072:勇敢なる瞳
日が落ちて辺りはすっかり暗くなっていた。待ちくたびれて、ルセロが椅子に座ったままうたた寝をしている。その肩にそっと手を置いて囁いた。
「さあ、王子様のお出ましよ。ルセロ」
「ふあ…。随分と忙しい王子様みたいだね。こんなにお姫様を待たせるなんて」
玄関口まで迎えに出ていた子供達が勢い良く部屋の扉を開いて走り込んで来た。その後ろからすらりとした長身の彼が現れる。白のブラウスは肘まで捲り上げられ逞しい両腕がのぞく。黒のベストに黒のスリムなズボン、茶革の長靴。確か医者をしていると聞いていたが、その体躯は細身ながら軍人のように鍛え上げられていた。薄茶色のぼさついた髪に、青い瞳。その奥が金色に輝いている。
「初めまして、ラディス。私はイリアス族のレドナ。こちらはルセロよ」
「よろしく」
ルセロが彼に微笑む。ラディスは優雅な笑みを浮かべて一礼を返した。
「どうやらお待たせしてしまったようだ。申し訳ない」
「まあ…。勘の良い方ね、話が早いわ。子供達、二階に上がっていなさい」
はあい、と可愛い返事をして子供達が部屋を去って行った。ルセロがゆっくりと扉を閉めて席を勧める。彼はレドナと向かい合うように席についた。
「はっきり言うわ。リィンは返しません。あの子は私達と一緒にここで暮らします」
「リィンはシルヴィとティルガの子だ。僕らイリアス族にとっても、大事な娘だ」
「…なるほど。リィンを拉致した理由はそこですか」
「人聞きの悪い。あなたの傍は危険すぎます。私達が何も知らないとでも?」
「ならば知っているはずだ」
「そうだね。だからリィンを拉致したんだ」
レドナの後ろに控えているルセロが言った。
「ルセロ」
「レドナ、この人の言うとおりだよ。リィンを説得出来なかったから、あなたに頼みたいんだ。リィンにここに残るように言ってくれないか?あの子はここに居た方が幸せだ」
ルセロが睨みつけるように、ラディスに鋭い視線を投げた。対する彼は上手に口角を持ち上げて笑顔を作る。思わず見惚れてしまう程の、美しい青年。
「俺はイリアス族を決して裏切らないと誓約を立てた身です。…しかしなあ、それは飲めない頼み事だ」
「何故?簡単な事でしょう?」
レドナが首を傾げて微笑んだ。茶の巻き髪が肩で揺れる。
「あれはやっと見つけた女だ。簡単に手放す訳にはいかない」
青い瞳が、射抜くような視線を寄こす。ルセロが乾いた笑い声を上げた。
「交渉決裂、だね」
二人のイリアス族の瞳が、深紅に揺らぎ始める。みしり、と床が鳴った瞬間に、ラディスの身体は背後に吹き飛ばされた。壁に打ちつけられ、そのままずるりと崩れ落ちる。彼は盛大に咳き込みながら身体を折り曲げて苦笑を洩らした。
「…イリアス族は温厚な民だと思っていたがな…」
「時と場合によります。ラディス、リィンから手を引くと言いなさい」
片手を床についてラディスが二人を見上げる。
「断る」
ずん、と彼の両肩にまた重圧を加える。ラディスは音を立てて両手を床についた。その腕ががくがくと震えている。『力』をこれだけ加えているのに、まだ耐えるというのか…。彼は心も身体も、強靭なものを持っているようだ。
「さあ、あなたはもう気を失いますよ。あなた一人のエゴにあの子の人生を巻き込まないでください。お願いです、あの子を私達に返して。リィンはあなたの恩人の、ティルガの娘なのですよ?」
「それが、どうした…」
みしみしと彼の両手が床にめり込んでゆく。手加減はしていないはずなのに、まだ耐え続けている。
ラディスが咳き込んで血を吐き出した。
「あなた方の、覚悟も分かるが…こっちだって、相当の覚悟であいつに、手を出したんだぜ…」
口の端から血を流し、青い瞳の青年はレドナを睨みつける。薄茶色の髪が乱れて顔にかかり、その揺るぎない眼光に怯んでしまいそうになる。
「あいつは、俺が…命をかけて護る。心にもない事を言うくらいならば…、ここで死ぬ方が、本望だ」
レドナが深く息を吐き出して『力』を収めた。ルセロが彼女に顔を向ける。
「レドナ…良いの?」
「これ以上しては、本当に彼を殺してしまうわ。…何て頑固な人なのかしら」
ラディスは激しく咳き込み、ふらりと立ち上がった。
「…イリアス族が話の分かる優しい種族で、本当に良かった。そうじゃなかったら、俺は何度も死んでる」
彼の軽口に二人のイリアス族は顔を見合わせて笑った。
「乱暴な事をしてごめんなさい。ラディス。あなたを信じます。私達の大事な娘を、お願いね」
レドナが立ち上がって長身のラディスを見上げて右手を差し出した。二人は握手を交わす。
「驚いたよ。伝説って言われるような人って、やっぱり変わってる。ごめんね、痛かったろう?」
ルセロがおどけたような笑顔を向け、ラディスも荒い息を整えつつ笑顔を返した。
「それから…リィンはあの『力』の事を知っているのですか?あの子にも父親のような『力』が?」
「…まだ、告げていない。しかしリィンは俺を選んだ。あいつにもあの『力』がある」
言葉を失うレドナとルセロ。数秒の沈黙の後、レドナが震える声で呟いた。
「そう…。何故それを先に言わなかったの?ラディス」
「言う前に吹っ飛ばされた」
彼の答えに、自然と笑みがこぼれる。
シルヴィ。あなたの娘が選んだ男性は、とても強い人だわ。全く、呆れちゃう…。
あなたたち親子って、ほんとにそっくりだわ。
◇◇◇◆
肩で息をしながら、眠っているリィンを抱えてやっと大学校まで帰って来た。さすがに馬車を断ったのはやせ我慢だった。彼らは本当に本気で、自分に向かって『力』を放っていたようだ。どうやら肋骨が折れている。もしかしたら数本…。
「…ん。あ、あれ!ラディス?」
リィンが目を覚まして声を上げた。自分が抱えられているのを知って驚いたようで、腕の中でじたばたとする。途端に激痛が走った。
「ま…待て待て、暴れるな。今下ろすから…」
リィンを部屋の壁際にあるチェストの上に下ろして息を整える。
「…何で棚の上なんだよ。人を荷物みたいに」
むっとした声が降ってきた。ラディスは壁に両手をついて俯いて言葉を絞り出す。
「お前は背が低いからな…この方が話しやすい」
「あんた、汗かいてる。まさかまた怪我してるの?どうしたの?」
心配そうな瞳を向けて、リィンが顔をのぞき込んできた。
「参ったな…かなり痛い」
「おい、大丈夫かよっ」
ラディスは笑った。
「リィン、お前は不幸な女だな。もっと苦労せずに、幸せに生きていけただろうに…」
「…何だよそれ。僕に喧嘩売ってんのか」
リィンのドレス姿を見て、心底そう思った。こいつは自分の傍にいなければ、こうやって女性として着飾る事が出来るだろう。その美しい容姿で男達を魅了させてやるのだ。楽しく会話をしてプレゼントをもらい、話題の劇を観てその感想を語り合う。旨いものを食べて真っ白なベッドで眠りにつく。このレーヌでなら、それが出来る。それで良いじゃないか…。それが幸せというものだ。
その全てを奪って良い権利が、この俺にあるのか。
「ラディス、どうしたの…」
同じ目線にある赤茶の瞳を正面からじっと見つめる。徐々にリィンの頬が赤く染まってゆく。ラディスは静かに顔を寄せてリィンに口付けた。
愛おしい。
自分にこんな感情がまだ残っているとは思わなかった。自分は気付かなくても良いところにまで、気付いてしまう。
たとえば、モドの目はもうすぐ見えなくなるだろう。それは彼自身も気付いている。
暴かなくても良い嘘まで見破ってしまう。知りたくもない人の本音が見えてしまう。だからこそ恋愛になどは興味もなかったし、それは全て幻想だと思っていた。今でもそう思う。大抵はうぬぼれと自己愛と傷のなめ合いだ。
「…ん、や、やめろってばっ」
リィンが両手でラディスの頬を挟んで顔を離した。浅く息をしながら睨んでくる。
「そ、そうやって毎回ごまかしやがって…!」
「…何だその言いがかりは」
「あんた、間違ってるよ」
真っ直ぐにこちらを見つめる力強い視線。赤茶の瞳。綺麗だ、と思う。
「言っただろ!?僕は地獄の果てでもついていくからな!あんたが何と言ったって、絶対に!!
…苦労とか幸せとか、僕には分かんないよ…。そんなのどっちだって良いんだから」
耳まで真っ赤にしながら、リィンは必死になって言葉を紡ぐ。
「ラディス、…あんたを護るのは、僕だろ?」
ラディスは穏やかに微笑んだ。
「…随分と頼もしいボディガードだ」
「それにしてもおかしいな…。どうして眠っちゃったんだろう。せっかく同じイリアス族の人達と会えたのに」
「ふん。またレーヌに来たら良いだろう」
「ちゃんとお別れの挨拶もしてない」
「俺が代わりにしといてやった。ビーダの腕輪もすぐに実用化されそうだ」
「そうなの?」
もう一度キスをしようと顔を寄せた時だった。豪快にリィンの腹の虫が鳴いた。一瞬呆気にとられ、じわりと笑いが込み上げてくる。
「わ、笑うなよっ!仕方ないだろ!お昼もちょっとしか食べてなかったし…」
なるべく静かに笑おうとするが、どうやっても肋骨に激痛が走る。
「くっ…てて。お前、俺を殺す気か」
そうだな。このまま死ぬのも悪くない。
リィンが不機嫌な声で呟いた。
「あんたっていじわるだな…。知らなかった」