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紅い月 青の太陽  作者: 茂治
最終章
80/101

079:発端(診療所)

「姉ちゃん…ごめんよ、俺…。俺、こんな事になるなんてっ…」


「大丈夫だ。後は姉ちゃんに任せとけ」


「で、でも…」


「あちらさんもこれで許してくれるってんだから、大丈夫だ。な?」


薄暗い家畜小屋の中でひっそりと言葉が交わされた。丸々と太った豚は二人の緊迫した空気をよそに、鼻を鳴らしている。少女は目の前で泣いている弟の頭をがしがしとなでた。


「何も心配すんな。この事は誰にも言っちゃなんねえぞ。レッジ、おめえはもうこの事は忘れろ。良いな?」


少年はぼろぼろと泣きながら、何度も何度も頷いた。


事件の起こる、数時間前。


◇◇◇◆


診療所の裏庭から、剣がぶつかりあう時の高い金属音が響く。何度か打ち合い、勝負がついた。


「参った!」


リィンは引き締まった表情で相手を見下ろしていた。喉元に差し向けていた剣をゆっくりと収め、深く息をつく。


「いやあ、ほんと強えなあんた。その細っこい身体のどこに、そんな力があるってんだ」


相手は笑いながら立ち上がって、汗の噴き出している坊主頭を腕で拭った。ずんぐりとした熊のような大柄な男で、顎には無精ひげが伸びている。白のブラウスの上に獣の皮でしつらえた胸当て。茶のズボンの足元は毛皮の編み上げ靴。彼はつい最近、この診療所の主が新しく雇った護衛のバーツという名の男性だ。ザイナス出身の二十九歳。


「僕も驚いた。そんなおっきな身体なのに機敏で、すごく速い」


リィンも笑って汗を拭った。

町はずれにある診療所とその周辺では、刻々と様々な事が変化し続けていた。

診療所は正式にクレイとソアに譲渡が決まり、ニコルやチェムカとの連携も万事うまくいっている。エンポリオの会社ではワドレットと彼が中心に立って、経営も順調に軌道に乗り始めていた。往診で診ていた患者達はロンバートの病院に勤める若い医師達が分担して担当が決まり、ベルシェも父の仕事をサポートしているという。しかし今でもラディスに直接診てもらいたいと訴える患者は数多い。ベイルナグルが世界に誇る歌姫ネルティエもそのうちの一人だ。こういったこまごまとした問題は後を絶たないが、それでも引き継ぎの作業はスムーズに進んでいる。

この全てを今までたった一人でこなし、雛型を作り上げてきたラディスはというと、帝都の有識者達との会議に出席したり皆の相談役として働き、第一線を退いていた。

そしてつい最近、ルキリア国内においても大きな動きがあった。


ルキリア国の統治者であり、ルキリア皇族の頂点に君臨するカイエリオス国王とその妃、そしてアルスレイン王子にエリナ王女、絢爛たる皇族一行がザイナス国へ向けて出立したのだ。これは五年後に控えている第一王女エリナの婚姻の儀に関連するもので、今回当事者達が初めて面会をする。そのパーティがザイナスで開かれるのだ。通常は王女側が出向く事はないのだが、エリナ王女たっての希望で今回のような形になったという。少しでも早い段階で相手の現状を知っておきたいのだろう。そして気に入らなければ即刻縁談を断るつもりでいる。勝気な彼女らしい作戦だ。

ルキリア帝国軍や帝国政府の多くも同行しており、アルスレインの腹心の部下であるウォルハンド大佐や政府要人のケイロスもその同行者の一人だ。必然的に帝都ベイルナグルの宮殿には、これに同行しない皇族達や軍人が残り、留守を守っている状態である。


そしてこの動きに合わせて、ラディスは様々な場所に護衛を増やした。診療所はもちろんの事、ロンバートの病院やエンポリオの会社、そして従業員の自宅に至るまで、人員を割いて護衛を立たせている。

彼がこれ程までに警戒するのも無理はない。ラディスと敵対するルーベン司教や皇族トワ妃に加担する者達がこぞってこの帝都に残り、アルスレインを筆頭にしたラディス派ともいうべき者達がごっそりと抜け落ちた状態にあるのだ。相手が何かを仕掛けてくるとしたら、この機会を逃しはしないだろう。

護衛が増えた事によって皆も一様に緊張していたのだが、それも数日経てばいつも通りの慌ただしい日常に戻っていった。いちいち気にしていられる程暇ではなく、当のラディスが常と変わらずに飄々としている為に皆が安心を取り戻したからだった。


しかしリィンとクレイだけは彼の変化に気付いていた。一時も気を緩めずに周囲の全てに視線を巡らし、気を張っている。ぴりぴりとした緊張感が全身を纏い、その眼光をより鋭くさせているのだ。


*


「…変な顔」


薄くランプの灯が照らしているラディスの引き締まった横顔を見つめて、リィンが呟いた。

彼は前を見据えたまま眉を上げる。


「これだけの美形を捕まえて、良く言う」


それから隣にいるリィンを片腕でぎゅっと抱き寄せる。


「だってずっと難しい顔してるよ」


リィンは彼の広い胸板に頬を寄せて、ゆっくりと目を伏せた。


「ラディス…あんたって人に憎まれてばっかりだ」


ルーベン司教はラディスを恨んでいる。それはラディスがこのベイルナグルで医療改革を推し進めたからだ。それによってどんな身分の人々も平等に治療が受けられるシステムが構築され、それに賛同する人々が手に手を取り合って団結し始めた。その流れを受けて徐々に医師という職業の固定概念が崩れはじめている。神聖で偉大、絶大な権限を有し、選ばれた者にしか許されない領域。崇高なる女神のしもべとも崇められる存在だった。今現在、その威光が失われつつある。保守派の人々はそれを秩序の乱れといって恐れた。ラディスを指して、世界を混乱させる諸悪の根源だといった。


皇族トワ妃の一派は、ラディスを皇族の気高い血筋を汚す存在だといった。ルキリア皇族の絶対的支配が続くルキリア国において、彼は正統な血族の証である≪黄金の青い目≫を持ちながらそれに異を唱え、種族間差別の軽減にも尽力している。まるで全能の神の如くに、民衆の頭上に君臨し続けるルキリア皇族。その輝かしい仮面が、今まさに剥がれ落ちようとしている。


ラディスはその人々を、人智のかけ離れた特別な存在から、人間へと戻そうとしている。


「ふん。憎まれるのは覚悟の上だ。…お前は味方でいてくれるだろう?」


彼はからかうようにリィンの顔をのぞきこんだ。リィンは透き通った頬を赤く染めながらふてくされる。僕が何て言うか分かってるくせに、わざと聞いてる…。


「知らないよ」


「俺を護ってくれるんだろう?」


「さあね!」


「こら」


ベッドの中で二人はくすくすと笑った。この二人きりの時間がとても素敵で大切だと、お互いにそう思っている。両腕で力いっぱい抱きしめたくなる程の、愛おしいひととき。


幸せだ、と思う。


リィン自身、≪幸せ≫という確固たる定義を持っているわけではない。今までに自分が置かれている状況に対して、それが幸せだとか不幸せだとか、そういった考え方をした事がないのだ。この十八年間、生きるだけで精いっぱいだった。

ゼストと旅をしながら生活していた日々の事を思い返してみても、辛かったという事はない。確かに大変な毎日であったかもしれないが、それが不幸せだったとはどうしても思えない。白い悪魔と言われ、石を投げつけられたり罵られたり、さんざんな目には遭って来た。しかし一日の終わりに、屋根のある壁に囲われた部屋で、ベッドの上で寝られるだけで≪幸せ≫だった。次の日に、ゼストと食事をとれるだけで≪幸せ≫だった。

今はそれが、ニコルの作った美味しい料理をみんなで食べられるのが≪幸せ≫だし、使いに出た先で、ありがとう、リィン。と言ってもらえるのが≪幸せ≫なのだ。

そしてラディスの腕の中で心地良い温もりを感じながら眠りにつけるのを、≪幸せ≫と言わず何というのだろうか…。


恥ずかしくて絶対口に出しては言えないけれど、リィンは思うのだった。


僕、女で良かった…。


*


裏庭にある井戸の水で顔を洗い、リィンとバーツは診療所へ戻った。今日は休診日の為、普段診察を受けにくる人々で賑わっている廊下もしんと静まり返っていた。ラディスとクレイ、ソアは提携する他の診療所の医師達と応接室で会議をしている最中だ。


「僕お昼の準備するよ」


「俺も手伝うぜ。今日は肉にしないか?」


「バーツに任せると肉ばっかりになるからなあ」


「リィンはもう少し肉を食った方が良い」


「あんたは少しダイエットした方が良い」


言い合いながら居室へ帰り、リィンは茶の用意をして応接室へ向かった。控えめにノックをし扉を開いて中へ入る。聡明そうな紳士三人にラディス達、六人分の茶を用意して議論の邪魔にならないよう静かにテーブルへ置いてゆく。紳士達は熱心に何事かを質問し、それにクレイとソアが対応している。


「…なるほど。それならばまるで絵空事でもない訳だ」


「しかしレーヌ国ではそのような解剖学も行われているとは…。信じられん」


「オルーガ殿、これは今後の医療発展の為には必要不可欠のものになるでしょう」


「今まさに投資すべき事柄です」


リィンはちらりとラディスを見やった。彼は腕を組んで、じっとテーブルを凝視したまま微動だにしない。しかし全神経がびりびりと張り詰めており、おそらくこの場にいる全員の顔を見ずとも、その気配だけでどんな表情をしているかが分かっているだろう。繊細な美しい顔立ちは相変わらずだが、目元が厳しすぎる。先程から一言も声を発さないラディスの存在に、紳士達はちらちらと視線を送り意見を聞きたそうにしているのだが、声をかけられないでいるようだ。


ラディス…。


ふと彼が顔を上げてリィンに目を向けた。突然視線が合い、どきりとする。彼はリィンを安心させるように柔らかに微笑んでから議論の輪に加わって話し始めた。紳士達は熱心に耳を傾け自分達の意見を熱く語った。ラディスを見つめる瞳には光が宿り頬まで僅かに赤らんでいて、彼らは既にラディスに魅了されているようだった。ラディスは人の心を掴むのが上手い。それこそ詐欺師にでもなったら負け知らずなんじゃないか。リィンはこっそりと苦笑をこぼし、部屋を後にしようと扉に手をかけた。

その時、びしりと全身に緊張が走った。扉の取っ手を掴もうとしていた手が強張る。咄嗟に背後を振り返ると、全員が固まったままラディスを見つめていた。彼は席を立って窓の外に顔を向けている。その全身から、研ぎ澄まされた殺気が放たれていた。

只ならぬ彼の様子にクレイが中腰になり声をかけようとした時だった。


「た、大変だ!先生!!」


階下からバーツの叫び声。リィンは素早く扉を開いて階段へ走り出た。玄関口にバーツの大きな身体がしゃがみ込んでいて、その腕の中に男が寄りかかっているのが見えた。腕から血を流し、苦しそうに呼吸をしている。あれは…護衛の一人。


「ラディス先生!やられたっ。ロンバート先生の自宅だっ!イグルに襲われてるっ!!」


リィンの全身がぞわりと総毛立ち、心臓が強く鼓動し始める。リィンを追い越しラディスがいち早くバーツと怪我を負った男の元へ駆けつけ、鋭く視線を巡らした後、即座に指示を飛ばした。既に身体は診察室へと向かっている。


「クレイ、手当をして特効薬を彼に。ソア、来客に事情を説明して馬車を呼べ。バーツ、ここを頼む。連絡するまで皆ここを動くな」


「はいっ」


全員が素早く反応する。リィンは居室に戻り、剣を鷲掴みにして急いで玄関へ取って返す。大きな診療鞄と剣を持って外へ出てゆくラディスの後ろ姿を追いかけて、声を張り上げた。


「ラディス!」


「リィン、来い」


彼は止まらずに大股で歩きながら指笛を鳴らした。診療所のすぐ近くの馬小屋から一頭の立派な馬が躍り出て、こちらへ駆けてくる。小屋の前の椅子に座っている白ひげの老人が僅かに腰を浮かせた。


「馬を借りるぞ!」


老人は片手を上げてそれに応じる。ラディスは素早く馬の背に荷を括りひらりと飛び乗って、追いついたリィンを引き上げすぐさま全力で馬を駆った。リィンは態勢を低くして振り落とされないようにして、大地を駆ける馬の力強い足音を聞いた。どくどくと脈打つ心臓の音が、それに重なる。


ロンバート先生が襲われた…。ベイルナグルの南西のはずれ、大きくて庭もついている立派な家だった。今日先生は家にいたはずで、そこにはベルシェもお母さんもいる。それに下宿している若い研修医が、数名。


狙われたのはラディスではなくロンバートだった。

彼の人の良さそうな笑い顔が脳裏に浮かぶ。いつも少し頬が赤らんでいて、大きめの腹を揺すって歩く、その柔和な姿。


リィンは固く目を閉じて大きく空気を吸い込み、息をとめた。重くのしかかってくる不安に負けたくない。負けちゃだめだ。


無事でいて…。


息を細く吐き出して目を開ける。馬の手綱を操るラディスの逞しい腕。リィンの心がしんと静まってゆく。


あんたを護る。

あんたが護りたいと思うものも全て、全力で僕が護る。


リィンの瞳に、強い決意のこもった深紅の炎が宿る。








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