006:町はずれの診療所
目が覚めた時、リィンは見知らぬ部屋のベッドに寝かされていた。上体を起こし辺りを見回す。日が高い。昼過ぎくらいだろうか。部屋の中はリィンが寝ていた大きなベッド、作り付けのテーブルに椅子が一脚、壁側には大きな本棚にチェストやクロゼット、姿鏡が並んでいた。豪華ではないが、品の良いものが置かれており、ベッドも柔らかく心地が良い。開け放たれた窓から優しい風が吹き込んできた。
リィンは声もなく泣いていた。
ゼストが死んでしまった。
自分は、人を殺した。
悲しみと憎しみに捕われ、人を刺し殺した。
いくらあの目を持った皇族だといっても、あの医者はイリアス族と知りながら治療をしてくれたのだ。
それにここへ来る事を決めたのはゼストだった。
それまではいくらリィンがせがんでも、この地、帝都ベイルナグルには近づこうともしなかったのに。
殺してしまった、人を。
あの嫌な感触が蘇る。
取り返しのつかない事をしてしまった。あれ程、ゼストに人を傷つけてはいけないと言われていたのに…。
その時、部屋の扉が開いて誰かが入ってきた。その人物を見て、リィンは大きな瞳を更に大きく見開いて絶句した。
「ゆ、ゆうれ…」
「勝手に殺すな」
ブラウスに黒のズボンに編み上げ靴、丈の長い上着を着ているが、袖は腕まで捲り上げられている。確かにリィンが腹あたりを刺したはずだが、弱々しい雰囲気を微塵も感じさせない、飄々とした態度でラディスがそこに立っていた。
「生きて…?」
「当たり前だ。あの程度じゃ人は死なない」
良かった、と胸をなで下ろし安堵するのも束の間、リィンはまた身体を硬直させた。ラディスが近付いてくる。
「く、くるな」
リィンは相手を拒絶しようと睨みつけた。しかし何も起こらない。リィンは混乱し驚愕の表情を顔に張り付け、自らの両手を見つめる。いつもと違う、しかしそれが何故だか分からない。『力』が出ない。
「どうして…」
「精神的な強いショックと極度の疲労のせいだ。一時的なものだから安心しろ」
思いのほか近くで声がして顔を上げると、すぐ傍にラディスが立っていた。リィンが状況が飲み込めず呆然としている間にも、ラディスは懐から小型の時計を取り出して、空いている手でリィンのその細い腕をとり脈を測る。顎をつかみ口を開かせ見分し、首に指を押し当ててゆく。
「まあだいたい健康だ。もう丸三日も寝っぱなしだったからなあ」
そう言いながら彼はリィンの頬に触れ、流れた涙を拭った。
「三日も…」
ラディスは上着のポケットから麻で編み上げられた小包みを取り出し、リィンの手の平に乗せた。長方形でリィンの両手と同じくらいの大きさ。それほど重さはなく、ボタンがついていて今は閉じられている。中に何かが入っているようだ。
「今の時期は一日でも置いておくと大変な事になるから。申し訳ないが、弔わせてもらった」
その言葉にリィンはどきりとする。両手に収まる程の小包みをじっと見つめる。ボタンで留められた口を開き、ゆっくり傾けると、するりと中身が姿をあらわした。銀に輝くピアスと、コルクで蓋がされてある小瓶。小瓶の中には真っ白の欠片が入っている。
どちらも、ゼストのものだった。
「他の遺品はそこのクロゼットの上だ。すまなかったな」
そう言ってラディスは俯いたままのリィンの頭に手を置く。リィンはぽとりと涙を落して首を振った。
「いいんだ。これで十分だ。ありがとう。色々、ごめん…」
ラディスはふっと短く息を吐き、歩き出す。
「あ、あの」
身体は大丈夫なのだろうか。
自分が傷つけてしまった相手に、何と声をかければ良いか逡巡している間に、長身の医師はどんどん遠ざかってゆく。
「着替えたら下の居室に行け。ニコルがいるから何か食わせてもらえるだろう」
扉を半分開いたところで思いついたように振り返り、ラディスが言った。
「それと言っておくが着替えは俺がした。気づいて暴れられたら大変だからな。安心しろよ、俺は医者だ。裸なんて見慣れてる」
そこまでぼんやりと聞いていたリィンははっとして、急いで自分の身体を見た。いつものブラウスと緑のベストではなく、見慣れないものを着せられていた。前合わせで羽織る丈の長いローブのようなもので、腰に紐がついていて、へそのあたりで結ばれている。常に上半身に巻きつけていた布もなければ、ズボンも履いていない。リィンはようやく自分の姿を確認し、同時に顔を真っ赤にして叫んだ。
「うわあっ」
ばたん、と扉が閉じられた。
◇◇◇◆
着替えを済ませ階下へ降りる。正面にある玄関は開け放たれ、人の話し声や子供の歓声でざわついていた。向かって右側の奥へ続く通路には、壁際に長椅子が並べられ、そこに様々な年齢層の、多種多様な種族の人々が座っている。労働者風の男性もいれば、小さな子をあやす母親や、身なりからして富裕層であろう女性も澄ました顔をして、しかし同じ長椅子に座っている。
廊下をパタパタと小さな子供が走ってゆく。それを注意する母親の声。誰もリィンには気づいていないようだ。
「ポラントさーん。お入りくだせえ」
北方訛りの女性の声が響く。
廊下の先に扉が一つ、その右側にも扉が見える。正面の扉が開き、そこから灰色の髪を三つ編みに結わえ、右肩に垂らした女性が顔をのぞかせた。あの扉の先には確か診察室があったはずだ。という事は、ここに溢れる人々はあの医者の診察を受けにやって来ているのだ。リィンは驚いていた。旅先で聞いた話では、闇医者といった言葉が合っているような印象であったからだ。
あらゆる人種の診察をし、時にはイグルに襲われた人間も診るという医者なんて、どこを探しても見つからない。特にイリアス族では診察を拒否される事の方が多いし、他の種族でもその人物が就く職業や身分によっても差別される事が当たり前なのだ。それ故医者と名乗る者は偉ぶって横柄で、その割には医術に長けていない者ばかりであると言って良い。だからこそどんな人間でも診ると聞いた時には、いかがわしい人物を想像したのだった。それがこの実情を見て驚いた。なんと、堂々と診療している。しかもあらゆる人種の、身分も違う人々が皆平等に順番待ちをしているのだ。目を疑うような光景である。
イリアス族の事にも詳しいと聞いて、ゼストは会ってみたいと言っていたっけ。
リィンは皆に気づかれないように、そっと反対側の廊下を歩き、目の前の扉を開いた。すると美味しそうな匂いが部屋中に満ちており、途端に今にも倒れそうな程の空腹に襲われた。左側の台所でニコルが振り返り笑顔を向けてきた。
「まあ、よく眠ってたわねえ!まずは腹ごしらえね。さあ席についてちょうだいな。もう用意は出来てるから」
右側には大きなテーブル席に色々な料理が並んでいた。遠慮がちにリィンが一番端の席に着くと、湯気の立っている温かなスープを運んできてくれた。
「どれも消化に良いものばかりだから大丈夫だと思うけど、あんまりたくさん食べたらいけないよ。ちょっとずつね」
「ありがとう。どれも美味しそうだ」
にこにこと微笑むニコルを見て、リィンも自然と笑顔になる。こんなにしてもらって申し訳ないと思いながら、遠慮して手をつけずにいたら余計に悪いと感じ、とりあえず目の前のスープを口へ運んだ。
とろみのあるスープには色とりどりの野菜が入っており、どれも柔らかく火が通っている。野菜のうま味が溶け出したそのスープの味は、今までリィンが食べてきたもののどれよりも優しく、美味しかった。
「美味しい…」
「ニコル自慢の野菜スープだからね。それに栄養満点なのよ」
次々と口へ運ぶ。身体が生き返ってくるような感じがして、同時に瞳から涙があふれた。リィンはそれでも、涙を手で拭いながらスープを口へ運ぶ。
「まあまあ、泣くほど美味しいのかい」
ニコルはそう言いながら、リィンの背中をいたわるように優しくさすった。




