062:記憶は海を渡る
大きな帆に風を受けて走る。リィンは甲板から小さくなってゆくルキリアの大地を無言で見つめていた。すがすがしい朝の空気が頬をかすめる。レーヌ国へ渡る定期船には様々な荷物が運び込まれ、その合間を縫うようにして人間達が佇んでいた。朝一番の便の為、これでも空いている方だという。大きな帆船は海を切り裂き白い飛沫を上げながら進む。朝日がきらきらと水面に反射している。
「よくまあ、飽きずに見ていられるもんだ。ほらよ」
ミッドラウが隣にやって来て、パンケーキを差し出した。このパンケーキにはフルーツや甘いクリームの代わりに照り焼きの肉と野菜が挟まれていた。これは船上で売っているもので、商人達はこの移動時間にこうした簡単なもので朝食を済ませているようだ。礼を言って一口かじりつく。
「海を渡るのは初めてだ。…すごい」
「酔わないように気をつけろよ」
「…診療所は大丈夫かな」
リィンは気になっていた事を口にした。
「大丈夫ですよ。ラディス様と私が揃って外出する時は休診になります。ニコルさんとチェムカさんは自宅におりますし、診療所には護衛が立つようにあらかじめ手配されているのです」
クレイが言いながら隣に立った。リィンは少し笑う。用意周到。
「そっか。あのラディスが放ったらかしにするわけないもんね。…ラディスは?」
「あいつは年寄りだからな、客室をとらせてやった。今頃ぐーぐー寝てやがるだろ」
ミッドラウがパンケーキの最後の欠片を口に放り込みながら言った。定期船の料金は甲板だと百五十フィルだが、客室を使うと倍の値段がする。レーヌ国に着いてからも、彼はきっと忙しいに違いない。この移動時間を休息に当てて少しでも体調を戻しておきたいのだろう。今朝もまだ熱は下がっていなかった。
三人はぼんやりと海原を眺める。
「そういやさ、どうしてレーヌ国に行くわけ?」
リィンが前を向いたまま質問した。
「かー!そこら辺は色々ややこしいんだ。クレイ、説明してやれ」
そう言ってミッドラウは後ろへ下がり、通路に積み上げられた荷物を背もたれにしてどっかりと腰をおろした。リィンは隣に立つクレイを見上げる。彼は少しだけ視線を上に向けて、考えつつ言葉を紡ぎ出した。
「…そうですね。レーヌの大学校はリィンも知っていますね。人々は世界から、一流の医学と薬学、それに地学や天文学といった万般の学問を学ぶ為にレーヌにやって来ます。この学校はレーヌ国の女帝直結の中枢機関が運営する公的なもので、五年間をかけて全課程を修めるようになっているのです。他国からの留学の場合入学資格は十四歳からになります。
私はレーヌ国の出身ですので、その一年早い十三歳の時に入学しました」
「ふうん…」
何か引っかかるものを感じた。目を閉じて記憶を掘り起こす。
「あれ…。ラディスが留学したのって十二の時って聞いた気がしたんだけどな…」
十二歳から十六歳の間を大学校で過ごし、その後の二年間はレーヌ国の医師の元で働いていたと聞いた。そうなると実質四年間しか大学校に在籍していなかった事になるのだが…。
「ええ。ラディス様は特例で十二の時に入学を許可され、通常五年間で修了する課程の全てを、四年間で修めてしまったのです。
後にも先にも、レーヌの女帝が特例を認めたのはその時だけです」
「…え?」
「んん、まあ要するにだ!ラディスの奴が女帝のお気に入りなんだ」
ミッドラウが背後から大きな声で乱暴な解説をした。リィンは振り返って眉根を寄せる。
「何?」
「まあ、行きゃあ分かるって!」
リィンは憮然として、クレイを見上げた。
「…ラディスが女帝のお気に入りで、どうして僕やクレイまで呼ばれる訳?」
「それも、実際にあの方にお会いになれば分かりますよ」
クレイが苦笑してリィンを見おろした。リィンは少しだけ不機嫌になる。
お気に入りってどういう事だよ。
「どっちにしろ随分と久しぶりなんじゃねえか?クレイ」
「ええ。国に帰るのは数年ぶりになります」
「お前、ラディスに入れ上げるのも良いがな、他に入れ上げにゃならん奴がいるだろ」
クレイが突然げほげほと咳き込んだ。心なしか顔が少し赤いような気がする。
「クレイ?」
「くっく。リィン、こいつにはな、許嫁がいるんだぜ」
ミッドラウが心底楽しそうに言った。
「ソアっていってな、これがまた良い女で…」
「ミ、ミッドラウさん。そのような言い方をされては困りますっ。リィンが誤解するでしょう!い、許嫁などと…」
いつも整頓された雰囲気でかっちりとしているクレイが、顔を赤らめ必死になってまくしたてている。リィンはぷっと吹き出した。
「僕、楽しみだな。レーヌはクレイが生まれ育った所だもんね」
げらげら笑っているミッドラウを無視して、クレイは肩を落としてため息をつく。
「レーヌ国は大変に豊かな国です。人々の心も…。リィンもあの国でなら、そのマントを羽織る必要もないでしょう」
世界一の医学と薬学を誇り、その英知を全世界に知らしめているレーヌ国。形式上はルキリア国の中の独立国家として存在しているが、実際にはどの国に対しても中立の立場を崩さない、確固たる信念の元にこの世界で唯一の女帝が統治する国だ。リリーネ・シルラの聖地であり大聖堂がある事でも有名である。そしてレーヌが認めない限りはこの世界で医師になる事は叶わない。絶対的な権限も有している。レーヌ国を治める女帝は代々指名制で、レーヌ族の女性がその座に就くという。その政治手腕は特筆すべきものがあるだろう。予知や先読みといった不思議な能力を備えているという噂も耳にした事がある程だ。
リィンは甲板から通路を歩き、奥まったところにある客室の扉をそっと開いた。その中にいる人物は予想に反して、眠ってなどいなかった。机に向かい書き物をしているようだ。
「寝てなかったの?」
「ああ。レーヌに着くまでに資料をまとめておく必要があってな。急だから大した準備は出来んが…」
「まだ熱があるのに…」
「俺の調合した熱さましの薬は良く効くんだぜ。我ながら惚れ惚れする程だ」
ラディスは手元に視線を落したまま言った。
確かに目の前の彼からは、弱々しい雰囲気など微塵も感じない。普段の飄々とした彼だ。
「もうすぐレーヌに着くよ。…あんたって女帝のお気に入りなんだって?」
「俺だけじゃないぞ。クレイもミッドラウもあいつのお気に入りだ。お前もコレクションの中に入るだろうな」
「…何だよそれ。訳わかんない」
リィンがむっつりとしたままラディスを睨みつけると、彼はリィンに顔を向けて少しだけ目を細めた。
「妬くなよ」
「ち、違うよっ!それに!レーヌの大学校って十四歳からなんだろ!?」
「そうらしい」
「なんでラディスは十二の時に入学出来たの?しかも四年間しかいなかった…」
リィンが問うと、彼は口角を持ち上げて笑顔を作った。相変わらずの美しい微笑。
「俺が天才だからだ」
「…あっそう」
「まあ、一番の要因は他にあるがな」
青い瞳が真っ直ぐにリィンを射抜く。迷いなくラディスは次に続く言葉を口にした。
「俺が、ティルガが命を救った子供であるからだ」
「父様…」
「イリアス族の奴隷解放に多大な影響を与えたレーヌ国だ。十八年前、お前の父はレーヌの女帝に嘆願書を書き続けて、その扉を開いた。今は代替わりをして、その当時の女帝は病死して既にこの世にはいないがな」
ティルガは医者だった。と言う事は、レーヌ国に認定を受けているのだ。レーヌの大学校で勉強をしたのだろうか。顔も見た事のない父。イリアス族を救う為に、母様を救う為に、処刑された青年。
ラディスは席を立ち、おもむろにリィンの小さな頭を片手で抱き寄せた。彼の優しい匂いがリィンを包み込む。
「リィン。もしかしたらお前にとって辛い話を聞く事があるかも知れない。だが、逃げるな。目を背けずに正面から受け止めるんだ。お前にならそれが出来る。お前は強い」
「うん…。僕は大丈夫だ」
不思議だった。ラディスがそう言ってくれると、本当に自分が強くなった気がするのだ。
ラディスがいてくれるなら、僕はきっと大丈夫だ。何があっても強くいれる。
「ラディス」
「ん?」
「僕の『力』の事、何か知ってるんじゃないのか?」
彼の腕の中から顔を上げて質問した。ラディスは無言でリィンを見おろす。
昨夜の出来事がずっと引っかかっていた。自分の身体が青白く光っていた、あの現象。よく考えてみればあの時が初めてではない気がするのだ。ずっと前に『力』について彼に質問された事があったのを思い出した。その時一回きりであったが、ラディスはリィンに自分の『力』の事を知っているか、と質問したのだ。
「…疲労が蓄積するとああいう事が起きる」
ラディスがさらりと言った。
「…本当に、それだけ?」
「ああ」
何だか腑に落ちない。
リィンがじっとラディスを見つめていると、唐突にその彫像のような綺麗な顔が迫ってきた。
慌てて両手で彼の肩を押し返す。
「ちょっ!何だよっ」
なおもラディスはリィンを抑え込んで迫ってくる。リィンは顔を真っ赤にしながら、ばたばたと彼の腕の中で必死にもがいた。その時、船が大きな汽笛を鳴らした。速度がゆるやかに落ちてゆき、ごとりと何度か船体が揺れて、それから止まった。
「つ、着いた。レーヌに着いたよっ!離せっ」
ラディスが舌打ちをしてリィンを解放した。