080:発端(ロンバート邸)
「下がって!下がりなさい!」
辺りは騒然となり悲鳴が反響している。馬車では傍まで近づく事が出来ず、フェーマスは執事を置いて現場へ駆け付けた。周囲は異様な臭いが充満している。獣の血肉の臭いに胸が悪くなるような腐敗臭。軍の保安部隊が垣根を作ってロンバートの家を包囲していた。人でごった返す中を強引に分け入って最前列に飛び出すと、すかさず軍人に押し返された。
「これ以上はいけません!下がってくださいっ」
目の前の凄惨な光景にフェーマスの膝が震え始める。
「これは…」
手入れの行き届いていた庭から、ごうごうと炎が上がっていた。被害の拡大を防ぐ為に、保安部隊が庭を囲うように放った火だ。ロンバートが好んで植えていた背の低い木々が煙を上げている。その炎に照らされた青色の屋根の家。二階建ての家の窓が無残にも割れているのが見え、野犬型のイグルがわらわらと庭を徘徊していた。フェーマスは心の底から戦慄し、近くにいた軍人の胸倉を掴み上げて怒鳴った。
「何をしている!早く退治をしないかっ。ロンバートは、家の人間は無事なのか!」
「は、離しなさい!動揺せずに軍に任せなさい!」
軍人が慌ててフェーマスを引きはがす。
「無礼な!私はルキリア貴族のフェーマス・モルスディックだ!ロンバートは無事なのかと聞いているんだ!答えたまえ!」
「モ、モルスディック様…。どうか冷静にっ。今指揮官の到着を待っているところです。すぐに事態の収拾に当たりますゆえ…」
相手の言葉を聞いて愕然とし、怒りに目眩を起こしそうになった。
「この緊急時に何を…!」
「せ…先生はまだ中に、います。ご家族も…。僕らを避難させる為に逃げ遅れたんです」
きれぎれの声にフェーマスは足元に目を向けた。手当を受けている青年が三名。視線を宙に漂わせ恐怖に身体を震わせてうずくまっていた。
「何だとっ」
「急にイグルが家の中に走り込んで来たんですっ。それもあんなにたくさん…。護衛の人が倒されて、それからハンスがやられてっ…。は、早く助けて下さい!先生やベルシェさんがっ…僕らを逃がす為に取り残されたんですっ!」
フェーマスの広い額に青筋が浮かび、握り締めた拳がぶるぶると小刻みに震えている。
「モルスディック様、どうかお下がりください。上官からの命がない限り私達は動けません」
「何の為の保安部隊だ!それでも誇り高きルキリア帝国軍の軍人か!」
背後で人垣がざわりとひときわ騒がしくなった。
「うわあ」
「何だっ!こりゃあ」
その声に振り返ると、人で埋めつくされていた通りの石畳が見えた。人々が目に見えない壁に阻まれているかのように両側に押しのけられ、一頭の馬がこちらに向かって駆けて来る。馬上から青年がフェーマスを捉え、叫んだ。
「中に人は!」
「ロンバートの家族がまだ中にいる!ラディス君、頼む!」
「待て!そこの者、これ以上は近づくな!」
軍人の制止を無視して躊躇なく馬が跳んだ。フェーマスはそこに、あのイリアス族の少年も乗っているのを目撃する。
「待ちなさいっ!無茶だ!」
広い庭を馬が真っ直ぐに駆けてゆく。その背にイグルが一斉に飛びかかっていった。見守っている人々から悲鳴が上がる。しかし次の瞬間、イグルの頭が一気に吹き飛んだ。紫色の血しぶきを上げてぼとぼとと異形の化物が地面に叩きつけられた。無残な死骸を乗り越えるようにして飛びかかる別のイグルを、今度はラディスの剣が容赦なくなぎ倒してゆく。すぐに馬の姿は家の門扉の中へ消えた。
あれはあの少年の『力』か。…あれは人の為せる業か?
フェーマスはまた別の恐怖におののいた。
「ロンバート…無事でいてくれ」
◇◇◇◆
真正面から飛びかかってきたイグルに『力』を放つ。ぐむ、という奇妙な音を残し、その躯が真っ二つに割れた。室内を馬に跨ったまま奥へと突き進む。家の中は壮絶だった。リィンは室内を満たす強烈な異臭とおぞましい光景に額から汗を流していた。二階へ続く階段に倒れ込むようにして転がっている人間の身体。すでに絶命していると分かる。何故ならその死体には、腹の部分がなかった。あれはここに護衛として雇われていた者だ。ラディスが弔いの祈りを口の中で暗唱している。
他人事ではない。僅かでも隙を作れば、自分もその死体と同じように腹をなくして横たわる事になるのだ。
二階の廊下に出たところで、奥にある扉にイグルが群がっているのが目に飛び込んできた。木目の扉をその腐った前足でがりがりと引っ掻いている。リィンは鋭く息を吸い込み、集中力を瞬時に極限まで引き上げた。ぎりりと奥歯を噛み締め、強く、念じる。
≪爆ぜろ!!≫
激しい炸裂音とともに、イグルの腐った躯が細かい肉片となって辺りに飛び散った。一瞬で全てのイグルがその原型を留めない程に砕けて消し飛ぶ。ラディスは馬から降りて鞄を手にとり、肩で喘ぐように息をしているリィンを片腕で担ぎ上げ、扉に向かって大股で歩き出した。
「あまり無茶はするな」
「だ、大丈夫だ…」
ラディスの額にも汗が滲んでいた。このひどい悪臭に、彼の敏感な嗅覚はとっくに許容範囲を超えているはずだ。
「ロンバート!いるか!」
ラディスが大声を上げると、扉の中から声が聞こえた。
「…ラディス先生!?」
ベルシェの声だ。がちゃりと薄く開いた扉をラディスが掴んで開く。背後で馬がいななき、蹄を鳴らして遠ざかってゆく音がした。不穏な気配が迫っている。
「イグルだ…まだいる」
リィンが小さく呟く。素早く室内に入り施錠をかけると同時に、どん、と何かが扉に体当たりをした衝撃。不気味な唸り声が扉の外から響いてくる。
「ベルシェ、怪我はないか」
ラディスがリィンを下ろしながら目の前に立つベルシェに顔を向け、室内に視線を巡らす。
「わ、私も、母も大丈夫よ…」
ここは寝室のようで、部屋の中央壁際に大きなベッドが一組。傍には夫人が真っ青な顔で佇んでいる。結い上げた髪が乱れ、服はところどころ赤黒い血で汚れているが、その瞳はしっかりとラディスに向けられていた。鎧戸の降りた窓の傍に長椅子が置かれ、そこに横になっていた青年が身体を起こして口を開いた。頭から血を流している。
「ラディス先生っ。ロンバート先生が…」
リィンは不吉な胸騒ぎを覚えてベッドに駆け寄った。
「ロンバート先生っ」
瞬間、肌が粟立つ。ぎゅっとベッドのシーツを握り締めて、そこに横たわっているロンバートの姿を息を詰めて凝視した。
いつも血色の良いロンバートの頬が、真っ青だ。瞳は固く閉じられ、浅く短く呼吸をしている。まだ息はある。視線を下へ向けると、彼の右腿のあたりのズボンが大きく裂けていて、夥しい血液が流れているのが見えた。足の付け根には止血の為の布が、きつく縛られている。そこでやっと室内に生々しい血の臭いが満ちているのに気付く。リィンの呼吸が浅くなり、口元がわなないた。
「ロンバート先生…」
ラディスがリィンをベッドから引きはがし、ロンバートの状態を観察する。きりきりと目元が険しくなってゆく。
「特効薬は打ったわ…せ、先生…。父は…」
ベルシェが震える声で呟いた。頬に涙の跡があり、今にも倒れそうな程にその身体から力が抜け落ちている。
「すぐに傷の縫合手術をする。まだ間に合う」
短く告げ、ラディスはテーブルに向き直り診療鞄を開く。手早く準備をしながら、唸るような低い声を出した。
「…ただ、血を流しすぎている。ロンバートの体力が問題だ」
室内が静寂の闇に包まれる。ベルシェが両手で顔を覆った。夫人が震えている娘の肩を抱いて、ラディスに強い視線を向ける。
「…お願い。ラディス、あなたの思うとおりにして」
扉の外からイグルの唸り声が間断なく聞こえてくる。ラディスが厳しい表情のまま手元に視線を落として動かなくなった。目まぐるしくあらゆる可能性を思索する。奥歯を強く噛み締めているせいで、汗の滲む彼の額には血管が浮かんでいた。リィンは深呼吸を繰り返し、ゆっくりと瞳を閉じる。
死んじゃ、だめだ…。
死なせるもんか。
「ラディス」
リィンはラディスの傍へ行き、彼の腕を掴んだ。
「あの『力』を使う」
ぐいと力任せに腕をとり、ベッドへと向かう。
「…何?」
「僕の、『命の力』を使う。そうすればロンバート先生は助かる」
リィンの言葉を聞いた彼の動揺が、掴んだ腕から伝わってくるようだった。
「…待て。何を、言ってる」
ラディスが強い力でリィンの腕を掴み返し、強引に立ち止まらせた。リィンは彼を睨みつけて怒鳴った。
「迷ってる暇なんかないんだっ!」
力づくで彼を引きずってベッドへ向かおうとする。そのリィンの細い両腕を掴んでラディスが怒鳴り返してきた。
「何故その事を知ってる!」
「そんなの今はどうだって良い!ロンバート先生を助ける!」
「駄目だ!」
「どうしてっ!?今使わなきゃいつ使うんだよっ!何の為の『力』だ!」
ぜいぜいと肩で息をして睨み合う。
リィンの胸がずきりと痛んだ。何て顔してるんだ…。ラディス。
彼は激痛に耐えているような苦悶の表情を隠さずに、縋るような瞳をリィンに向けていた。
こんな表情は今まで一度も見た事はない。胸がぎゅっと苦しくなる。ラディスを傷つけた。
リィンは何故だかそう感じた。
ラディス。ラディス。そんな顔しないで…。僕なら大丈夫だから。
ごめん。
リィンは自らを鼓舞してまた口を開いた。
「ラディス、お願いだっ。僕はロンバート先生を助けたい!ここで助けられなかったら、僕はッ…。僕は一生後悔する!」
ラディスの鋭い視線が、リィンを貫く。しかしリィンは怯まずに真正面からその青い瞳を睨みつけた。彼の形の良い薄い唇から、細く長く息が吐き出される。ラディスは目を閉じて声にならない声で、分かった、と小さく呟いた。
「…ベルシェ」
名を呼ばれたベルシェがびくりと震える。
「これからリィンの『力』を使ってロンバートの体力を回復させる。その後すぐ手術に入る。助手を頼む」
ベルシェは父を助けたい一心で、震えながらも顎を引いて頷いた。
用意を整え、リィン、ラディス、ベルシェの三人がベッドの脇に立つ。
「リィン…何をするの?」
ベルシェが怯えた表情でリィンを見やった。
「大丈夫だ。僕を信じて」
リィンはベルシェを安心させるように微笑んでから俯いて目をつぶった。その華奢な肩をラディスが抱き、横たわっているロンバートの胸にそっと手を載せる。リィンが口の中で囁いた。
「父様。僕に力を貸して」
次の瞬間、リィンの身体が青白く光り出した。