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紅い月 青の太陽  作者: 茂治
第五章
79/101

078:≪番外編≫焦がれる太陽

「…やり直し。計算が間違ってる」


彼は無造作に紙束を机の上に投げて寄こし、また別の資料を手に取る。


「それから決算の報告書は?研究成果をまとめた資料は?…これもやり直しだ。綴りが間違ってる」


エンポリオの机の上にどさどさと紙束の山が出来上がってゆく。恨めしそうに見上げると、彫像のような整った顔でこちらを見下ろしているラディスと目が合った。


「ちょっと待ってよ。僕今までそんな事一切しないで遊んで暮らしてたんだからさ、急に言われてもいっぺんに出来るわけないでしょ?」


「おかしな奴だな。出来る出来ないの話なんてしていないぞ。次に来るまでに終わらせておけよ、良いな?」


そう言い置いて彼は部屋を出て行った。


鬼だ、鬼がいる…。


エンポリオは途方に暮れてぼんやりと窓の外を眺めた。


現在、彼の診療所はクレイとソアが取り仕切っており、ラディスは彼自身が携わっている様々な場所に後継の人間を置いて、ベイルナグルの内外を問わず駆け回り、最後の総仕上げに取りかかっていた。エンポリオは製薬会社の経営者として、その仕事を彼から教わっている最中である。こんな事は予想もしていなかった。あの会社はラディスが立ち上げたもので、特効薬やその他の薬品の精製を行って商売をするかたわら、新薬等の開発を研究する施設の役割も担っている。ルキリア国とレーヌ国からの援助もあり国指定の機関でもある。エンポリオはその場所で自らのルキリア貴族としての資産を大いに利用し資金の援助をする見返りに、名ばかりの経営者の座について悠々自適の毎日を送っていた。あの会社の責任者はワドレットのはずである。なのにラディスは数日前からエンポリオにつきっきりで、猛特訓を開始したのだ。エンポリオ自身の意向も聞かず、何の断りもなく、有無を言わせずに、である。軟禁状態で彼の叱責を受ける日々が既に十日程が経過していた。


もうずっと、女の子とデートも出来てない…。


そればかりが服を着替える気力もなく数日同じものを着ている為に、常に外見に気を使いこぎれいにしている彼にしては珍しく、ブラウスにはしわが寄りズボンの折り目もよれよれであった。

エンポリオはふらふらと席を立ち、高価な茶器を取り出して茶を淹れ始めた。


ラディスが態度を変えたのには確かに心当たりがある。それはエンポリオが今まで渋っていた、オールゲイトという由緒あるルキリア貴族の名を継ぐ事を決めたのに起因する。当主となる事を決めた翌日から、ラディスは自分に経営者に必要な万般の知識やノウハウを叩き込み始めたのだった。


「はあ…。こんなの、ありがた迷惑だよ…」


僕は君みたいに、がむしゃらに生きるなんてしたくない。これからだってゆるーく生きていたいんだ。


◇◇◇◆


昼過ぎに診察の業務を終えた診療所の応接室では、ソアがクレイから事務仕事を教わっていた。


「それにしてもすごい量の郵便物だな。まるで一国の執務官になった気分だ」


両手を腰に当てて机上にある手紙の山を睨むソア。クレイは苦笑しつつ、手紙を仕分けながら口を開いた。


「レーヌで役員をしていたのだから慣れているでしょう。ああ、それはロンバート先生へ」


「…この華やかな手紙の一群は?」


ソアがつまみ上げるようにして手にした便箋は繊細な押し花が施された淡い桃色をしていて、それと似たような手紙の束が机の端に出来上がっていた。


「はあ。それは…」


クレイが説明をしようとした矢先に、ソアが便箋の口を開いて中を確かめ始めた。


「…ソア。勝手に開封するのはいけませんよ」


「ほう。これらは恋文か…。ラディス殿は罪なお人だ」


ソアが緑の瞳を少しだけ大きくして手の中の紙片を眺めている。今日も普段と変わらずストレートの黒髪を一つに束ねており、前髪は眉のあたりできちんと切りそろえられていて清潔感溢れる外見。白のブラウスに黒のロングスカート、足元は剣の使い手でもある為に、強度の高い編み上げ靴を履いている。そのシンプルな服装はすらりとした長身の彼女に良く似合っていた。

クレイは凛としたソアの美しさに見惚れそうになり、咳払いをして視線を手元に落とす。


「それに、ここで働きたいという人が直接手紙を送ってくるのです」


「ふうん」


その声にクレイとソアが同時に背後を振り返ると、そこにリィンが佇んでいた。


「お昼だよ。ニコルが呼んでる。僕、これからロンバート先生の所へお使いに行くから…これかい?」


「ええ。お願いします」


机の上にある大きな封筒を手にリィンは笑顔を残して部屋を去っていった。木目模様の扉に顔を向けたまま、ソアがぼそりと呟く。


「最近、リィンの雰囲気が変わったと思わないか?」


「そうですか?私には以前と変わらないように思えますが…」


「確かに以前と変わらず少年のように見える。しかし、何というのかな、あれは…綺麗になった。前から美しい容姿をしていたが、一段と輝きが増したようだ」


うむ、と頷くソア。


「さあ、お昼を済ませたら仕分けの続きです。…これで一通りは教えた事になりますね。あなたはすぐに覚えてしまった。賢い人だ」


クレイが素直にそう告げると、ソアは少しだけ顔を傾けて嬉しそうに微笑んだ。


◇◇◆◆


高い空を見上げて石畳の道を歩く。最近はラディスの護衛としてではなく、配達や使いをこなす仕事が続いている。このベイルナグルの町でリィンはすっかり有名人になってしまい、外出する時にフードの付いたマントを羽織る事もなくなった。挨拶をしてくれる人や知り合いが増え、同時に面と向かってリィンを罵倒する人もぐんと減った。ただ全てが万事うまくいく事はなく、いまだにつっかかってくる人々もいる。それは当然の事でリィン自身はあまり気にもしていない事柄だった。

ロンバートの病院に辿りつき、顔見知りの受付の女性に封筒を渡してそこでまた使いを頼まれる。挨拶を交わして、次にエンポリオの会社へと向かう。そこには今ラディスもいるはずで少しだけ早足になってしまう。リィンはここ数日間、彼とまともに会話を交わしていない。それ程にラディスは多忙で捕まえるのもやっとなくらいだ。ただ毎日診療所には帰ってきているようなのだが、帰宅はいつも深夜か明け方の為にリィンが目覚めた時には既に彼の姿はない。


あれから…。


あの夜から、何度となく二人は肌を重ねていた。今まで同じ寝室の一つのベッド寝ていて、何もなかったのが嘘のような気がする程、ごく自然に愛し合う。リィン自身はいつまでたっても恥ずかしくて仕方がないのだが、それでも言葉では言い表す事の出来ない幸福感に満たされる。その時のラディスは普段の彼とは違う表情を見せる。熱を帯びた青い瞳に見つめられただけで、息が止まりそうになる。低くて心地の良い声で名を呼ばれるだけで、震えてしまう。リィンは何より素肌で抱き合う事が好きになった。より近くに彼を感じる事が出来て、その肌から伝わる温もりと鼓動がとても愛おしいのだ。多忙を極めるここ数日はそれがなくて少し寂しい。しかしそういった夜にもラディスはリィンを腕の中に抱いて眠るようになった。一度真夜中に寝苦しさを感じて目を覚ました時、彼はリィンを抱き締めたまますやすやと眠っていたのだ。その窮屈さに苦笑をしたが、もちろん嫌ではなかった。そんなラディスはいつもの彼らしくなく、何だか子供みたいに甘えているように思えて、それがまたリィンにとったら嬉しい事の一つなのだった。


ただ、一つだけ引っかかる事がある。

仕方のない事だと分かっているのだが、どうしても気になってしまう。気になったところでどうする事も出来ないと分かっているのに、何だかもやもやと心の隅っこに靄がかかる。


手慣れている。確実に…。


全く経験のなかったリィンにだって、そんな事くらいは分かる。ラディスは女性の扱いに慣れているのだ。そりゃそうだ。だって彼はモテる。話に聞いたらそれはもう十代の頃からモテ続けている。今だってあんなにラブレターをもらうくらい、皆が彼に夢中になる。すらりとした長身の、引き締まったスタイルに美しく繊細な顔。見惚れてしまう程の容姿に気さくな性格。それに強い…。


リィンはそこまで考えて、はたと道の上で立ち止まる。


何だか良く言いすぎじゃないか!?褒めすぎだろ…。

やめろ、僕!恥ずかしい事ばっかり考えるな!


「ぬあぁー」


奇妙な声を上げつつ頭を振って駈け出した。道行く人が、走り去るリィンの背中を怯えながら見送っていた。


◇◆◆◆


「リィン!たすけてっ」


エンポリオが半泣きでリィンに抱きついた。金色のふわふわとした髪が頬に当たる。


「何、どうしたの」


エンポリオの会社の、研究員の宿舎となっている建物の居室。リィンがその扉を開いた途端に彼が飛びついてきた。部屋の奥ではテーブル席でワドレットと研究員数名が優雅にお茶の時間を楽しんでおり、リィンはエンポリオを引きずってそちらへ足を向け声をかける。


「ワドレット、これロンバート先生から。今月分の明細。…エンポリオはどうしちゃったの?」


ワドレットがリィンに礼を言い、笑って簡単な説明をした。


「ラディス先生の個人授業を受けているんです。…うらやましい」


「何言ってんのさ!僕は頼んでないのに、毎日毎日、毎日毎日っ!!外に遊びにも行かせてくれないでさ、気が狂いそうだよっ」


リィンをぎゅうぎゅう抱き締めたままエンポリオはワドレットに向かって吠えている。リィンはちらりとエンポリオを見やった。確かにこんなに疲れ切っている彼を見るのは初めてだ。目の下にはくまが出来ているし服もよれよれで、それに何と、うっすらだがひげが生えている。童顔の彼が三十代の年相応に見える。


「ねえリィン、僕を助けてくれるよね?ラディスに言ってよ、少し休ませてあげてってさ」


切なそうにリィンを見つめる紺色の瞳。見た相手が可哀そうだと手を差し伸べてやりたくなるような、そんな瞳。しかしそれはいつも彼が得意としている演技ではなく、本気で切羽詰まっている瞳だった。

その時、ぎいい、と不吉な音を立てて奥の扉が開き、大きな影がぬうと現れた。


「エンポリオ…。何度も言っただろう。わざと間違えてるのか?そんなに俺と二人きりでいたいのか?」


紙束を右手に握り締めたラディスが仁王立ちしている。彼の放つ背筋が凍りつくような殺気に、その場の全員が固まった。


「うわあ!出たっ」


エンポリオが小柄なリィンの背後に隠れ、リィンは仕方なく口を開いた。


「…ラディス。エンポリオが可哀そうだろ?みんなあんたみたいな怪物じゃないんだから、ちょっとは休ませてあげなよ」


「人を怪物扱いするな」


ラディスは大股でずかずかと近づき、リィンの背に隠れているエンポリオの首根っこをがしりと捕まえてにっこりと微笑んだ。


「人間、たいがいの事は死ぬ気になれば出来るもんだぜ。なあ、エンポリオ。…まだ死にたくないだろう」


一拍の沈黙の後、エンポリオは悲鳴を残してラディスに連行されていった。


「あ…はは。面白いなあ、先生の冗談は。リィンさんもお茶いかがですか?」


凍りついた場の空気を変えようとワドレットがリィンに席を勧めた。


「災難だね、エンポリオの奴」


「ええ。ですがあれを乗り越える事が出来れば、ちょっとやそっとでは挫けなくなります」


「…それってどんだけ大変なんだよ」


誇らしげに言うワドレットの眼鏡顔を見て笑ってしまった。ラディスはずっと働きずめなのに元気そうだった。ほんと、怪物みたいだ。彼が近づいて来た時、あの優しい香りを嗅いだ。ミントハーブの匂い。ラディスの匂いだ。

リィンはティーカップを傾け、二人が消えて行った扉を見つめる。


…もっと近くで、その匂いを吸い込みたい。あの腕に抱き締められたい。長い指で、髪を梳いて欲しい。触れたい。彼の右胸にある古い刻印に…。


ラディスに、触れたい。


「リィンさん?」


はっとして一気に赤面する。自分の感情に動揺して、瞬間に自制をかけようとした。まずい、と感じた時には既に遅く、リィンの手にあったティーカップが音を立てて粉々に砕け散った。『力』が暴走してしまった。茶は入っていなかったので濡らさずに済んだが、研究員達が呆然とリィンに注目している。ワドレットが慌てて席を立った。


「大丈夫ですか!?」


「っご、ごめん!!」


リィンが深紅に揺らぐ瞳のまま砕けたカップの欠片を片付けようと立ち上がると、ワドレットが更に慌てて言った。


「そんなのはいいですからっ。手、リィンさん、手が…」


そこでやっと自分に目を向け、驚く。右手が血で真っ赤に染まっていた。


「ラディス先生を呼んできますから、そのままでいて下さいねっ」


リィンは申し訳ない気持ちでいっぱいになり、しょんぼりとうなだれた。情けない…。


◆◆◆◆


「ティーカップを握り潰すなんて、どんな馬鹿力だ」


「う、うるさいなっ」


空いている部屋を借りてリィンは手当を受けていた。ラディスがリィンの手の平を見つめ、欠片が刺さっていないか確認して消毒しガーゼを当てて、慣れた手つきで包帯を巻いてゆく。


「痛い…」


「我慢しろ。出血の割には大した事はなさそうだ」


リィンは目の前のラディスをぼうっと見つめていた。薄茶色のぼさついた髪。品の良い鼻筋にすっきりとした顎のライン、薄い唇。長いまつげ…。


「おい、聞いてるか」


唐突に青い瞳と目が合う。


「えっ!?な、何」


「…帰る時に、この資料をクレイに持って行ってくれ」


ラディスがため息をついて後ろの机にある封筒を指差した。リィンはまた情けなくなって、分かった、と口の中で小さく返事をする。顔が熱い。

どうかしてる。ラディスに見惚れたりなんかして…。それにさっきのは完全に、あれだ。彼のミントハーブの香りを嗅いで、興奮したのだ。


変態か、僕は。


リィンは視線を手元に落として力無く言った。


「あんたは良いよな、いつも冷静でさ」


「何の話だ」


「独り言だから気にしないでくれ。僕、もう帰るよ。ワドレットに謝らなきゃ…」


「俺の芝居は完璧だからな。そう見えるだけだ」


彼の言葉の意味が掴めず呆けたまま顔を上げた。ふわりと腕の中に抱き寄せられ、その温もりと香りにリィンの心臓がどくんと飛び跳ねる。


「ラディス?」


数秒見つめ合い、引き寄せられるように二人は唇を重ねた。優しくて深い口付け。リィンの頭の中は真っ白になり、彼のキスに翻弄され僅かに応える事しかできない。身体の奥が熱くざわついて、ぎゅうとラディスの服を掴んで身じろいだ。


「…っぁ」


熱い吐息が漏れる。そのままきつく抱き締められ、リィンは目を閉じて彼の背に腕を回した。胸に温かな感情が広がってゆく。


良い匂い。あったかい。気持ち良い。嬉しい。…好きだ。


ラディスは、僕のものだ。

彼の過去に嫉妬していた事さえ吹っ飛んでしまう。それ程にラディスは全身で僕に伝えてくれる。

リィンはふわふわとする心地良さに漂いながら、ぼんやりと思った。


ああ、服が邪魔だ。


「ラディス…。あんたのせいで僕は変態になった」


リィンがそう告げると、彼は低く笑った。身体を伝って振動が届く。ぎしりと椅子が鳴った。


「ちょ…っと、どこ触ってんだよ」


ラディスの手がいつの間にかリィンのブラウスの中に入り込んでいる。非難するように青い瞳を睨みつけると、彼は困ったような表情で見つめ返してきた。


「キスだけで止めようと思ったが、うまくいかない」


軽々と抱き上げられベッドの上へ。慌てて起き上がろうとすると手首を掴まれ動きを封じられる。リィンの頬がみるみる真っ赤に染まってゆく。


「ちょっと待ってよっ。ワドレット達が…」


「あいつらの休憩時間は終わってる。もう会社へ戻った」


そう言ってラディスはまたリィンに口付けた。


「んっ…」


情熱的で丁寧なキスが、リィンの理性をぐらつかせる。我慢しないと声が漏れてしまいそうになる。


「っ…ちょっ、エ、エンポリオが仕事してるだろっ。こんなの駄目だよ…」


リィンがくらくらしながら必死になって抵抗すると、彼は鼻先が触れ合う程の至近距離でこちらを睨みつけてきた。どきりとする。青い瞳の奥にある金色が潤んでいるように見える。


「俺だって四六時中仕事してるぞ。たまには褒美の一つも欲しくなる」


少し拗ねたようなその言い方に、リィンの胸はまた高鳴ってしまう。馬鹿だな、僕…。


「リィン」


熱のこもった彼の表情は、それだけで色気が漂う。そんな風に見つめないで欲しい。リィンが最後の抵抗で、ぎゅっと目をつぶって顔を横にそらせる。ラディスはそんなリィンの耳朶に唇を寄せて、吐息まじりに囁いた。


「…欲しい」


ああ…。もう駄目だ。


リィンが彼に、勝てるわけがないのだ。


◆◆◆◇


「…完璧だ。やれば出来るじゃないか」


「だろ?じゃあもう良いよね?」


「まだ報告書が出来上がってないぞ。頑張れ」


椅子に腰かけたラディスが、口角を持ち上げて微笑む。エンポリオは背筋が空寒くなる思いがした。


こんなに恐ろしい微笑みは見た事がない。


がっくりとうなだれてしぶしぶ自分の机へと帰ってゆき、どさりと椅子に腰を下ろして頬杖をついた。


「ラディス、君ってば嫌味な奴だ」


彼は向かいの机に座って分厚い書物を読みふけっている。時刻はもう深夜だというのに一切疲れを見せない。多分、人間ではないのだ、きっと。


「何だ」


「リィンから君の香りがした」


「それがどうした」


「わざとでしょ」


「虫よけだ」


「はああ!もう僕はショックで立ち直れない!君ってば色んなものを持ってるのにずるいよ!僕の欲しいものまで奪って楽しいかい!?年下のくせに生意気だよっ」


ラディスは書物に視線を落したまま笑った。


「俺には何もしないで得たものなんて一つもないぞ。欲しいと思ったものは全力で取りにいくまでだ。お前はいつも中途半端で、必死さに欠ける。本当に欲しいものは何だ?」


エンポリオは遠くを見つめてため息をこぼす。


「それが分かれば苦労しないよ。…何かを変えたくて、僕は名を継ぐ事を決めたんだ」


ラディスがゆっくりとエンポリオに顔を向ける。ランプの灯が入った部屋に静寂が満ちていて、その空間に意思のある声が響いた。


「俺はずっと待ってたんだぜ。お前がその気になるのを」


「…え?」


「エンポリオ、お前は賢いくせに阿呆のふりをしたがる。俺も嫌いじゃないが、それじゃあつまらんだろう」


エンポリオは真顔でラディスを見つめている。


「お前をあの会社の責任者にしたのは、ルキリア貴族の金を目当てにしたからってわけじゃない」


「え…どういう事…」


「資金なら国からの援助もあるしジェイクだって手を貸してくれる。…ワドレットもクレイも人が良すぎるんだ。お前のように少しひねくれた切れ者がいないと困る。このベイルナグルの要は、エンポリオ…お前だ」


ラディスの≪黄金の青い目≫が、エンポリオを射抜いた。知らず背筋に汗が伝ってゆく。


「…褒め殺しかい?やめてよ…。僕が世間で何と言われてるか知ってるでしょ。オールゲイトの面汚し、放蕩息子の厄介者…」


そうだ。誰も自分に期待なんて持っていなかった。期待されない分、責任もなかった。自分もそれで良いと思っていたし、それが自分の性に合っていると思っていた。面倒で煩わしい事はしたくない。


「変態なのは確かに認めるがな、俺がそんな噂を真に受けると思うか?」


「じゃあ君は…」


最初から、僕にそんな過大な評価をしていたっていうのか?皆が口をそろえて、呆れた金持ちのボンボンだと噂している僕に?そんな僕を信じたというのか?

そんな馬鹿な…。自分自身でさえ、こんな自分に期待なんてしていなかったというのに…。


ラディスはにやりと意地悪く笑った。


「お前には随分時間を投資した。これからはしっかり働いてもらうぞ」


エンポリオは絶句して彼を凝視し、それから笑い出した。何故だかとても可笑しくて、腹を抱えて笑い続けた。息をするのもやっとのくらいに後から後から、心の底から笑いが込み上げてくる。


「はあ、あはは。き、君ってほんと、意外とうっとうしいくらい、熱い…」


「教えといてやろう。エンポリオ、人の心を動かすのは策じゃない」


笑いすぎて目尻に溜まった涙を拭い、ラディスを見やった。


「心だ。生きた熱だ」


「ぷっ…。くさいよ…」


「それが事実だから仕方ない」


そう言って彼は静かに笑い、書物に視線を戻した。笑い続けて疲れた身体を椅子に深く凭れさせて、エンポリオが口を開く。


「ねえラディス。どうして君はそんなに必死になって、手を抜かずに生きるんだい?」


彼は長い指先でつまみあげるように書物の頁をめくりながら、さらりと言った。


「その方が面白いからだ」


「…本当かい?」


「ああ。嘘じゃない。騙されたと思ってやってみろ」


エンポリオは口元に笑みを浮かべて天井を見上げた。


「なるほどね…」


ゆっくりと息を吐き出す。何て清々しい深夜。


「悠長におしゃべりなんてしてる暇はないぞ。いい加減俺も早く帰りたいんだ」


「分かったよ。ふふん。僕の本当の実力を知って恐れ入るが良いよ」


「頼もしい限りだ」


エンポリオはよし、と呟いて机に向かう。ずっと休まずに仕事をし続けているので疲労困憊のはずなのだが、何故だか身体の底からむくむくと力が漲る。頭が冴え渡っている。そういえば、ここまで追い詰められた事は今まで一度もなかったかも知れない…。


僕はいつも少しだけ、手を抜いて生きていた。君には全てお見通しだったってわけかい。


くすりと苦笑をこぼす。


きっと徹夜明けの朝日は美しいに違いない。まるで生まれて初めて見る太陽みたいに…。









【番外編・完】

意外にも番外編二話目。うぶなリィンが虜にされちゃったお話。

またもや長くなってしまってすみません。


これで最終部に向けての準備は完了です。


二人は最後の試練に立ち向かいます。


いつも読んで下さる皆様に、心よりの御礼を。

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