086:共存する光と闇2
その後、皆で昼食をとっていた時にジェイクがやって来て、チェムカの釈放を知らせてくれた。
知り合いの軍人から詳細を聞くと、拘束されている実行犯達はラディスが出頭した後で供述を一変させたのだという。
全てはあのラディスという男に脅迫されてやった事で、自分達にはロンバートを襲う理由はない、今までに言った証言も全てでたらめだと言うのだ。そしてチェムカという少女も家族を人質に取られて脅されているせいで真実が言えないのだと、あの男が捕まって本当に良かった、あの男こそが事件を画策した真犯人なのだ、どうかきちんと取り調べをして欲しい、とまで語ったという。
驚くべき事に帝国軍保安部隊はこの矛盾だらけであやしげな供述を信じ、実行犯達には減刑を、チェムカは被害者として立場を変えて釈放に至った。
要は事件の顛末や詳細など最初からあってないようなもので、ラディスを罪人に仕立て捕らえさえすれば、後は用済みでどうでも良いという事なのだ。いかにも皇族達が考えそうな、ずさんな策略である。
チェムカは自宅でリエズの町へゆく準備をしているという。それを聞いてリィンが会いに行くというので、エンポリオもついてゆく事にした。
◇◇◇◆
町の中央広場には十名前後の人々が集っていた。服装からして集まっている者達が富裕層であるのが分かる。エンポリオは遠くからそれに気付き、嫌な予感がしてリィンの小さな手を取った。
「こっちの道を行こう」
踵を返し迂回の道を歩き出した時、背後から大きな怒号が上がった。
「背徳者には極刑を!!」
「邪心の者に正義の制裁を下せ!!」
手の中にあるリィンの指先が強張る。ここを一時でも早く立ち去ろうと、エンポリオは早足になった。
「今こそ傲慢なる悪魔、ラディス・ハイゼルに死を!!」
どくん、と心臓が鳴った。額にじわりと汗をかいてリィンを見下ろす。
「…リィン」
「エンポリオ、僕は大丈夫だ」
リィンはエンポリオを見上げていた。うっすらと笑って、続ける。
「顔が真っ青だよ。僕よりあんたの方が参ってる」
「リィン…」
「おお、これはこれは。イリアス族を解放に導いた偉大なる英雄殿ではないですか。それに隣にいるのは貴族のエンポリオ殿…」
その声に振り返り、エンポリオは最悪の気分になる。そこにいたのはルーベン司教とその側近だった。薄い頭髪を油で撫でつけて、一点の汚れもない白の法衣に高価な≪清廉なる織布≫を首から下げ、聖職者然とした背の低い壮年が両手を広げて近づいてくる。
「今回はラディス先生があのような事になってしまって、本当に残念だ」
エンポリオがリィンをかばうように前に立ち、右手を差し出して来たルーベン司教と素早く握手を交わす。
「どちらへ行かれるのです?」
「…この先に用事がありましてね。ルーベン司教、あなたは?」
「私は広場で集会を行っている信者達を諌めに向かう途中です。困ったものです…。人は愚かな故に過ちを犯す時があります。それを赦す寛容さもリリーネ・シルラ様は教えてくださっている。彼らは罪人を赦す慈愛の心を学ばねばなりません。憎しみでは何も生まれない」
司教は大きなため息をつき、ぺらぺらと喋り続ける。
「まさかラディス先生があのような事件を起こすとは、私も本当に驚きました。彼とは様々な事で意見を交わしてきました。とても聡明な青年でしたが、少しばかり道徳心に欠ける部分があった。私はその事をもっと注意してやるべきでした。彼がこんな事件を起こす前に、私がもっと正しい道へと導いてやる事が出来ていれば…」
この狸め…。エンポリオは笑顔を浮かべて心の中で毒づいた。
「今は厳かに彼が自らの犯した罪を認めて、罰を受け入れてくれる事を願っています」
「…では僕らは失礼します」
「はい。ああ…イリアス族の英雄殿と是非とも握手をしたいのですが、よろしいですかな」
ルーベン司教が微笑みながらリィンに向かって右手を差し出す。エンポリオが口を開こうとしたが、リィンがするりと前に立って司教と握手を交わした。
「あなたも早く立ち直ってくれるよう祈っております。彼に騙されていた人々を救うのが私の使命とも思っていますから…」
「…ルーベン様」
リィンは真っ直ぐに相手を見つめている。司教はますます目を細めて笑顔を作った。
「あなたは本当に、ラディスがあの事件の犯人だと思っているのですか?」
「ええ…嘆かわしい事です」
司教は俯き加減で首をふり、心底辛そうな表情で言った。
「だとしたら、どうしてラディスがロンバート先生を襲うよう仕向けたと思うのですか?」
「さあ…そこまでは。私のような神に仕える人間には到底想像もつきません」
「あなたは嘘をついてる」
リィンは冷静な口調で続けた。
「あなたの言葉はまるで氷のようです。僕の心には響かない。その瞳も、その笑顔も作りものです。大勢の人々を騙せたとしても、本物にはかなわない。あなたの本質は、あまりにも現実とかけ離れている」
「なっ…!何と無礼な!司教様に向かってそのような口をっ!!」
リィンの言葉に、ルーベン司教の隣にいる側近が声を荒げた。司教はやんわりとそれを片手で制して、微笑を浮かべて呟く。
「可哀そうに…。あなたにもリリーネ・シルラ様の祝福が訪れる事を願います」
去ってゆく二人を無言で見送るリィンの小さな頭を、エンポリオはじっと見つめていた。
「ねえリィン…」
振り返ってこちらを見上げるリィン。その細い両腕を掴んで、顔を近づける。
「今、無理矢理にでもラディスを助け出す事も出来るんだよ?君の『力』を使って牢を破ってさ、それで国王様やアルスレイン元帥が戻って来るまで、どこかに身を隠しておけば良いんだ」
ねえ君、分かってる?その強さはとても脆い…。少しでも風が吹けば、君は倒れてしまうよ。そんな君を見るのは耐えられない。
しかしリィンはゆるゆると首を横に振った。
「そんなの駄目だよ。意味がない。向こうはラディスを殺したくって、そればかりに夢中で隙だらけだ。今が向こうを叩くチャンスなんだって、僕にも分かってる」
「だけど…」
「僕は信じてる」
エンポリオは眉根を寄せてリィンをぎゅうと抱き締めた。折れてしまいそうな程、細い身体。柔らかな栗色の髪から僅かに残るミントハーブの香り。その髪に口付けて呟く。
「ああリィン…。ラディスは本当にひどい奴だ。どうして君にこんな思いをさせるんだろう。分かっていたのに、君を自由にさせずに捕まえてしまった…ひどすぎるよ…。僕なら愛する人をこんな目に遭わせる事なんて出来ない。こんな事ならばいっそ、気持ちを伝えずにいた方が良かったんだ…」
「…エンポリオ。あんたって優しいね」
腕の中でリィンは笑った。
「でもそれは違うんだ」
見下ろすと、すぐ近くにリィンの整った顔があった。意思のある赤茶の瞳。綺麗だ、と思う。
「辛い事があったら、何もなかった方が良かったと思うなんて間違ってる。僕は後悔してない。この先に何があったって、絶対後悔しない」
ああリィン…。君ってば、何て綺麗なんだ。…素敵だ。
「リィン…キスしても良い?」
リィンの頬がぷっとふくれた。
「…何で。いやだよ」
「はあ。残念」




