083:別離
既に時刻は深夜を回った。灯の落ちた診療所は水を打ったような静寂に包まれている。
レッジから話を聞いた後、すぐに行動を起こした。
チェムカの家族はジェイクの知り合いがいるリエズの町へ一時避難する事が決まり、既にレッジと小さな弟妹達はベイルナグルの帝都を離れた。母のセティナとパウラはチェムカが戻るまで帝都に残り、その後チェムカを連れてリエズに行く事で話がまとまった。
リィンは寝室のベッドの中で闇に溶ける天井をじっと見つめていた。
ラディスやクレイに休めと言われて風呂に入らされ寝室に無理矢理押し込まれた。今朝の出来事がずいぶん昔の事のように感じられる。
目を閉じると、レッジの泣き顔が浮かぶ。そしてチェムカの笑顔…。
銀色の髪を三つ編みにして右肩にたらし、にっこりと笑う彼女。そばかすの散った頬と低い鼻。愛嬌のあるチェムカの表情は、皆を安心させて和ませるような不思議な力がある。
その顔を大人にしたような母のセティナは、しかしずっと沈痛の面持ちでいた。きっと胸が張り裂けそうな程、娘の身を案じているに違いない。
なのに彼女は一度も、娘を助けてくれとは言わなかったのだ。
「先生には主人が亡くなる前から、今までもずっと、本当に良くしてもらっただ…。こんな事になっちまって申し訳ねえ。先生、何べん謝っても謝りきれねえ。本当に、申し訳ねえ…」
レッジは以前から町の不良グループ達の仲間に入り、やんちゃな遊びを繰り返していた。しかしそれは凶悪な犯罪の類いではなく、思春期の少年達が大人につっかかるような、その程度のものでしかなかった。母やチェムカが諌めるのも聞かず、毎日集まっては悪戯をして喜んでいた。それがつい最近、別の不良グループと交流するようになり不穏なものに変わっていったという。
商店街にある店の窓ガラスを割ったり、道行く人の荷物を奪って強盗をしろと脅された事もあった。レッジと他数名の少年達は恐ろしくなりグループから抜ける事をリーダー格の少年に申し出た。すると背後から大人が姿を現したのだ。一見して素性の良くない人物であるのが分かった。顔が腫れるまで殴られた後、その人物が凄みを利かせ言ったのだという。
今更簡単に抜けられると思うな。世間知らずのガキ共め。お前達を行方不明にしてやる事なんか容易い。どうしても抜けたいと言うのなら、それなりの代価を払ってもらおう。
三日後、指定した場所に豚を一匹持ってこい。ちゃんと絞めてから持ってこいよ。そうだな、おい、お前。代表してお前がやれ。良いな?そうすれば抜ける事を許してやる。誰かに言ってみろ、お前の仲間が死ぬぞ。
レッジは姉のチェムカに相談した。少年の心では抱えきれない程の恐ろしい問題だったが、親には心配をかけたくない、という思いから母のセティナにはどうしても言えなかった。それに誰かに知らせた事が分かれば、友達が殺されてしまう…。
何故豚の死骸なのか皆目見当もつかなかったが、それさえ渡せば許してもらえる。
卑怯で卑屈で、最低の手口だ。
レッジを脅した人物は、きっとルーベン司教と皇族トワ妃の手先だ。今頃チェムカが真実を訴えているだろうが、果たしてそれで容疑が晴れるとは思えなかった。何故なら相手の本当の狙いはレッジでもチェムカでもなく、ラディスなのだ。ロンバート邸襲撃事件の黒幕をラディスに仕立て上げるつもりだ。だからこそこの診療所で働く姉がいる、レッジが狙われたのだ…。
ラディスを捕らえるまで、チェムカは解放されないだろう。
彼はチェムカを助ける手はいくらでもあると言った。
それは、嘘だ。
…そうなんだろ?
深い闇が明けようとしている。窓の外が白み始めた頃、音もなく寝室の扉が開いた。
リィンは仰向けで目をつぶっていた。誰かが近づいてくる気配がしてベッドがぎしりと音を立てた。髪を優しく撫でられる。
ミントハーブの香り。
リィンは瞳を開けて相手に言葉をぶつけた。
「…行くな」
ラディスがベッドの脇に腰をかけており、リィンを見下ろして少しだけ目を丸くした。
「起きてたのか」
右腕のブラウスは二の腕まで捲られ包帯が巻かれている。たった数時間前だ。まだその傷口だって、ふさがっていない。
リィンは素早く起き上がり、彼の胸倉を掴んでベッドへ押し倒した。その上に馬乗りになって青い瞳を睨みつける。リィンはブラウスだけを羽織り、下は下着だけしか身につけていなかったが、身なりを気にしている場合ではなかった。必死だった。
「行かせない」
ラディスはうっすらと笑った。
「僕が行って、チェムカを助ける。僕の『力』があれば、それが出来る」
「牢破りか?それは犯罪だぞ」
「逃げれば良い。そうだ、ラディス、逃げよう」
「くく…。お前は時々突拍子もない事を言う。それじゃあ何の解決にもならんだろう」
リィンの両手に力がこもり、瞳がゆらゆらと深紅にゆらぐ。
「…『力』で俺をここに、はりつけにするか?長くはもたんぞ」
「行かせない!」
ラディスにぶつかってゆくように、リィンは彼の薄い唇に自分のそれを重ねた。華奢な身体を押しつけて強引に口付ける。震えながら舌をからめ、深く、口付けてゆく。ラディスが左手でリィンの細い腰を抱いて、拙いキスに応えた。呼吸が思うように出来ず苦しくなる。リィンは顔を僅かに離して、吐息混じりに言葉を吐き出した。
「…っラ、ラディス…行っちゃ、だめだ…」
「色仕掛けとは考えたな。お前にこんなに情熱的に迫られるなんて夢のようだ」
もう一度、唇を重ねる。リィンは全身でラディスにぶつかる。彼をここに引き止める為に。
行ったらだめだ。相手の思うつぼじゃないか。捕まったら…
ラディスはどうなるか分からない。
彼の指がリィンの太腿を撫でた。びくりと身体が震え、すかさずラディスは態勢を逆転させた。唇が離れ二人の荒い息がからまる。
「リィン…やめよう。俺はお前を抱く時は、幸せな気持ちで抱きたいんだ」
リィンを見つめる彼の瞳は、静かな海のような静寂さをたたえていた。薄茶色の髪がかかる美しい顔。綺麗な鼻筋、微笑む口元。覚悟を決めた人間の顔。何て凛々しい…。
「ああ…ラディスッ…い、いやだ…行くなっ!」
リィンの紅い瞳から、涙がこぼれ落ちる。
「行かないでっ…いかないでよ!!」
ラディスの首にしがみついて手放しで泣き出した。
「リィン」
ラディスは身体を起こして、痛む右腕に構わずに両腕でしっかりとリィンを抱き締める。
「そんなに泣くな。…お前に泣かれると、さすがに辛いぞ」
「いやだっ…な、泣く…うぅ」
泣きながら、リィンは彼を抱き締める腕に力をこめた。ぎゅうと二人の身体が重なる。
「リィン、大丈夫だ。お前を残して死んだりしない。俺を信じろ」
「いかないで…お願いだっ…ラディス、いかないで…」
怖い。怖い…。
ラディスが自分の手の届かないところへ行ってしまう。
『力』を使っても救い出せないようなところへ行ってしまう。
リィンは死の恐怖に怯えていた。また大事な人がいなくなってしまうかも知れない恐怖に、抗う術のない現状に、ただ恐ろしくて震えていた。また失ってしまう…。
シルヴィやゼストのように、ラディスまでいなくなってしまったら…
ぞっとして考える事も出来ない。苦しくて辛くて、呼吸が思うように出来ない。
他に何も望まないのに、唯一である彼がもしいなくなってしまったら、もう生きていけない。
もう失うのは、嫌だ。
耐えられない。
「…リィン。俺の周りには人が良すぎる奴が多いと思わないか」
ラディスが、泣きじゃくるリィンの背中をさすり静かに語り出した。
「皆、俺のする事に巻き込まれてひどい目に遭っているくせに、俺に礼を言おうとする。…俺は時々何と言ったら良いか分からない時がある」
リィンは震えながら彼の顔を見つめた。ラディスはリィンの栗色の髪を梳いて、微笑んでいる。しかしその瞳は真剣だった。
「護りたいんだ、リィン。俺はそんな健気な奴らを、護りたいんだよ」
「う…」
痛い。胸が苦しい…。
「じゃ、じゃあ僕も、行くっ…僕も一緒に行くっ!」
ゆるりとラディスが首を振った。
「向こうを喜ばせてどうする。お前はここに残って、皆の支えになってくれ。その目でしっかりと、全てを見ていて欲しい。真っ直ぐに目をそらさずに…」
「そ、そんなの…!」
「お前は強い。お前なら出来る」
リィンの顔が苦痛に歪んだ。
「僕は強くなんかないっ!あ、あんたがいなきゃ…強く、なれないよ…」
口が震えてうまく言葉が出てこない。リィンの頬に涙が止めどなく流れてゆく。ラディスが指先でリィンの涙を優しく拭った。
「俺は死なない。決して諦めるな。クレイや皆を、俺を信じろ。良いな?」
「ラディス…い…やだ…」
「リィン。チェムカを護ってくれ、頼む…」
ラディスが瞳を閉じてリィンに口付けた。切ない程に、優しい口付け。
涙の味がする。
彼はそのままリィンをベッドに沈めて、頬や瞼にも口付けを落とした。リィンは悲しくて悲しくて、目を開ける事が出来ない。
止められない。行ってしまう。自分は何も出来ない。また、何も出来ない。
「リィン」
ラディスが低く澄んだ声で、告げた。
「愛してる」
遠ざかってゆく。寝室の扉がぱたん、と閉じられた。
「う…」
ラディス。
「……も」
ぼくも、愛してる。