088:憎しみ
ご注意願います。
本文中、残酷な描写が含まれております。
御承知の上、お進みください。
薄暗く湿った通路を歩く。この場所は昼間でも日の光が一切入らない。前を歩く宮殿付きの軍人が慎重に足元をランプの灯で照らし、告げた。
「足元が滑りやすくなっておりますので、お気をつけて」
「分かっておる」
この地下牢には何度も足を運んでいる。時には一人で降りた事もある程だ。ルキリア帝国軍本部の建物は宮殿と隣り合わせに建てられており、地下の通路で双方が繋がっている。最下層に位置する地下牢はカイエリオスが国王の座についてからはあまり使われていない。その昔は随分と活躍したものだった。この牢獄はビーダ石で出来た特別なもので、数十年前には汚らわしい罪人のイリアス族共が入っていた事もある場所である。
トワは部屋着の上から厚手のストールを肩にかけ、込み上げる喜びに笑いを噛み殺した。何度この時を夢見た事だろうか…。通路の先に光が広がり始め、同時に生々しい音が耳に届いた。人間の身体を蹴り上げる重量感を伴う鈍い音。それに皮膚を鋭く切り裂くしなやかな鞭の音。
ああ…心地の良い音。何度聞いても心が震えてしまう。
煌々とランプの灯に照らされた最下層にある監獄。ビーダ石で造られた牢の中にいる男の姿を見て、高らかに笑い声を上げた。軍人達が拷問をしていた手を止め、トワに向き直り敬礼する。
「良い様だ。お前にはそのような姿がふさわしいぞ、ラディス」
硬質な鎖の音が響く。ラディスは両手を鎖で繋がれ、力無くむき出しの岩の地べたに横たわっていた。大きく咳き込みながら身体を起こし、壁を背にして荒い呼吸を繰り返す。鞭がブラウスを切り裂き、鍛え上げられた体躯には無数に鋭い切り傷がついて血が滲んでいる。右腕の傷口から真っ赤な血が流れており、彼の左目の辺りには大きな青痣が出来ていた。トワはラディスの顔を見て不機嫌になり声を荒げる。
「顔は傷つけるなと言ったであろう!お前達、下がっていろ!牢に私とラディスの二人だけに」
「は…。しかしトワ妃殿下、それは危険では…」
「ふん。これ程痛めつけたのだ。この男とて既に虫の息ではないか」
言いながら牢の門をくぐり、ラディスの前に立った。軍人から鞭を受け取る。
「どうだ?この鞭の味は…。施設にいた昔を思い出すであろう」
鞭の柄を持ち、彼の露わになった右胸にある烙印にぐいと押しつけた。目の前のボロ布のような男が低く呻く。
「くっ…ふふふ…。ああ、何とも言われぬ気分だ。何と無力な男…。ラディス、お前の人生の全てを私は奪ってやった。ふふっ…お前の母も、お前の皇族としての人生も。その幸せも!今まで築き上げて来たものも全て、たった今崩れ去ったぞ!この私にかなうとでも思っていたのか!この皇族の私に!?ああ…何と愚かな!お前は死ぬまで、私に全てを奪われる運命なのだっ!」
トワの甲高い笑い声が牢獄に響き渡る。狂気を含んだ彼女の声は、心からの歓喜に満ちている。
「憎いか、ラディス。この私が憎いであろう!?」
声を発しない彼の髪を掴んで顔を上げさせ、笑顔のままラディスの顔をのぞきこんだ。ラディスは薄く目を開いてトワを見つめる。その男の顔を見た途端、どす黒い憎悪の感情が一気に吹きこぼれ、トワの表情が醜く歪む。身体を離し、思い切り鞭を振り下ろした。
「その顔!あの薄汚い女狐そっくりだ!あの売女!恥を知らぬ毒虫のようなおんなっ!!汚らわしい!」
何度も鞭を振り下ろし、ラディスが地べたに両手をついてうつ伏せに倒れ込んだ。トワは肩で息をし、乱れた髪を片手で押さえつけてまた口元をほころばせる。
「お前の顔には後でじっくり仕置きをしてやる。焼きごてで醜い跡をつけてやろうか、それとも皮膚を剥いでやろうか…ふふふ…」
ゆっくりと身体を起こしラディスがトワを見上げる。その男の無残な姿を見て、またこらえ切れぬ程の喜悦が全身を駆け巡った。
まだだ…。もっともっと、この男を痛めつけたい。
絶望して涙を流し、立ち上がれなくなるまでに打ちのめしたい。
「革命だと?馬鹿馬鹿しい。お前が英雄!?冗談にも程がある。お前は薄汚い罪人の子、その皇族の≪黄金の青い目≫を盗んだ卑しい下賤の子供だ!お前が今までして来た事など全て無意味だ!全てお前のせいなのだ、ラディス。この悪魔め…。
お前がこの帝都に来なければ、何事もなく平穏な生活を皆が送ってこれたのだ。そうだろう?お前に関わったばかりに、あの町娘は罪人にされたのだぞ?」
にっこりと笑いながらラディスを見下ろす。その目は冷ややかで冷酷な炎を宿している。
「それにあの信心深い男…。ルーベンをあそこまで追い詰めて地獄に落としたのは他でもない、ラディス、お前だ。くっくくく…。あの男はお前を殺す事が出来れば何でも協力すると言ったぞ?あの帝都の良心と言われた大司教が!あやつをそこまで狂わせたのはお前なのだ!」
目の前で切れ切れに息をする男が苦痛の表情を浮かべた。
さあ、苦しめ。もっと。
私の受けた苦しみはそれよりも遥かに重い。まだまだだ…。
「…トワよ…あなたの、言うとおりだ」
ラディスが掠れた声で言葉を発した。
「あなたはいつでも俺の全てを、何の躊躇もなく簡単に…奪ってゆく…大事なものも人も、全て…」
「あっはははは!良い気味だ!!」
「だが…俺は、あなたを憎んではいない」
ぴくりとこめかみが脈打つ。ぼろぼろに傷ついて血だらけの男は、真っ直ぐにこちらを見上げている。
「あなたは、誰にも愛されなかった哀れな女性だ…」
胸の中に重く醜い何かが生まれ、蠢いた。
「な…に…」
「俺は何一つ、後悔していない。たとえ万人に憎まれたとしても、同じ事をして来ただろう…」
滅多打ちに叩きのめして全てを奪ったはずなのに、目の前の男の瞳にゆらゆらと力が戻ってきている。
何故だ…。
「トワよ…あなたが俺を憎み続けてきた間、俺の時はとっくに先へ行った。成長したんだよ。…もう何の力もない子供ではない。あなたの時は、いまだに止まったまま今を生きていない。あの頃に魂を置いてきたままだ…。
俺の母親は死んで二十年以上も経ってるんだぜ…グランハートだって、もう既にこの世にいない。あなたが殺したんだろう?しかしあなたは、先に進めずにいる。…これが哀れでなくて何と言うんだ」
「黙れ!負け惜しみを言いおって!」
びしりと鞭を振り下ろす。
言い知れぬ恐怖が、ひたひたと背後に迫ってきている。胸の中で生まれた醜い何かが、泣き声を上げている…。
もう一度鞭を振り上げようとした時、鎖で繋がれたままのラディスの両手が動き、その先端を地面に押さえ動きを封じられた。トワは驚き、柄を手放してしまった。よろりと一歩後ずさる。
「…俺を殺したところでもうどうにもならんぞ。既に流れは本流になった。俺を消しても、また同じように志を持った青年が立ち上がるだろう。もうあなたの時代は終わったんだ、ルキリア皇族の時代は終わる。今更あがいたところで、どうにもならない」
「な…何を…」
ラディスの目が、ぎらぎらと力に満ちてゆく。
ぞっとした。
鎖で繋がれ血を流し、息も絶え絶えの男が口元を上げて笑ったのだ。トワは恐怖に震え上がった。
ああ…この目はどこかで見た事がある。その時も、戦慄した事を覚えている。
これでもかと打ちのめして手足を折っても、その目から光を奪えなかった。命乞いをしろと命令しても、その男は屈しなかった。ルキリア族に歯向かい奴隷解放を叫び続けた、紅い目をしたイリアス族の男だった。
何故だ。何故、同じ目をしている…。
「民衆はそれ程愚かではないんだよ、トワ。時代は変わる」
「だ…黙れ…」
「これからはルキリア皇族だという理由だけで権力を持つ事は許されない。本当に力のある者が政治の中心に立って国を動かしていく事になる。そこに種族の隔たりなどあり得ない」
「黙れ黙れ黙れッ!!この下賤がッ!」
「今までどんなに優秀でも、ルキリア族でないというだけで見向きもされなかった者達に光が当てられるだろう。アルム族でも混血種でも、実力が正しく認められる世界になる。今はそうでなかったとしても、その子供の世代では必ず、実現する」
「うるさいッッ!!」
トワは片足でラディスの右腕を蹴飛ばした。生々しい傷口を抉るように踏みつけると、彼は激痛に声を上げて身体をのけぞらせた。肩で息をしながら素早く足を戻して背後を振り返る。軍人達が凍りついたようにその場に突っ立っている。その中で一番若い軍人に目を向けて、言い放った。
「お前、この男の足を折れ」
あまりの突然の事に軍人は間抜けな顔でトワを凝視している。
「早くしないか!」
苛々して叱りつけると、びくりと肩を震わせて軍人の顔に恐怖が浮かんだ。だんだんと顔色を失ってゆく。
「あ、足を…ですか」
トワは牢を出て、壁に立てかけてある鞘に入った剣を軍人の胸元にどんと押し付ける。それだけで若い軍人はよろりと足元をふらつかせた。軍服にはそれなりに地位のある勲章が付いている。苛々が募る。
「この私の命令が聞けぬというのか!?お前もこの男のようになりたいかっ」
「ええい、この臆病者が!トワ妃殿下、私がやります」
声に振り返ると、大きな腹をして鼻の下に短い髭を生やしたペインが憮然とした表情でこちらにやってくるのが見えた。彼は若い軍人からひったくるようにして剣を奪うと、トワに向き直って敬礼する。
「おお…ペインよ、今までどこに居た?」
「は。町を巡回に行っておりまして…不在をお詫び申し上げます」
ペインはそのまま牢の門をくぐり、横たわっているラディスの前に仁王立ちする。
「ラディス、お前もとうとうこれで終わりだ!」
「…ペイン副指令。あなたの判断は、間違っていない…」
ラディスが小さく呟いた。
ペインは無言で、一度大きく息を吸った。両手で鞘に入った剣を振り上げ、彼の脛めがけて躊躇せず思い切り振り下ろした。
トワの狂気じみた甲高い笑い声が、地下牢の壁に無数に跳ね返り響き渡った。




