082:忍び寄る憎悪
「ロンバートの家にイグルを誘い入れた犯人は既に捕まっているそうだ」
フェーマスが思案顔で口髭に指を当てたまま口火を切った。
病院内の応接室にはリィン、クレイにソア、そしてエンポリオがいる。ここで休息をとっている時に、ルキリア貴族でロンバートの友人であるフェーマス・モルスディックが事件の事後を報せにやって来たのだった。ベルシェは横になりたいと言ってロンバートが寝かされている個室へと帰っていった。
外は藍色の闇が降りて、一番星が輝き始めている。
「町の住人達に複数目撃されていたらしいですね。そりゃそうだ。白昼堂々、家畜の死骸を掲げてわんさかイグルを連れて、馬で往来を突っ切っていったそうですから」
ティーカップを傾けてエンポリオが言った。
しかも丁寧な事に、ロンバート邸の庭にも直前にイグルの好む腐った肉片をばらまいていたのだという。犯人は家畜の死骸でイグルをおびき寄せ、ロンバート邸にその死骸を放り投げて走り去った。
「…実行犯はどこにでもいるごろつきらしい。何でもロンバートの病院で仲間が治療を受けたが、満足のいくものではなかったという、逆恨みの理由だ。仲間も合わせて三人が連行されたそうだ。…これは一体どういう事だと思うかね?」
「まあこれだけじゃ済まないでしょうね。そんな理由は後付けにすぎません。そのごろつき達は確実に金を掴まされてます。裏で手引きしているのは、ルーベン司教だ」
「しかし賢い作戦とは言えないな。何故直接ラディス君の診療所を狙わなかった?ロンバートは貴族ではないが、国指定の大病院の院長だ。その功績を讃えて国から≪男爵≫の称号も受けているのだぞ。そんな人物を襲ってどうする。襲った方もただでは済まんぞ。それに同志が襲われたとしても、ラディス君の意思がそれぐらいの事で揺らぐとも思わん。その上奇襲にも失敗して、ロンバートは助かっている。…直接ラディス君の命を狙った方が良かったのではないか?」
フェーマスの意見にエンポリオが視線を宙に浮かせ呟く。
「まだ何かあるんですよ、きっと」
そこまで黙って話を聞いていたクレイが慎重に口を開いた。
「今回の事は、ルキリア皇族も加担しているはずです」
「…それって、トワ妃の事?」
「ええ。ロンバート先生の家が襲われていた時、帝国軍の対応が極端に後手に回っていたと聞きました。上官の到着が遅れていたからだそうで…。そしてその上官があのペイン副指令です。何か言い含められているに違いありません。連行された実行犯達にもおそらく重い懲罰が課せられる事はないはずです。だからこそ、彼らは大人しく捕まったのでしょう」
難しい顔をしたソアが後を続ける。
「向こうはゲムの村の視察の件でも失敗したからな…相当に焦っているはずだ。もうなりふり構っていられないのではないだろうか。少し強引で悪質な手を使ってでも、ラディス殿を仕留めたいのだ」
何よりイリアス族に対して発令されていた警戒令が取り下げられるという、歴史的にも大きな決定があった事が、一部の皇族達を焦らせている第一の要因だ。ルキリア族以外の種族を認めようとしない、選民意識に頭からどっぷりと浸かって生きる皇族達。その地位と立場が揺らぐ事を何よりも恐れている。その全ての原因を作ったラディスが憎くて仕方ないに違いない。
エンポリオがテーブルに頬杖をつき、大きく息を吐き出した。
「なるほどねえ…。でもそれじゃあますますおっかない。それってルーベン司教とトワ妃が結託したって事だろう?その上ラディスはまだ右腕一本やられただけだ」
「嫌な言い方をする奴だ」
その声に全員が部屋の扉に顔を向ける。ラディスがしっかりとした足取りで部屋に入ってきた。
「ラディスっ」
「ラディス様…」
右腕には真新しい包帯が巻かれ、首から布を下げて固定をしている状態だが、弱々しい雰囲気はまるでなかった。ラディスは微笑さえ浮かべており、長身の身体から活力が漲っているのが分かる。
「ラディス。君って不死身なわけ?」
エンポリオが紺色の瞳を丸くして、傍らに立つラディスを見上げている。彼はにやりと笑った。
「最近俺自身も、そうかも知れんと思い始めているところだ」
彼の軽口に皆の緊張が解かれ、場の空気が和らいだものに変わった。リィンはほうと息を吐き出し、椅子の背もたれに深く身を沈める。彼の普段と変わらない飄々とした姿を見た途端、安心してしまった。すると今度は何だかやきもきしてくる。
ラディスの奴、人の気も知らないで…。
「ラディス君」
フェーマスが席を立ちラディスの前に歩み出た。黒に近い青の瞳が少しだけ細められ、うっすらと微笑が作られる。
「ロンバートの命を救ってもらい、礼を言う。君はどうやら本物だったようだ」
差し出された左手。
ラディスは美しい笑顔でそれに答え、二人は固い握手を交わした。
リィンはその時、ラディスの僅かな表情の変化に気付いた。フェーマスの言葉を聞いてラディスの表情に一瞬だけ翳りがよぎったのだ。しかしそれは本当に刹那の事で、もしかしたら見間違いかもしれないと思う程の些細なものだった。きっとリィン以外誰も気付きもしなかっただろう。
束の間、穏やかな時が流れる。しかしその和らいだ空気も長くは続かなかった。次にやって来た人物の言葉によって、地獄の底に叩き落とされる事になる。
廊下が何やら騒がしい。その物音に気がついてラディスの表情が厳しくなり、皆の表情も固いものに変わる。慌ただしく部屋の扉を開けて、ラディスの養父であるジェイク・ハイゼルが姿を現した。セットされた髪型が僅かに乱れ、ブラウンの瞳は切迫した光を帯びている。
「ラディス、大変な事になった…」
ジェイクがラディスに詰め寄るように近づいてゆく。
「たった今、チェムカが帝国軍の保安部隊に連行されていった」
部屋の空気が凍りついた。
「チェムカが、ロンバート邸の襲撃事件の実行犯の一人として捕まってしまった」
リィンの小さな身体に衝撃が走った。後頭部を思い切り殴りつけられたような、嘔吐感を伴う衝撃。
「…ど…どうして…」
何故?なんで?
何かの間違いだ…。チェムカがどうしてそんな事するんだ。
…罠だ。
完全に思考が停止する。
「既に軍本部に拘束されていて面会も出来なかった。目撃証言があったそうだ。今日の朝早くに、犯人達にチェムカが何かを手渡す場面を町の者が見ていたんだ…。
それは…家畜の死骸だったそうだ」
◇◇◇◆
「先生!俺のせいなんですっ!俺のせいで…こ、こんな大変な事にっ…姉ちゃんがっ!!」
チェムカのすぐ下の弟、レッジが泣きじゃくり、必死に声を張り上げた。その隣に座っているチェムカの母が、彼の銀髪の頭を片手でぐっと抑えつける。
「こんな取り返しのつかねえ事!どうしてさっさと相談しなかったんだべっ!」
母の顔はこれ以上ない程に蒼白で、目は充血して真っ赤だった。
「うっ…ごめんなさいっ…ごめんなさい!!」
「セティナ」
向かいの席に座るラディスが穏やかな声でチェムカの母の名を呼んだ。
それからすぐにフェーマスとジェイク、エンポリオは情報を収集しに病院を後にした。リィン達も慌ただしく診療所へと戻り、そこでこの二人がラディスの帰りを震えながら待っていたのを知ったのだ。レッジはしゃくりあげて泣き続け、セティナは泣きこそしないものの、その表情は焦燥と不安の入り混じった悲痛なものだった。診療所の居室へと場を移し、とにかく話を聞こうと席についた。
「ここに来るまでにも勇気がいったろう。…まずはその事に礼を言いたい」
ラディスは二人を安心させるように微笑んで、ありがとう、と頭を下げた。セティナが俯いて涙を拭う。
「レッジ。教えてくれるか?ゆっくりで良い。覚えている事を全て話してくれ」
少年は口元を震わせ、ラディスを見つめた。ラディスは視線をそらさずに柔らかな声で続ける。
「チェムカは必ず助ける。大丈夫だ。手はいくらでもある。その中で最善の手を打ちたいんだ。協力してくれるか?」
レッジの瞳からまた涙がこぼれる。
「は、い…」
そして少年は時折涙で声を詰まらせつつ、一生懸命に語りはじめた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
途中ですが少しばかり。
今後もシリアスの上に可哀そうな感じで物語は進んでゆきます。
読んでくださってる方々に申し訳なくなるくらい、話は小難しくなる一方です。。。
今なら間に合います、引き返してください(笑)
晴れやかなる大団円を目指して頑張ります。
目指すはらぶらぶ、これなんです!!