007:新たな仲間
日は既に傾き、星が瞬き始めた頃にようやく最後の患者を送り出した。
「まったく、ここは病人だらけだな。いっそ少し天に召されてくれたらありがたいんだが」
言いながらラディスは深く椅子に沈み込んだ。珍しく疲労の色を滲ませている。彼の憎まれ口には意に介さず、クレイは一直線にラディスのいる机へ近づいてきて強い口調で訴えた。
「あとは私がやっておきます。どうかもうお休みください。いくら急所を外しているとはいえ、傷は浅いものではないのですから」
ラディスはじっと痛みに耐えているかのように目を閉じ、片手をひらひらと振った。
「それに、私は…。賛成しかねます。あの少年をここへ置くなど。…危険すぎます」
「そうは言ってもな。路頭に迷わすわけにもいかない。俺はイリアス族を裏切れないんでな」
尚も心配そうにラディスを見下ろすクレイ。
「その事情は重々承知しております。ですが…何もここでなくても。ここへは色々な方が出入りしますし、ただでさえ帝国政府から睨まれているのに。何より、アルスレイン殿とその妹君もいらっしゃるのですよ」
「だからだよ」
「え…」
ラディスは静かに目を開く。形の良い鼻梁と引き締まった顎のラインには整った美しさを感じさせるが、瞳には強い意志が宿る。精悍な表情でじっと前を見据えている。
「あいつが生きていく為には避けて通らない方が良いだろう。アルスレインにとっても大事な事だ」
「し、しかし。またあの少年が取り乱したりでもしたら…」
「そうならないように俺が一肌脱いだんだ」
「は?」
クレイは驚きのあまりラディスを凝視した。目の前のラディスはクレイに視線を向け、にやりと笑う。
「あ、あなたという人は。全く、これでは命がいくつあっても足りません」
「心配性だなクレイ、最近特に老けこんだんじゃないか?」
くくく、と笑った。クレイは呆れながらも、このラディスという青年の精神力と行動力にあらためて敬服した。クレイとは年でいえば三歳しか違わないのだが、遥か先を歩き、遠い未来を見つめているようだ。
「さあもうひと仕事だ。チェムカを呼んできてくれ」
◇◇◇◆
ニコルに送り出され長い廊下を歩き、リィンは診察室の扉をノックした。はあい、と遠くの方で女性の声。おそるおそる扉を開け、整頓された部屋の中に入る。灯は暗く入っているが、この部屋には誰もいない。右側にベッドが二つあり、その先に応接室に通じる扉が見える。目の前の診察机の先にもう一つ扉があり、そこから光がもれていた。奥へ進み、その扉を開くと、内部は雑然とした部屋だった。様々な形のガラス瓶が置かれ、見たことのない機具が並んでいる。この部屋には天井付近に小さな明かりとり用の窓しかなく、あとは通気口だけで壁一面が棚になっており、そこにもリィンには訳の分からないものがずらりと並んでいた。長方形の大きな作業机には資料と思しき紙の束が積み上げられ、その奥の椅子にラディスが座っている。脇にはクレイが立ち、背後の棚から古ぼけた本を引き出していた。すぐ手前に灰色の髪を三つ編みにした女性がいて、リィンを見つけて驚いた声をあげる。
「うわあ、ほんとだ。あたす、イリアス族ってえの初めて見ただわ」
素直な言葉である。リィンは居心地の悪いのをこらえ、ラディスに向かって声をかけた。
「あの、大変お世話になって、ご迷惑もおかけして本当にすみませんでした。その、傷、大丈夫ですか」
ラディスはやっと顔をあげリィンを見て言った。
「風呂にも入ったようだな。あんまりにも薄汚れてみすぼらしかったからな」
「そったらことないわ。なんつう白い肌だろ。ほお」
手前にいた女性が無遠慮にリィンに近付いて見つめている。リィンよりも少し背が低く、思っていたよりも若く感じられる。白のブラウスに腰のしぼった臙脂色のスカート、底がフラットな靴を履いている。顔にはそばかすが散らばり低い鼻。洗練された雰囲気はないが、愛嬌のある顔立ちをしている。触れようと伸ばされた手に怯えて、リィンは後ずさった。
見かねたクレイが咳ばらいをして彼女を止める。
「あ!こりゃ失礼しますた。なんか、すべすべして気持ち良さそうだったもんで」
リィンは奥に座るラディスに聞こえるように声をあげた。すでに彼は机の上の紙束に視線を戻している。
「もう僕は明日にでもここを発つ。これ以上迷惑はかけられない」
「そうか。クレイ、請求書を」
「はい」
リィンはひやりとする。お金…。
たしか、ゼストの荷物の中に財布があった。多分三千フィルはあったはずだ。紙切れがクレイの手元から手前の女性へと手渡される。
「チェムカさん、金額をお願いします」
「ええと、治療費、投薬代、部屋の修理費、葬祭費もろもろで…しめて二十六万五千七十フィルだす」
「ええっ。ちょ、ちょっと高すぎるんじゃ…」
「馬鹿言うな。こっちは慈善事業でやってんじゃないんだぜ。これでも考慮してやった方だ」
リィンは呆然とラディスを見つめた。なんていう奴。
「まあその分じゃ金なんて大して持ってないだろう。足りない分は働いて返してもらうからそのつもりで。食事と寝床は確保してやる」
「そんな!僕は、ここにはもう…」
ラディスがぎろりと睨みつける。何とも言えない迫力があり、リィンは口をつぐんだ。
「本当に、これだけで済んで安いものです。本来であれば帝国軍に犯罪者として明け渡されても仕方ないんですから」
クレイがさらりととどめを刺す。
「それは、本当に、申し訳なかったと思っている。あの時は自分も混乱してつい、その目の色に反応してしまった…。その償いはするつもりだ」
リィンは半ば諦めて自分の処遇を相手にゆだねた。考えてみれば相手の意見は正しいのだから仕方がない。
「でも…」
だからこそ、ここにいてはいけないのではないか。
「だがなあ、こんなガキに何をさせるか。『力』も出せないんじゃ当分用心棒にもならん」
「そうですねえ」
リィンに構わず話は進んでいく。まあ、ガキがやれる仕事なんてたかが知れてるしなあ。
「…僕はガキじゃない。年だってもう十八だ」
「え?」
リィン以外の三人が揃って声をあげた。皆それぞれ驚きの表情。
「うわあ、あたすとおない年!」
「おいおい、十四,五の子供じゃないのか」
「ええ、私もてっきり」
リィンは顔を真っ赤にして俯く。
「と、年の事はもう良いだろ。何でもするからっ…」
それを聞いてラディスが上手に口角だけを持ち上げて微笑んだ。
「素晴らしい心がけだ。そうそう、イリアス族の資料がまだまだ足りなかったんだ」
「…え?」
「まずは採血だな」
「なに…」
「まさかこんなに良い状態の研究材料が手に入るなんてなあ、刺されてみるもんだ」
「ちょっと…」
そうしてリィンはここで当分の間、ただ働きと実験台にされる事になった。
◇◇◆◆
そのままあの研究室のような部屋で血をとられ、それから皆で賑やかに夕食を済ませた。リィンにとって数人でとる食事は、今まで滅多になかった事なので戸惑いを隠せなかったが、ニコルやチェムカが何かと世話をやいてくれた。食事中も二人はよく喋り、よく食べた。ラディスも何かと会話に入って話をするが、クレイは黙々と食事をすませ、自分の使った食器を手にすぐに席を立ってしまった。
それからニコルを手伝って後片付けをしている間に、クレイがチェムカを家へ送り届けると言って二人は部屋を出た。聞くとこの家には通常ラディスとクレイしか住んでおらず、ニコルはここ数日間寝泊まりをしているだけで、そのうちに自宅から通うのだと言う。部屋数も必要最低限しか用意されておらず、診療所としても入院設備等がない為、入院を必要とする患者は提携している別の大きな病院へ搬送されるようになっているらしい。
「さあて、明日からは色々手伝ってもらうからねえ。ちょうど男手も欲しかったとこなのよ」
太めの身体を反らせながらニコルが言った。
「うん」
テーブルを拭いていたリィンは、ニコルを振り返って微笑む。
「まあまあ。でもこんなに細いんじゃあ、あんまり重いもの持たせるのも可哀そうだわね」
と言って、リィンの頬を両手で包み込んだ。温かい体温が伝わってくる。
「大丈夫だ。僕はこう見えても案外力持ちだよ」
「リィン、ここにいなさいな。きっとリィンにとって良い経験になる事がたっくさんあるから。それに、うちの先生はとても立派な人だから」
ニコルは柔和な表情を浮かべている。突然の事でリィンはきょとんとするが、少し複雑な心境であった。
ラディスはすでにまた診察室の奥の部屋へ引っこんでいた。
先程その部屋で言われた事を思い出す。
ここで暮している間は、復讐なんていう馬鹿な考えを持たない事、お前が解放の女神と謳われたシルヴィの子供であるのを伏せておく事。最低でもこの二つは必ず守れよ。何より、そんな事を考えている暇はないぞ。借金返済に精を出す事だ。
あの医者は、何故母様の事を知っていて、僕がその子供であるとわかったのだろう…。
何にせよ、今はここに置いてもらうしかない。この先どうするのかも決めあぐねているのだから。