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紅い月 青の太陽  作者: 茂治
第五章
74/101

073:手紙

「お主には三つ詫びる事があり、一つ、伝えておく事がある」


レーヌを発つ朝、リィンは大学校と対で建つ荘厳な大聖堂の中にいた。純白の壁面、その内部には歴史的にも価値の高い彫像が整然と並び、様々な着色の施されたガラスが複雑に組み合わさって窓を作っていた。遥か上空に丸い円天井があり、そこから繊細な細工の巨大な室内灯が吊り下げられている。このレーヌの技術力は驚嘆に値する。床も完璧に磨き上げられていて、リィンはここへ入る時に靴を脱ぐのかと疑った程だ。


「まず一つ、初日の無礼をお許し願いたい」


大聖堂に並べられている長椅子に座るリィンは、目の前にいる女帝に視線を向けた。シャウナルーズは今日も正装をしている。緑のかつらに漆黒のペンダント、白のドレスに≪清廉なる織布≫を首から下げ、大聖堂の正面にある台座の椅子に座っている。その背後には巨大なリリーネ・シルラの聖像があるのだろう。今は布がかけられており、その姿を見る事は出来ない。


「お主をからかった事だ。悪く思うな、我はお主のような若者が好きなのだ。実を申すとな、レーヌ国の女帝は生涯独身を貫かなければならぬ掟がある」


「え…」


「あのように賢くて美しい者達を集めて侍らすのが、我のささやかな楽しみなのだ」


女帝は口元を横へ引き上げてにやりと笑い、リィンは頭を垂れて恐縮する。


「…ぼ、僕の方こそ、申し訳ありませんでした。シャウナルーズ様にあんな生意気な事を…」


「ふふ。リィン、そう固くなるな。ここには我とお主しかおらぬ。…このレーヌの印象はどうだ?」


「とても素敵な所です。本当に人々の心も豊かで、とても美しい。町並みも全て。それに、シャウナルーズ様の事、僕は好きです」


女帝は細い両目を少し見開いて、たおやかに笑った。


この女性の素晴らしさを、あえて語る事はしなくても良いのだろう。このレーヌ国が、何故長い歴史の中で揺るがずに、どの国に対しても中立でいる立場を貫き、世界一の医学や学問と優秀な人々を持ち得る事が出来るのか。ひとえに一国を預かる指導者の思慮深さと先見の明、それから中心で働く者達の覚悟の深さによるものだろう。そしてシャウナルーズの人柄こそが、全ての土台となっているのだ。

リィンは彼女の垣根のない人との対し方に心を打たれていた。


「礼を言うぞ、リィン。…しかしお主にはまだ謝らなければならぬ事があるのだ。もう一つ、それは永い歴史の中で行われた残虐なる裏切り。

 …およそ百年前、我々レーヌ族はイリアス族を裏切り、かの者達を地獄の底へ突き落した。イリアス族を悪魔に仕立てる事によって、我々レーヌ族は生き延びて来たと言って良い」


室内が一瞬暗くなったかと錯覚するような重苦しい空気が辺りを包み込んだ。

女帝は一時息を止め、目を伏せる。


「シャウナルーズ様」


リィンの声。


「僕はイリアス族です。けれど、あなたを非難する権利はないし、あなたに謝らせようとも思わない。それはあなたが一国の王だからじゃないんです…」


リィンは話していて何故だか泣きそうになる。真剣な心を受け止める事は、とても、重いのだ。


「シャウナルーズ様もラディスも、みんな、ずっと戦ってる。自分の事なんかそっちのけで、平気で人を踏みにじる人達も大勢いるっていうのに…。実際に歯を食いしばって両手を伸ばして戦っている人に、僕は偉そうな事を言うつもりはありません」


そこまで言って、リィンはごしごしと腕で涙を拭った。


「…そうか。お主がそのように思うていてくれるならば、我は決してそれを裏切らぬ。信じよ。我の命のある限り、この戦いは止めぬと誓おう。どんな脅威や誘惑にも屈せぬと宣言しよう。

 リリーネ・シルラの第一の使徒、シャウナルーズ・ルメンディアナは、その生涯を既に捧げておるのだからな」


シャウナルーズは毅然と告げ、また目を閉じて静かに語り出した。


「最後に一つ。それはリィン、お主の父、ティルガの事だ。十八年前の奴隷解放宣言の経緯はお主も知っておろう。お主の父母の話だ。その当時レーヌ国の女帝を務めていたのは我の先代、トゥーラ・ザグナンドという女性であった。

 お主の父、ティルガに医師の認定を渡したのはこのトゥーラだ。しかし彼はレーヌの大学校でその医学を学んだ訳ではないようだ。当時の記録を見ても、そのような学生の名が残っておらぬ。あの当時はレーヌを持ってしても、奴隷であったイリアス族の入学を認めてはいなかった。彼に医師の認定を渡す事さえ前例のない一大事であっただろう。おそらくは別の土地で、飛び抜けて優秀な一級の名医の元で薫陶を受けたに違いないと推測する」


トゥーラ・ザグナンドは賢明な女帝であった。代々続くレーヌ国の女帝として恥じぬような偉業を数々打ち立てていった程だ。しかし、晩年になるとその手腕に陰りが見え始める。

不治の病に冒されたのだ。

その頃から少しずつ何かが崩れ始めていった。一国の王とはいえ、所詮は弱き人の子である。金を積まれるままに医師の認定を渡し、正しく進言する者は遠ざけられ、媚びへつらう狡賢い者達を傍へ集めるようになった。トゥーラは死の恐怖に心を食われてしまったのだ。

当時シャウナルーズも大学校の役員として仕えていたが、ある日突然に解雇を言い渡された。


このレーヌの女帝に届いたティルガからの嘆願書は、残っているものだけでも全部で九百六十四通にまでに達する。何という膨大な、命の叫びであろうか。トゥーラは我が身の可愛さ故に、それを全て無視し続けた。今もってなお絶大な権力を有しているルキリア族の脅威を恐れ、血の滲むようなイリアス族の訴えを、黙殺する事を決めたのだ。


「おそらくは…。もっと早い段階でトゥーラが正しい決断を下していたならば、お主の父は死なずに済んだであろう。前女帝はルキリア国王へ書状を出した後、すぐに以前の枢機議会の面々を招集し次の女帝を指名した。そしてその夜に自ら命を絶ったのだ」


「…そ、そんな…」


「外へは病死としておる。…リィンよ」


ゆっくりと瞼が開かれ、緑に輝く瞳がリィンを射抜いた。


「トゥーラを最期に救ったのは、お主の父、ティルガだ」


静まり返った大聖堂の中に、凜とした女帝の声が響いて染み込んでゆく。


「このレーヌにいた我々ではなく、嘆願書の一筆一筆が、トゥーラの心を生き返らせたのだ。狂った心に直接訴え、響かせ、その命までをも変えた」


シャウナルーズは深く息を吸い込んで円天井を見上げた。


「その後の自殺を止められなかったのは、我らの過失である。リィンよ、だからこそ我は、お主に謝らなければならぬと思うておったのだ。だからこそティルガは、レーヌ国では英雄と呼ばれておる」


「…僕は、その事について語る言葉を持っていません…」


リィンは僅かに俯いて、力無く首を振った。


昼夜を問わずに筆を走らせ続けた青年。その赤茶の瞳には悲痛なまでの力強い光が宿る。何度でも、何度でも筆を取り書き続ける。薄暗いランプの灯の下で。夜明けの鳥が鳴く頃まで。腕が動かなくなるまで懸命に書き続ける。どれだけ届かなくとも、どれだけ破り捨てられようとも、命を削る思いで綴り続けた。この世界で唯一の、揺るがぬ良心と信じているあの国の主へと。

その手紙を受け取った年老いた女性。

長い年月をたった一人で戦い続け、国を支え続けた女性。その死の恐怖に心が折れてしまった彼女の指先が、わなわなと震え出す。幾度破っても、幾度燃やしても、自分の名宛てで届く手紙。

寝台を照らす小さな灯りの元で手紙を掴んでいる指が震えている。しわの寄った手の中で、ぐしゃりと紙きれが無抵抗に潰された。ベッドのシーツの上に、次々と涙が落ちてゆく。

慟哭。

彼女はそのまま前のめりに泣き崩れる。その丸まった背が、全てを物語る。


「僕が言えるのは…ティルガは、英雄なんかじゃないんです。罪人でもない。僕の、父です」


「リィン」


「僕はずっと覚えていようと思うんです。父様や母様、僕を支えてくれた人達の事を。僕は弱いけれど、でも生きていこうと思うんです。それが後に残された僕が為す事であるから。

 それに…そうやって僕の父と母と、当時のイリアス族の人達が、死にもの狂いで戦って手に入れた人権は、結局は幻みたいなものだったんだ…。現実はそんなに甘くない。だけど、生き残ったイリアス族として、僕は負けずに生きていきたい」


そう告げて、リィンは真剣な表情でシャウナルーズを見つめる。


「…リィンよ。誇り高きイリアスの子。やはり我は間違っていなかったようだ…。お主にこの話をするのを最後までためらっておった。お主にいらぬ枷を嵌めてしまうのではないかと逡巡した。何と強い子だ」


「ぼ、僕、そんな上等な人間じゃないんです…」


「構わぬ。お主は人として、ただ愚直であれ。それがお主の父母の願いだ」


女帝はにこやかな笑みをリィンに向け、二人はこの時初めて笑い合った。


「して、ここからが本題だ。リィン、お主は自分の『力』の事を知っているか?」


どきりとする。

リィンは瞬時に察した。女帝はイリアス族の持つ特殊な『力』の事を指して言っているのではなく、あの『力』の事を言っているのだ。自分の身体が青白く光り出したあの現象。まさかこのレーヌの女帝が、その答えをくれるというのだろうか。


「…詳しくは知りません。でも、何か、僕には特別な『力』があるみたいだ」


「やはり…。あやつは話しておらぬようだな。お主の母も伝えなかった事だ。おそらくは生涯伝えぬつもりでおるのかも知れぬ」


驚いて女帝を見上げる。やっぱり…。


「ラディスは知ってるんですね…」


「ああ。お主のあの『力』は何より、その父、ティルガから受け継いだものである。イリアス族の中でも、あの『力』を有している者が他にいるか定かではない。類い稀な、驚くべき『力』。それを持つお主自身が知らぬというのは、我は違う気がするのだ。だからこそ、お主の家族、そしてラディスが隠している事でもあえて伝えようと思うておる」


リィンは背筋を伸ばし、シャウナルーズの言葉に耳を傾ける。


「我の話を聞き、考え、今後どうしてゆくかはお主自身が決めるとよい」



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