081:発端(レニツィ病院)
保安部隊の軍人達がロンバート邸に突入した。先頭には帝国軍のペイン副指令。でっぷりと太った腹を揺らし、興奮に頬を上気させてがなり声を上げた。
「二手に分かれて生存者を救助しろっ!」
軍人達に混ざってフェーマスも二階へ続く階段を駆け上がる。ペイン副指令が慌ててそれに続いた。
「フェーマス殿!危険ですぞ!」
その時、廊下の一番奥にある扉が開いて夫人が姿を現した。
「こちらです!早く来てっ」
部屋のベッドにロンバートが寝かされており、脇に娘のベルシェが佇んでいた。窓の傍にある長椅子には研修医と思われる青年。頭から血を流している。イリアス族の少年がぐったりと椅子に腰をかけて俯いており、横にいたラディスがフェーマスを見つけて立ち上がった。フェーマスは彼に歩み寄る。
「ラディス君、ロンバートは…」
「命に別状はない。すぐに病院へ搬送してくれ」
「ラディス君、これは一体どういう事だっ」
部屋の内部にたくさんの人間が押し寄せ、騒然となる中でペイン副指令が長身のラディスに詰め寄っていった。フェーマスが軍人達に指示を出しロンバートが担架に乗せられて部屋を出てゆく。それと入れ違いに、ものすごい勢いで誰かが駆け込んできた。フェーマスは視界の隅に、閃く鋭利な光を見て咄嗟に声を上げた。
「危ない!」
突如飛び込んできたその人物には、たった一人しか見えていないようだった。放たれた矢の如く的に向かって一直線に走ってゆく。一瞬の事で、その場にいた誰もが反応出来なかった。全ての時が静止してしまったかのような不吉な静寂を切り裂き、ベルシェの悲鳴が上がった。
「いやあぁー!先生っ!!」
ラディスが眉間にしわを寄せ、長身を折り曲げて右腕を抑え込んだ。咄嗟に身体をよじった彼の右腕、肘の下辺りに、深々と根元まで短剣が突き刺さっている。ラディスの目の前にいたペイン副指令がよろよろと数歩後ずさった。
「ラディスッ」
イリアス族の少年が駆け寄り、彼の腕を見て身体を強張らせる。既に軍人達によって取り押さえられている犯人は中年の男で、腕を振り回して暴れ、目も異様に血走っていた。
「天誅だ!これは神の怒りの鉄鎚だっ!!」
「何て事だ…」
フェーマスが呆然としたままラディスに近づこうとした時、ぐわん、と部屋全体がたわんだように揺れた。全員が一斉によろける。
「な…なんで…」
少年が低く呟いた。地鳴りのような恐ろしい音が鳴り響き、完全に部屋の内部は混乱の只中にあった。
「な、なんだこれは…。どうなってる!?」
「早く怪我人を運べ!」
「避難しろ!家が崩れるぞっ」
「リィン!やめろ!」
「許さないっ!!」
「聞け!」
ラディスが左腕で少年の胸倉を掴み上げ、小柄な身体ががくんと揺れた。喉元を締め上げられる格好になり、少年は息苦しさに顔を歪めてラディスの腕を両手で掴んだ。彼は少年にぐっと顔を近づける。
「リィン、落ち着け。俺は大丈夫だ。クレイとソアをロンバートの病院に連れて来い。…良いな?」
少年は震えながら僅かに頷いた。解放された途端、まろびながら外へ駈け出して行く。
「ラディス君!大丈夫なのか!?」
フェーマスは近づいてラディスの肩を掴んだ。彼の右腕に突き刺さった短剣の柄。どういうわけかその傷口からは血があまり流れていない。それが返って不気味に思える。
「この場を頼む」
彼の青い瞳は驚く程に冷静だった。フェーマスは自分が震えている事に、その時初めて気がついた。
◇◇◇◆
「こ、これは…ひどい」
緊張で喉が張り付き、掠れた声でクレイが呟いた。病院の処置室で、ラディスの右腕の状態を確認して愕然とした。隣にいるソアも絶句している。
「幸い神経はやられていないようだ」
ラディスが肩で荒い息をしつつ冷静な声で告げた。彼の右腕にはまだ短剣が深々と突き刺さったままである。不用意にその剣を抜こうものなら、大量の血が噴き出し、あっという間に死に至るだろう。
一目で分かる。これは処置の難しい手術になるだろう。しかし躊躇している暇もない。肉が締まっていってしまうからだ。手早く、一分の狂いもなく正確に処置を施さなくては…。しかしそのような難度の高い手術が、誰に出来るというのだろうか。クレイの額に汗が滲む。
成功させる可能性のある医師はただ一人、ここにいるラディス様だけだというのに…。
「クレイ、お前に頼みたい」
「そ、そんな…。出来ませんっ。私には無理です…」
クレイが縋るような表情でラディスに訴えた。
「大丈夫だ。お前なら出来る」
ラディスはクレイの深緑の瞳を真っ直ぐに見つめている。
「ラディス様!」
「本来であればお前はとっくに独立してる。一人前の医師としてやっていける腕があるんだ」
「ラディス様、お願いです!わ、私には…」
クレイは首を振り、苦痛に眉根を寄せながら叫んだ。
私には、出来ない。成功する自信もない手術など…。ましてやラディス様の命を危ぶませる事など。
「すぐに準備をする」
そう告げて、ソアが動き出した。
「ソア!?」
クレイが振り返ってソアを見つめる。彼女は恐ろしい程真剣な表情で手元に視線を向けたまま、低く呟いた。
「クレイ、あなたも覚悟を決めるのだ。…あなたはラディス殿を助けたくはないのか」
「し、しかし…」
「クレイ」
落ち着いた声音でラディスが名を呼んだ。クレイはゆるゆるとラディスを見やる。
「俺はお前に頼みたい。この俺が命を預けるとしたら、お前以外に誰がいるというんだ?」
肩で浅く呼吸をしながら額に大粒の汗を浮かべて、彼はおおらかに笑っていた。心臓を鷲掴みにされたような衝撃が、クレイの全身を駆け抜ける。
何という美しい表情だろうか…。誰かを思いやり、全てを包み込むような笑顔だ。想像を絶する激痛を伴いながらも、この主はここまで人に添おうするのか…。
この臆病な私を奮い立たせる為に。
「ラディス様…」
「私も手伝うわ」
ベルシェが腕を捲りながらこちらへ歩いてくる。その表情は凛々しく、頼もしい。
「助かる」
ソアが短く告げ、二人は視線を合わせ頷いた。クレイは彼女達をじっと見つめ、それからゆっくりとラディスに向き直った。
「ラディス様…。私を信じていただけますか」
彼は瞳を閉じてベッドに身体を沈め、ふん、と笑った。
「今更だ」
その言葉を聞いて、クレイの両肩から力が抜ける。くしゃりと笑った。
「はい…」
ラディス様。やはり私の主はあなただけです。
あなたと出会った十三の時から、私は心に決めたのです。あなたと共に生きると。
あなたの意思を、自らの意思として。
どんな事があろうとも私はきっと乗り越えてゆきます。
僅かでもあなたの助けになれる自分になる為に…。
◇◇◆◆
日は朱に染まり、東の空に幼い闇が生まれる。リィンは窓越しにその空を睨みつけるように見つめていた。身体の芯がだるい。日頃『力』を発動させた後にはないような疲労感が、全身に薄い膜を作っているかのようだ。命を削る、という行為がどういったものかは分からないが、この疲れは独特のものだった。
あの後ラディスはリィンが何も言わずともすぐに事情を察して、シャウナの奴は油断ならん、と首を振った。リィンが『命の力』を使った事はあの場にいた者達の胸の内にしまわれた。ベルシェがしっかりとリィンを抱き締めて、ありがとうと言ってくれた。彼女は泣いていた。涙を流して、あなたってやっぱりどうかしてるわ、と怒った声で言ったので、リィンはほっと安堵したのだった。
椅子に腰をかけるでもなくこの数時間ずっと、リィンは窓際に立ったままだった。身体は疲れ切っているのだが、神経が高ぶってぎしぎしと心を締めつけるのだ。この感覚は以前にも味わった事がある。
ラディスの診療所に辿りついて、ゼストが手当を受けていた時だ。
ぞわりと悪寒が走る。リィンは唇を噛み締めた。
大丈夫だ、ラディスは腕を怪我しただけだったんだから…。大丈夫だと言ってたじゃないか。
それにもう、混乱してはいけない。あの時、ラディスが刺された時、完全に気が動転してしまったのだ。男が持つ短剣の閃光。ラディスに向かって突進してゆく光景を見て、心臓が止まってしまうかと思った。ラディスの腕を見て心が凍りつき、我を忘れた。あの家を丸ごと破壊出来る程の『力』を、暴走させてしまうところだった。ラディスに止められなければそうしていた。もっと冷静でいなければならない。
イリアス族の『力』は…僕の『力』は、一歩間違えれば恐ろしい凶器なのだから…。
処置室の扉が開いて、クレイが姿を現した。リィンは息を止めてじっと彼を見つめる。
「…何とか成功しました。ラディス様は無事ですよ」
言い終えぬうちにふらりと傾いたクレイの身体を抱きとめて、そのままぎゅっと力を込めた。
「クレイ…ありがとう…」
クレイはすみません、と呟いて身体を起こしながら続けた。
「ですが、傷はかなり深く腕を貫通していました。神経を痛めていなかったのは奇跡ですが…。ラディス様の利き腕は左ですので、傷が癒えた後は日常生活や簡単な手術の執刀なら問題はありません。しかし剣は右腕で習得されているのです。…もう以前のようには剣は振るえないでしょう」
彼の深緑の瞳は真っ直ぐにリィンに向けられている。その瞳には、今までにはなかったような力強い意思が宿っていた。リィンは口元を横に引いて、笑顔を作って答えた。
「良いんだ。ラディスの剣は、僕だから」
「リィン…。ありがとうございます」
ソアとベルシェも部屋から出て来た。皆ひどく憔悴していたが、その表情は晴れやかだった。
「リィン、ラディス殿はまだ眠っておられる。申し訳ないが、部屋に入れるなと事前に言われているのだ」
ソアの言葉を聞いてリィンは苦笑を洩らした。僕が『命の力』を使うかもしれないと思って、先回りしたな…。
「分かった。みんな少し休んだ方が良いよ。お茶を淹れるよ、エンポリオも来てるんだ」
横を歩くソアが、リィンにだけ聞こえるような小声で話しかけて来た。
「…リィン。私はラディス殿を恨むぞ」
驚いてソアを見上げた。彼女は先を歩くクレイの背中を見つめている。凛とした横顔。
「クレイの心に、楔を打ち込んでしまわれた。彼はもう何があろうと迷わないだろう。この先がいかに困難であろうと、彼はその主と同じく、過酷な道を歩んでゆこうとするだろう。それがどれ程辛く為し難い事か…」
長い廊下をしっかりとした足取りで進むクレイ。黒のベストに折り目正しい黒のズボン、プレスの効いた白のブラウス。普段と変わらずに完璧な身なりだった。ラディスより少しだけ、線の細い背中。
「大丈夫だよ」
リィンの言葉にソアが顔を向けた。鮮やかな緑の瞳を真っ直ぐに見つめて、リィンは言った。
「だってクレイにはソアがついてる」
ソアは一瞬目を丸くして、それからゆるやかに微笑む。
「そうだな…それに私はまたクレイに惚れ直してしまったぞ、リィン」
「僕も。そんな風に言うソアに惚れちゃいそうだよ」
二人は顔を見合わせて笑った。