の前に男が立ちはだかる。
「パウラさん、あなたは穢れている。穢れは粛清されなければならない。愛しい娘さんの元へ送ってあげましょう。ああ、お前達。血はあまり流れないようにしてくれよ、書斎を汚い血で汚したくはない」
「いやああ!」
「殺せ」
男が銀色に光る切っ先をパウラに向かって振り上げる。そこで、時が止まった。
「何をしている!早く殺せっ」
ルーベン司教は顔を上げてその光景を見つめた。目の前の男三人が、まるで魔法をかけられたみたいに動かない。一人は剣を振り上げたままで、他の二人もパウラの腕を掴んだまま目を大きく見開いて微動だにしない。
「う、動かな、い…」
「何っ」
「そこまでだ!ルーベン!」
がなり声が響き、帝国軍の軍人達が室内へどっとなだれ込んできた。抵抗する間もなく、男達が軍人によって拘束される。
「現行犯だ。言い逃れはできまい」
こちらにゆっくりと足を運ぶ、紺色の軍服に身を包んだ中年の男。でっぷりと太った腹がせり出しているその男をものすごい形相で睨みつけ、ルーベン司教は地獄の底から湧き上がるような声を張り上げた。
「お、おのれ…!ペインッ!!裏切ったな!」
ペイン副指令の背後から見知った人間達が姿を現す。ルーベン司教は縋る思いで叫んだ。
「こ、これは罠だっ!私は嵌められたんだ!!この私を拘束するつもりか!?」
「ルーベン司教…あなたには既に味方はいませんよ」
ルキリア貴族のエンポリオが静かに告げた。
「皇族達は決してあなたを庇いはしないでしょう。そればかりか、今回の事は全てあなたが企んで皆を騙したのだと正式な書簡で通達してきますよ?だってあなたは司教とはいえ一介の町人。ルキリア族ではないのですから」
ルーベン司教は愕然とし、わなわなと身体を震わせて絶句した。普段の神々しいまでの落ち着いた雰囲気は、欠片も残っていない。
「審議が開かれるまで、あなたの身柄はこちらで保護させていただきます。…正直に真実を述べる事です。ルキリア皇族はあなたを助けたりはしませんからね…」
放心したままのルーベン司教の両腕を軍人達が押さえ、ゆっくりと歩き出す。リィンはパウラの肩を抱いて道を譲った。その時、司教の狂気に歪んだ目がリィンを捕らえ唸り声を上げた。
「許さんっ…許さんぞ!!この化物めっ!神に仇なす者!私は神聖なる神の使徒だっ!この私にこのような屈辱を与えて無事で済むと思うな!あの男…ラディスとてもう死んでいるぞ!!
そうだ、もうとっくに死んでいる!ひどい拷問を受けて既に事切れているわっ!!」
リィンの耳に、ルーベン司教の狂った怒声がいつまでも響いていた。