065:世界
その後も会議は続けられたが、リィンには難しい話の上に、恥をかいてしまったという事実にうろたえている間に終了してしまった。ラディスとクレイはモドに引きずられるように研究棟へと去ってゆき、女王陛下とその部下テンペイジ、クレイの両親も慌ただしく部屋を後にした。ミッドラウは配達があると言ってレーヌの町へ消え、ソアがリィンを連れて部屋へ案内すると告げ歩き出した。
「…僕、ここにいなくても良い気がしてきた」
ソアの後をよろよろと歩いて呟く。何だか一気に疲れてしまった。
「確かにあなたがそう思うのも無理はないな。ラディス殿は何かとお忙しい。私から説明をしよう。
彼がレーヌの大学校に入学したのは十四年前だ。その経緯は知っているか?」
「ラディスは十二の時に留学したって聞いたけど、本当は十四歳からじゃないと入学できないって。でもそれを許可されて、それはラディスが、ティルガが助けた子供だからって…。それで本当は五年間のところを四年間で全部終わらせて…レーヌの女帝が特例を認めて…。はあ、言っててこんがらがりそうだ」
「そうだな…。あなたの父君と我が国の前女王との話は、直接シャウナルーズ様がお話しされるであろう。私からはラディス殿と現在の統治者、シャウナルーズ女王陛下との経緯を話す。
…彼は己がティルガの弟子であると宣言し、この大学校へ単身で乗り込んで来たのだ。当時十二であった彼は、正規の手続きでは入学資格がなく除外される事を知っていて密入国をした」
「なっ…」
リィンは長い廊下に立ちつくした。少し前を歩いていたソアが振り返って、神妙な顔で頷く。
「保安部隊に掴まった彼は事情を話し、彼自身が≪黄金の青い目≫を持っている事もあって心優しきシャウナルーズ様との謁見を許可された。その場で彼は言ったのだ。自分には時間がないのだと。自分が為そうとしている事にはたくさんの時間が必要な為、すぐにでも大学校に入学し医師にならなければいけないと。
幼い子供が、ルキリア国の皇族上位指向で凝り固まった、腐った価値観を覆すと言い切った。自らが医師になり、どんな種族の人間達も救ってみせると宣言した。その為に力を貸せと、一国の王に偉そうにのたまったのだ」
「じゅ、十二でそんな事を…」
「その場にいた全員が、この子供は気がふれていると訝しんだ。嗤う者もいた。しかしシャウナルーズ様だけが、幼いラディス殿と真剣に対していた。その謁見の一瞬で、全てを見抜かれたのだ。彼が本当にティルガと深い関わりがあり、非現実的な大それた夢を、本気で実現しようとしている並々ならぬ覚悟を有している事を。
…その場でシャウナルーズ様は、幼い子供と契約を交わした」
廊下の片側は中庭に面しており、暖かな日の光が緑の芝に降り注いでいた。背の低い木に小鳥が止まってさえずっている。ソアは視線をその緑に向け、目を細めて続けた。
「シャウナルーズ様はラディス殿に全面的に協力する事を申し出た。入学を許可し、尚且つ医学や薬学、剣術に至るまでの万般の教えを、一流の者につかせて習得出来るように用意すると言った。もちろん金銭面でも糸目はつけない。全てを約束したのだ」
「どうかしてるよ。小さな子供にそこまで…」
リィンの素直な言葉にソアは一つ頷いた。
「もっともだ。シャウナルーズ様は少し変わっておられる。気に入った人間には、その者がどんな種族でどんな出生であろうと、とことん肩入れなさるのだ。…だからこそレーヌには優秀な人材が多くいるのも事実。テンペイジ議長や私等もそういった人間の一人だ。
そうして全てを約束された彼は大学校に入学を果たした。その勉学の日々は想像を絶するような過酷なものだったに違いない。何せ全てを、一流のレベルで習うのだからな。ここでは飛び級も珍しくない。しかしラディス殿のように、一年間という単位で卒業を短縮した者はそうはいないであろう」
途方もない話だ。到底一人の人間が為し得る事が出来るとは信じられないような話。しかし、とリィンは思う。
他の誰でもなく、あのラディスならば分からなくはない。
「シャウナルーズ様は一度信頼した人間は、最後まで裏切らない。しかし陛下は一国を預かる身のお方である。何の根拠も見返りなく、そういった事はしない。必ず相手を選び、そして条件をつける」
ソアの鮮やかな緑の瞳が、こちらを見つめている。綺麗だ。濁りのない、澄んだ瞳。
「彼に課せられた条件は、その覚悟のままに命を捧げる事。世界の医療の発展と平和の為に、レーヌ国女帝の、手となり足となって働く事だ。
私は当時のラディス殿の入学の経緯を、この大学校の役員に選ばれてから聞かされた。しかしそれは彼に限ってだけの話ではないのだ。シャウナルーズ様の腹心の部下として生きる者達は皆、その契約を交わしている。シャウナルーズ様によって生かされ、その偉大な思想と構想実現の為に身を粉にして働く。これは当然の事であろう」
シャウナルーズ・ルメンディアナは、まさに生きるリリーネ・シルラだ。この世界に自らの両足で立ち、この世界の平和と調和の為に、その両手で現実的な一手を次々と繰り出してゆく。レーヌ国の女帝はリリーネ・シルラの第一の使徒として、全世界を平和へと導いてゆく重責を担っている。その自覚のある女性だけが、代々受け継いできたものだ。深淵なる知恵と勇気。
「ラディス殿は今後、世界に散っているリリーネ・シルラの使徒達の現在を、調査する任につく」
「え…」
「この世界ではレーヌ国の認可がないと医師にはなれない。そして今、医師になった者達の現在を知る必要があるのだ。それは何故か。医師という職業に従事している者達の腐敗が進んでいる為だ。リィン、あなたもルキリアの国を旅してきたから私の言っている意味が分かると思う」
「そうだ…。小さな村や町の医者は皆先生と呼ばれて尊敬されて、大金持ちだ。だけどイリアス族や身分の低い人達の診察は絶対にしない…」
「それに聖職者を兼業している者も多い。その権力を振りかざして、か弱き人々を虐げている者共が実際に存在するのだ。このおぞましい現状を、レーヌ国が黙って見過ごすはずがあろうか。
ラディス殿はシャウナルーズ様の命のままに旅をし、出会い、選別し、時には相手から医師や聖職者の免許を没収しレーヌに返還するという任務につくのだ。この計画はのちに専門の部隊を作り、従事する人員を増やす予定である」
「そうか。あの会議でシャウナルーズ様や皆が言っていたのはその事だったんだね。…何て大変な事だろう」
「その他にも懸念がある。ロガート国の不穏な動向が、現実的なものとなって影を落とし始めているのだ。あの国はイグルを兵隊に使う為に恐ろしい研究を進めているという、不吉な噂が以前からあった。幾度となく質問状を出してはいるが素直に答えるような輩ではない。それに最近ではヒト型のイグルが出現したとの情報も入ってきている。
イグルの毒を中和する特効薬の精製を習得した医師達は、このレーヌの首都に数名とラディス殿がいるだけだが、ロガートはその者達を喉から手が出る程に欲しているに違いない。特効薬の研究に携わっていた当時の研究員達を躍起になって探していると聞く。それにそういった者らが拉致されたという噂もある程だ。優秀な医師や研究員達の安否の確認も、急を要する課題であるのだ」
「僕も見た。ヒト型のイグル…」
「何!?それは本当かっ」
「うん。ルキリアとロガートとの国境にあるゲムの村が襲われた」
ソアが片手で頭を押さえて首を振った。
「何という事だ…。テンペイジ議長に報告せねば。後で報告書を作成するので手伝ってほしい」
「分かった」
「一刻を争う事態にまできている。ラディス殿には重要な任務が課せられているのだ」
「それでラディスがその任についたら、診療所はクレイとソアが継ぐ事になるんだね」
「あ、ああ…。それにはまた色々と事情があるのだが、まあそんな所だ。しかし…。ラディス殿がリィンに何も話していないとは思わなかった」
リィンは顔を中庭に向けて、呟く。
「ラディスは僕を置いてく気なんだ。僕の事をまだ信頼してないのかも知れない」
「い、いや。時間がなくて説明が出来なかったのだろう。彼もそう言っていた」
「時間がないなんて、ラディスがそんなの理由にするはずがない」
ごほん、と一つ咳払いをして、ソアは来客用の部屋へリィンを通した。
「今夜は夜会が催される予定だ。しばらくはゆっくりと旅の疲れを癒すと良い。また従者が呼びにくる」
そう言い置いて、彼女は逃げるように部屋を後にした。
通された部屋には繊細な彫刻が施された調度品が並び、居心地の良い空間になっていた。豪奢なベッドが二組。丸テーブルに椅子が二脚あり、壁際にあるチェストの傍に見慣れた大きな診療鞄が置かれていた。その隣にはリィンの荷物もある。どうしてだかここでもラディスと同じ部屋のようだ。それは自分が彼の護衛だからなのか、リィンにも良く分からなかった。
今すぐにでもラディスと話をしたかった。どうして何も話してくれなかったのだろう。それにリィン自身はルキリア国の、その帝都ベイルナグルの診療所とその周辺くらいまでの視野しか持っていなかったのだ。突然その範囲が世界に大きく広がってしまった気分だ。頭が混乱する。
自分は彼の生きる道の途上で、ふらりと現れた人間に過ぎないのだと痛感させられた。ラディスの見つめている先はベイルナグルでありルキリア国であり、そしてそれさえも単なる通過点にすぎなかったのだ。彼が救おうとしているのは、世界だった。
気の遠くなるような、果てのない話だ。
ばったりとベッドに倒れ込んで深く息を吸い込む。
「ラディス…」
僕を、そこへは連れて行ってくれないの…。