087:共存する光と闇3
二人がチェムカの家に辿りつくと、母のセティナが出迎えてくれた。居室に通されるとそこにパウラもいて、無言で会釈をする。
「チェムカは?」
「部屋にいるだ。荷物をまとめてるとこだと思うんだけど…」
「僕、見てきて良いかな?」
「ああ。馬車を待たせてるから呼んで来てくれっと助かるわ」
リエズの町に行った後の事を話し合うセティナとエンポリオ、パウラを置いて、リィンは部屋を出た。突き当たりにある木目の扉が薄く開いている。そこが確かチェムカの部屋だったはずだ。
チェムカを護ってくれ。
ラディスは最後にそう言った。
リィンはしっかりとその言葉を記憶していた。
「…チェムカ、いるの?」
薄く開いた扉を遠慮がちに押し開いて部屋をのぞいた。瞬間、時が止まった。
リィンの目に飛び込んできた光景は、心臓の動きを止めてしまう程に恐ろしいものだった。
チェムカの小さな背中が見えた。
白のブラウスに腰のしぼられた臙脂色のスカート。彼女の銀色の髪は今は三つ編みに編まれておらず、腰まで垂らされていた。チェムカの背はリィンとたいして変わらないはずなのに、リィンは彼女を見上げている。
チェムカはゆっくりと、先が輪になった縄に頭を通そうとしている…。
その縄は部屋の天井に渡されている柱から伸びていた。
彼女は、首を吊ろうとしている。
リィンの喉が息を吸い込み鋭く鳴った。
「チェムカッ!!」
叫んで走り込み、飛びつくようにしてチェムカの身体を両手で抱えた。そのまま二人はどうと部屋の床に転がる。
「チェムカ!?何でっ…どうして!!」
リィンは押し倒したチェムカの両腕を掴み、身体を起こした。手の中にある彼女の身体はぐにゃりとしていて力がない。チェムカはぼろぼろと泣いていた。眉が歪み瞳から涙が流れ、口元がわなないている。肩で息をしながら、チェムカは泣いていた。いつも愛嬌のある笑顔を作っていた顔は、これ以上にない程に辛い表情をしてリィンに向けられている。
「うう…ああ…。リ、リィン…ご、ごめんよお…ごめんっごめんよぉ…!
あ、あたすのせいで…先生が!ラディスせんせいがぁあ…」
リィンは頭から冷水を浴びせられたような衝撃に呼吸を忘れた。目を固く閉じて泣いているチェムカの腕を強く揺さぶる。
「違う!チェムカのせいじゃないっ」
「あたすのせいだもの…あたすがなんも、考えねえで、あんな事…!そのせいでロンバート先生だって大怪我したって!」
チェムカ…。
「何べんも何べんも、言ったんだあ…せんせいは関係ねえって…な、なのに…なのに、ちっとも聞いてくれなかった!!」
いつも明るいチェムカが泣いている。本当に辛そうな顔をして…。
「せ、せんせいになんかあったら…申し訳ねえ!!あたす…生きていかれねえっ!!うああぁ…」
小さな弟妹達の面倒を、嫌がらずに一生懸命に見ていたチェムカ。
父を亡くして、だけれども精いっぱい毎日を生きていた。母と力を合わせて、いつも元気に笑って…。
その彼女が自ら死を選ぼうとする程傷つき絶望して、声を上げて泣いている…。
どうして。
どうしてこんな事が許されるのだろうか。この世界は一体、誰の為にあるんだ。
「…いやだ…」
リィンが低く呟く。
「いやだいやだいやだっ!!」
チェムカの力の抜けた身体を思い切り抱き締めて、叫んだ。
「死んじゃいやだよっ!チェムカ!!」
「うう…う」
「チェムカ!」
泣かないで。
「僕が護るからっ…ぼくが、まもるから!」
リィンの頬に涙が伝う。
「お願いだっ!チェムカ…僕が護るから、戦うと言って…一緒に戦うと言って…。い、生きると…
生きると言って!!」
チェムカを固く抱き締めて、リィンは泣いた。
大好きな人が、また傷ついてしまった。
ああ…何故なんだろう。
僕はあの頃よりもずっと強くなったのに…。
剣も使えるようになったし、『力』を使うのだってうんと上手くなったのに…。
僕はまた…何も出来ずにいる。
まだ足りないんだ。
僕がもっと強ければ。僕にもっと力があれば…。
「お、お願いだ…生きると、いって…ぼく、ぼくが…まもる…もっと、強くなるからっ…」
両手からぽろぽろとすり抜けて、大事な人が消えてゆこうとする。
どうしたら良いの…。
どうしたら僕は、大事な人を護れるの…。
待って。いかないで。お願い。
もっと強くなるから。もっともっと頑張るから。だから…。
「リィ…ン…」
「ぼ、ぼくを置いていかないで…もういやだよ…いやだ、ああ…」
ああ、こんなに温かいのに。
「うう…チェムカが、死ぬんなら…ぼくも、死ぬ…う、うあああ…」
チェムカは薄く目を開き、震えているリィンの背に腕を回した。また新たな涙がこぼれる。
「リィン…ああ…ごめんな…リィン…」
泣きながら抱き合う二人を、力強い温もりが包んだ。セティナが二人を抱き締めて揺すりながら声を上げる。
「馬鹿っ!!こ、こんな馬鹿な事っ!ラディス先生がもっと苦しむだろうが!」
「かあさん…」
「大丈夫だっ!ぜぇーったい大丈夫だべ!何とかなる!!何とかなっから!な!」
泣いている二人の少女を固く抱き締めて、セティナも目に涙を浮かべていた。戸口にはパウラがへたり込んで口元に手を当てて涙を流している。
エンポリオはその光景を、拳を固く握り締めながら見つめていた。
◇◇◇◆
リエズに向かう馬車の中でリィンは子守唄を歌っていた。隣にはチェムカがいて、繋いでいる手から優しい温もりが伝わる。
「リィンの歌…初めて聞いただ。優しいな…すっごくうまい」
「…僕も歌姫になれるかな」
「ふふ…なれるなれる」
二人でくすりと笑う。向かいに座るセティナも目を閉じたまま笑顔になった。
「リィン…」
チェムカが小さな声で呼んだ。
「うん?」
「ありがとうな…」
繋がれた手にきゅっと力がこもる。
「あたす…もうあんな事しねえから。あたす、もう大丈夫だから。…先生を、ラディス先生を…」
「…うん。分かった」
リィンがチェムカの手を力強く握り返した。
「チェムカ。少し寝た方が良いよ」
「うん…もう一度歌ってくれるけ?」
「うん」
リィンはゆっくりと息を吸い込み、また歌い始めた。
「風の声をきいて 道しるべはこころの中に…」
チェムカがリィンに甘えるように頭を寄せて目を閉じる。規則的に揺れる馬車の振動が心地良く柔らかな夢へといざなう。
「…あおい海原 とうめいな風 とおいあの子へ このうたがきっと届くよう…」
きみへのあいを 抱いて静かに目をとじよう。
夜遅くチェムカと母のセティナはリエズの町に到着した。パウラも一緒に来るはずだったのだが、通いで働きに行っていた食堂に忘れ物をしてしまったと言い、一日遅れでリエズに向かう事になった。リィンは二人が無事に家族と再会したのを見届けてから、月明かりを頼りに馬を駆って帝都へと引き返した。
◇◇◆◆
「これはかなり危険な駆けだよ。だけど、これが一番有効だ。この作戦が成功すればルーベンを捕らえる事が出来るし、皇族のトワ妃だって追い詰める事が出来る」
金色のくせの強いふわふわとした髪が夕日を受けて輝く。ラディスが拘束されて二度目の日没。
エンポリオは人差し指を立てて皆の注目を集め、続けた。
「一度始めてしまったら引き返す事は出来ない。…良いね?」
居並ぶ全員が無言のままこっくりと頷く。
診療所の玄関口に佇む六人。ジェイクが隣に立つパウラに視線を向けて口を開いた。
「パウラさん、本当に良いのですね?」
痩せて尖った顎に暗い色の髪を一つに結わえたパウラが、緊張の面持ちで頷く。
「私にやらせてください。だってこの役は私にしか出来ませんわ。その為に私はここに残ったのです」
「パウラさん…」
クレイが僅かに眉根を寄せてパウラを見つめると、彼女は少し笑って言った。
「そんな顔なさらないで。失礼なようですが…これは別にあの先生の為にするのではないのです。チェムカちゃんやレッジ君、セティナさん達家族の為にするのです。あんなに優しくて明るい家族、他に知りませんわ。あんなに心根の優しい人達が傷ついて涙を流すなんて…私は少しでもあの方達に恩返しがしたいのです。きっとうまくやってみせます」
「エンポリオ殿、あの男の方は…」
ソアの言葉にエンポリオは片目をつぶってみせた。
「ばっちりさ。ああいう性根の人間の方が、懐柔しやすい。説き伏せてお金を積めばイチコロだ」
「リィン、君も大丈夫かい?」
ジェイクがリィンに優しいまなざしを向けて聞いた。リィンはジェイクを見上げて、はい、と答え、パウラに顔を向ける。
「パウラさん。僕が必ずあなたを護ります」
パウラは目を細めて薄く微笑んだ。
「お願いします」
この日の朝、ロンバートの家を襲撃した犯人グループの残党が、北地区を支配する帝王シーカーによって捕らえられたという一報が入った。更に彼らはルーベン司教と親密な関係である事も自白しているという。一体どんな手を使って真実を自白させたかは分からないが、今現在彼らは帝国軍ではなくシーカーの手で拘束されている。帝国軍に渡してしまうと口を封じられる可能性があるからだ。しかし、これでも証拠としてはまだ甘い。この証言だけではルーベン司教もトワ妃も追い詰める事は出来ない。
それから丸一日かけて策を練り、話し合いを重ねて何度も確認の手順を踏んで、準備をした。大丈夫だ、きっと成功する。させてみせる。
ぴりりとした緊張感の中、皆が一言も声を発さずに深呼吸をする。目を閉じてジェイクが静かに言った。
「証明しよう。庶民である私達にも、絶望的な窮地を覆せる事が出来ると。知恵と勇気を持って、折れぬ心を見せつけよう」
それこそが、ラディスが僕に教えてくれた事。
諦めない。…絶対に。