069:恋
翌日からソアはレーヌを離れラディスの診療所へ行く為の準備や引き継ぎ等の作業で、途端に慌ただしくなった。ゲムの村を襲ったヒト型のイグルの件をリィンから聴取し、報告書を書き上げ、二人で校舎内の長い廊下を歩く。
「診療所には通いで働く二人の女性がいると聞いているが」
「うん。チェムカとニコルっていうんだ。とっても優しくて、強いよ。そういやラディスの周りにいる女の人達って、みんな強いな…」
「私はうまくやれるだろうか」
ソアにはその辺りが少し心配だった。自分は俗に言う女の世界には、疎いし鈍感である。そう自覚はしているのだが、どう頑張ってもなじめない。
隣を歩くリィンがこちらを見上げて微笑んだ。
「大丈夫だよ。ソアってとても素直な人だから」
「…照れるな。そのように言われるのは初めてだ」
リィンは感情の豊かな女性だ。イリアス族にしてはとても珍しい。彼らは特殊な『力』を持っている為に、感情をコントロールする術に長けている。常に平常心を忘れず冷静で、物静かな印象だ。
解放の女神と謳われた女性と、人権を勝ち取る為に命を落とした英雄との子。クレイからの手紙を読んで皆驚いたものだった。あの、ラディスの診療所にその子供が姿を現したと知った時には、何らかの運命を感じずにはいられなかった。その頃からずっと会ってみたいと思っていたのだ。
リィンは飾らず真っ直ぐな性格で好感が持てる。イリアス族として迫害と差別が渦巻く壮絶な日々を生き抜いて来ているのに、少しも捻じれた部分がない。その赤茶の瞳で、正確に人の本質を見定める。
ドレスを着た時は美しく洗練された女性にしか見えなかったが、普段の格好だと線の細い少年にしか見えない。
「ニコルの野菜スープは最高に美味しいんだ。…あ、」
中庭を挟んで向かいの廊下に面した部屋から、ラディスとクレイが数人の研究員とともに出てくるのが見えた。彼はビーダの腕輪の研究も、更に前進した結果を持ち込んで来てくれた。実用されるまであともう少しだろう。今後はここでその研究も引き継ぐ予定である。
リィンが向かいの廊下に向かって、大声を上げた。
「ラディス!」
その声に手元の資料に視線を落としていたラディスが顔を上げた。クレイや研究員達も何事かとこちらに視線を向けている。
「僕はあんたの護衛だっ。あんたを護るのはこの僕だ!地獄の果てまでついてってやるからな!覚悟しろ!」
その場の全員が、一瞬呆気にとられて固まった。それから声をかみ殺すように研究員達が笑い出し、ラディスがしかめっ面をして片手をひらひらと振った。向こうに行けと言っているようだ。
「ふん。僕を甘く見てるからだ」
そう言うリィンの顔は真っ赤である。ソアは笑った。こんなにストレートな表現の仕方があったのか。
何て、強い。
◇◇◇◆
「まったく…。酒でも飲んでいるのか、あいつは」
クレイは笑った。研究員達と分かれ、次にモドの部屋へ向かう途中である。
「…ラディス様、本当にソアを連れて帰るのですか?」
目の前を大股で歩く長身に向かって声をかける。
「ああ」
聞かなければと思っていた。彼が診療所を自分に任せるという事は、彼がルキリアの帝都ベイルナグルを離れるという事だ。クレイには時期尚早のような気がしてならない。まだ様々な問題がそのまま残っているのだ。彼の提案する新しい診療システムに賛同し、提携する診療所や病院は確かに増えてきている。貴族や皇族の中にも味方が生まれ、何より共に歩む人々も力をつけ始めているのだ。今までラディスに守られてばかりだった人々が自ら考え、自発的に動くまでに成長している。しかし…。
ルーベン司教とその信者による弾圧も、皇族トワ妃による脅威も以前のままだ。
ラディスという大きな柱を、今この時点で失っても良いものだろうか?
ラディスが立ち止まり、振り返って言った。
「もう全ての布石は打ち終わっている。会社はエンポリオとワドレットがいれば十分だし、診療所にはお前がいる。往診で診ている患者達の事もロンバートの病院にいる若い医師達に頼んでおいた。あそこもベルシェがいれば大丈夫だろう。
…おそらくはこの先の道筋が決定するような出来事が、これから起こる。お前の不安も無理はないがな、時は待っちゃくれないんだぜ。迷ったり躊躇していたら機会を逃す。ここからが正念場だ」
≪黄金の青い目≫が、静かにクレイを見据えている。クレイは緊張を高めた。
これから、何か重大な出来事が起こるという事なのだろうか。
「それより、クレイよ。お前はソアをどうする気だ」
突然話の矛先を向けられ、どぎまぎする。
「ど、どうと申されましても…」
クレイは冷や汗をかきつつ必死で言葉を探す。
「私は…ソアはこのレーヌに置いていた方が良いかと思います。あれは優秀な人材です。シャウナルーズ様のお傍にお仕えさせるのが一番良いかと…」
「あいつはお前と暮らしたがっているんだぞ?」
「し、しかしソアはレーヌ国にとって必要な人間です。自分ごときの傍にいるよりも、もっと意味のある生き方が…」
「…言い方が悪かったか。お前はソアをどう思っているんだ」
「はあ…。とても素晴らしい女性だと思います。テンペイジ議長にも太鼓判を押された聡明さで…」
ラディスがゆっくりと息を吐き出しながら首を振った。
「そうじゃない。お前は、どう思っているかと聞いている」
クレイは言葉に詰まった。ずっと思っていた。
ソアは聡明で賢く、剣術にも長けている文武両道の女性で、女帝も信を置く程の人材である。それに数年ぶりに見た彼女は、とても美しい女性に成長していた。そんな彼女を自分の助手として使うのはどうかと思うのだ。
「私にはもったいない女性です。他にふさわしい相手がいるかと思うのですが…」
クレイは僅かに俯き、小さな声で呟いた。どうもこういう話は苦手である。
「俺には、お前にはあいつしかいないと思うがな」
「え…」
「お前のように神経質で面倒くさい男を相手に出来るのはソアしかいない」
ラディスはクレイを射るように見つめ、きっぱりと言い切った。
「お前が心を許している女はあいつだけだろう。ソア以外に同じ部屋で眠れる相手が他にいるか?」
「そ、それは…」
クレイはみるみる顔を赤く染めてゆく。
「お前の謙虚さは時に残酷だ。お前がそれ程言うんなら、あいつはここに置いていくぞ。良いんだな?」
「し、失礼しますっ」
ラディスの問いに答えず、逃げるように踵を返して廊下を引き返してゆく。
昔から苦手だった。欲しいと思ったものに、後先を考えずに手を伸ばす事が自分には出来ない。前後の事を考え、周りに支障をきたさないようにするにはどうすれば良いかと無意識に考えてしまうのだ。それは幼い頃から、レーヌの女帝に仕える為に施された教育によるものだろう。生まれて初めて自分の求めるままに動いたのが、ラディスを自らの主と定め、彼の傍に仕えると決めた事だ。
私は…。ソアをどうしたいのだろうか。
◇◇◆◆
「リィン、あなたに来客があったようだ。呼んでくるのでここで待っていてくれ」
そう言い置いてソアが校舎の中へと消えていった。自分に来客なんて何かの間違いじゃなかろうか。レーヌ国に知り合いはいない。大学校の巨大な玄関口で佇んでいると、遠くからミッドラウが片手を上げてやって来るのが見えた。
「何であんたがここの制服着てるんだ」
彼はどこで調達したのか大学校の制服を着ている。深緑の立襟が、凛々しい面立ちに良く似合っていた。
「これか?レーヌの恋人が俺にプレゼントしてくれたんだ」
得意そうに胸を反らせる彼を見上げて、リィンは呆れた。
「…何人恋人がいるんだよ」
ミッドラウが無遠慮にリィンの肩に腕を回して声をひそめる。
「んな事より、どうだ、ヤったか!?」
瞬間にリィンの顔が真っ赤になり、慌てて彼の身体を押し返して怒鳴った。
「何言ってんだよっ!ミッドじゃあるまいし、ラディスがそんな事するわけないだろっ!」
彼は唖然としてリィンを見下ろし、それから面白そうに顔をゆがめた。笑うのを我慢している。
「…それに、そういう関係じゃない」
リィンは少し俯いた。何せ昨日は自分が勢い余って告白してしまっただけなのだ。ラディスの大事なひとがユマだと勝手に思い込んでいて、それが勘違いだったという事実が分かった他には何もない。彼が誰を好きなのか分からないし、自分をどう思っているのかも分からないままなのだ。
ラディスが自分なんかにキスをしたのも酔っ払っていたせいだからで、きっと覚えていないに違いない。
そう思うと少し気分が落ち込んでしまう。今朝だって彼は普段と何一つ変わらない態度だった。
「こりゃあ、世話が焼ける…。どうやら問題はこっちにもあったみてえだな」
ミッドラウがリィンの細い両肩に手を置いて、背の低いリィンと同じ目線になるように屈んだ。
「すまんなリィン、どうやら俺の早とちりだったようだぜ!」
「何?」
訝しげに睨むリィンに、にんまりと笑顔を向けて運び屋は陽気に言い放った。
「お前はまだまだ子供だ!ガキだ!おこちゃまだ!」
「何だとっ」
素早くリィンの白い頬にキスをしてミッドラウはからからと笑いながらその場を去っていった。何故だか思い切り馬鹿にされたようで、むっとしてその後ろ姿を見送る。
「リィン」
ソアが一人の青年を連れてやって来る。リィンは息を飲んだ。
「紹介しよう。こちらはイリアス族のルセロ。このレーヌの首都で暮らしている」
ブラウンの短髪に白い肌。赤茶の瞳がリィンを見つめている。白のブラウスに黒のズボンで、背はソアよりも少しだけ低い。
「初めまして。あなたにお会いする事が出来て、とても嬉しい」
ルセロが穏やかな笑顔を向けて片手を差し出した。久々に同族の人間に出会えた喜びで、リィンは嬉しさで声が詰まった。固い握手を交わす。
「ソア様、リィンを他の皆にも会わせてあげたいのですが、町へ行っても?」
ソアがリィンに視線を向けた。
「僕も、イリアス族の人が他にいるなら、会いに行きたい」
「よろしい。では馬車を用意しよう。ここからなら馬車で行けばすぐだ」
「良かった」
ルセロがまたリィンを見下ろす。
やっと会えた…。自分と同じ瞳の色。懐かしく優しい温もりがリィンの胸を満たしていった。