068:溢れる夜
真夜中、リィンは肌寒さにうっすらと目を開けた。一瞬で眠気が吹っ飛ぶ。
「おい、向こうにベッドがあるだろっ!うわっ。酒くさっ!」
自分のベッドに入って来ようとしているラディスを両手で押し返した。そんなリィンにお構いなしに彼は片手でシーツを持って、覆いかぶさるように迫ってくる。
「何を今更。いつも同じベッドで寝ているだろう」
「だったら隣で寝ろよっ」
両手を突っ張ってラディスの肩を押さえ、思い切り睨みつけながら言い放った。
部屋には暗くランプの灯が入っていて周囲は温かな木の色をしている。
「それに!僕は怒ってんだからな!どうして何も教えてくれなかったんだよっ」
ラディスは無言でリィンを見下ろした。青い瞳が潤んでいて、その奥の黄金色が滲んで見える。僅かに頬も赤く、どうやら相当飲んでいるようだ。普段とは違う雰囲気に鼓動が早まってゆく。
くそっ…静まれ、僕の心臓。
ラディスはおもむろに手を伸ばし、リィンの栗色の髪を梳いた。
「俺にも迷いや恐れっていう感情はあるんだぜ、人間だからな…」
「…え」
「あんな面倒な話をして、お前に逃げられたら困る」
言葉の意味が掴めず、呆けたまま彼を見上げた。ラディスはゆっくりと距離を縮め片肘をついて、もう一方の手でリィンの小さな手を掴み、その白い指先に口づける。リィンは瞬間に硬直した。
「それになあ、あれは人生最大の大失敗だ。あの契約を交わした時、俺は世間知らずのガキだった。ここの女帝は年端も行かない子供を言いくるめて言質をとって脅してくる。恐ろしいな」
「…年端も行かない子供が、密入国なんかするかよ」
リィンが真っ赤な顔で反論した。ラディスは笑いながら、掴んだままのリィンの指に自分の長い指を絡めて、静かにベッドへ沈める。彼の美しい顔が、すぐ目の前に迫る。じっと何も言わず見つめ合う。
「ラ、ラディス…。あの…何か、おかしくないか…こ、これ」
リィンはしどろもどろになりつつ口を開いた。しかし彼は言葉を発さず真っ直ぐにこちらを見つめている。鼓動が高鳴る。彼から視線を外す事も出来ずに見入ってしまう。絡めている指先に汗をかいてしまいそうだ。恥ずかしい。リィンはゆるゆると目を閉じる。
何か変な雰囲気だ。何か話さなければ。ええと…。
「の、飲み比べって、誰が勝ったの…」
しまった。一番気にしていた事を、真っ先に言ってしまった。
自分の馬鹿正直さに泣きそうになる。
「俺が負けると思うか?」
ラディスの囁くような声に、おそるおそる瞳を開けた。彼の視線とぶつかり呼吸が止まりそうになる。リィンは掠れた声で呟いた。
「じゃあ…」
「お前は…俺のものだ」
ラディスが、柔らかく微笑んだ。
だめだ。これ以上見つめていたら…僕は。
リィンは固く目を閉じて顔をそらした。
「リィン」
「ずるいよ、こんなの…」
顔が熱い。きっとまた赤面している。リィンは必死で言葉を紡ぎ出す。
「あんたにとったら、こんなのどうでもない事だろうけど…。ぼ、僕は…」
本気で怒れるわけがないのだ。全てを許してしまう。それにこんな風にされたら、自分が女性である事を思い出してしまう。リィンの全身の細胞が、ラディスが好きだと叫び出す。普段抑え込んでいる気持ちがあふれて、口に出してしまいそうになる。そんなの、辛い。
彼は自分をからかっているだけなのだから。
「ユマが、いるのに…」
ユマがいるくせに。
「…くっ…」
はっとして目を開く。あろう事か、ラディスは俯いて声を出さずに笑っていた。肩が震えている。ひどすぎる。
「ひ、ひどっ…」
「どうもおかしいと思っていた。…お前、何か勘違いしてないか?」
次に続くであろう残酷な言葉に身構えた。お前をからかっているだけなのに、本気にするな。
「ユマは俺の妹だぞ。どうしてそんな事になるんだ?」
くくく、とまた笑った。リィンは訳が分からないまま、むっとした声で言い放つ。
「でも血は繋がってない!」
「ユマも俺も、お互いをそんな対象に見た事なんて一度もない。俺は常識的な道徳心を持っているつもりだがな。…いや、そうとも言えんな。恩人の娘に手を出すくらいだ」
「だ…だって、でも…」
「誰に吹き込まれたのか知らないが、言っておいてやろう。妹には婚約者がいる」
リィンはがっくりと口を開いて固まった。
「ワドレットという研究員だ。お前も知っているだろう?」
「え…えええっ!!」
一度に様々な記憶が脳裏をよぎってゆく。ワドレットの牧歌的な眼鏡顔。ラディスを安心させてあげなくては、と語ったきらきら輝く瞳。あれにはそんな意味があったという事なのか。そう言えばエンポリオが、ラディスが彼に厳しくなるのには理由があると言っていた。その理由を聞きそびれていたのを今やっと思い出した。ユマと会社の前で会った事も…。
最初から最後まで、勝手な勘違いだったというのか。
「うう、嘘だろ」
「こんな事で嘘をついてどうする」
「そんな…」
ラディスが面白そうに顔をのぞきこんでくる。リィンはあんぐりと口を開けたまま顔を赤く染めてゆく。
「でも、じゃあ、グレイアは…」
「言ったろう、あいつは野獣だ。弱った獲物が目の前にいたから、食らおうとしただけだ」
「な、何だよそれ…。何が、何だか…」
リィンの赤茶の瞳から、透明な涙がこぼれ落ちた。
「あ、れ…」
次々と涙がこぼれてゆく。どうして自分が泣いているのか分からなかった。悲しいのとも違うし、嬉しいのとも違う。心が震える。
「リィン」
ラディスが落ち着いた声で名を呼んだ。リィンの白い頬を包み込むように両手を添えて、額に口づける。頬に流れる涙を唇ですくい、その柔らかな唇に優しいキスを落とした。
「う…っく」
ぼろぼろと泣いているリィンに、ラディスは何度も優しく触れるようなキスをする。リィンはぎゅっと目を閉じて浅い呼吸を繰り返す。身体が熱い。もう、このままでは…。
「ラディ…ス…」
涙目のまま彼を見つめた。至近距離で青い瞳が見つめ返してくる。彼の薄茶色の髪が顔にかかる。どくん、と心臓が跳ねた。瞳を伏せた彼がゆっくりと近づき、また唇が重なる。
「ん…うっ」
焦がれるような深い口づけ。リィンの身体がびくりと反応する。愛おしさが胸に込み上げ、今まで抑え込んでいた気持ちが溢れて決壊する。唇が離れた瞬間、リィンは震える声で心を叫んだ。
「あ、す…好きだっ。僕、ぼく…ラディスが、すき…」
「リィン…」
呼吸をするのももどかしく、引き寄せられるように二人は唇を重ねる。情熱的な大人のキスがリィンを翻弄してゆく。
好きだ、好きだ、すきだ…
「ンッ…」
頭の中が真っ白になり、身体の芯から燃えるような熱が生まれる。リィンはぎゅっと眉根を寄せ、ラディスの服を掴んで空気を求めて身じろぐ。彼はそんなリィンを逃さず、角度を変えて深く口付けてくる。彼の舌がリィンのそれを絡め取り、リィンの理性を奪ってゆく。びくん、と身体が震えた。ラディスの手がリィンのブラウスの中へ伸びる。
「あっ…や、やめ…」
肩で息をしながら訴えた。触れられている部分が、熱い。
「ちょ、待って…っぅ」
塞がれるように口付けられ、またそのキスに夢中になってしまいそうになる。
リィンは何とか理性にしがみついて、ラディスの腕を掴んだ。自分が変になりそうだ。感情がコントロールできない。こんな感覚は初めてで、どうしたら良いのか分からなかった。『力』が暴走しそうになっているのだ。
いつの間にかリィンの瞳は深紅に揺らいでいた。
「あ…だ、だめだって…。『力』が…」
ラディスがリィンの細い首筋に唇を押し当てる。全身にびりりと痺れが走った。
「っ…」
次の瞬間、どん、と鈍い音が部屋に響いた。はっとして慌てて身体を起こす。
「ラディス!」
彼はベッドの下に転がっていた。
『力』で彼を吹っ飛ばしてしまった。
「ご、ごめんっ」
ベッドの上から、ラディスを見下ろす。傍へ行きたかったが思うように身体に力が入らないのだ。ラディスは仰向けで大の字に寝そべったまま笑い出した。
「お前を抱くのも命がけだな」
「だっ…」
リィンは顔を真っ赤にして言葉を失う。
「ああ…俺とした事が…。リィン、悪かった。まさか自分にここまで余裕がないとは…な…」
ラディスは独り言のように呟きを落として、そのまま眠ってしまった。
彫像のような整った寝顔に視線を向けぼんやりとする。すっかり気抜けてしまった。我に返ったおかげで、倒れてしまいそうな程恥ずかしくなってきた。
僕は、何か恥ずかしい事を口走ってなかったか!?
それに、ラディスと…。
「ぐあ…」
リィンは奇妙な声を出してベッドの上でぶるぶると首を振った。