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紅い月 青の太陽  作者: 茂治
第五章
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059:地図にない村2

「これを全てあなたが…?」


ノエルの父がおそるおそる話しかけた。痩せているせいで顎が尖り、頬もげっそりとこけているが、年は若い。


「怪我人はいるか?村人はこれで全員か?」


ラディスはそれに答えずに化け物の血がついた剣を振るいながら質問した。

肩を寄り添い合わせる老夫婦に小さな子供を背負った父親、泣いている娘の肩を抱く母親。村人達は遠巻きにラディスを囲んで集まっており、皆一様に暗い顔をしていた。お互いの視線を交わし、仲間の安否を確認する。その中の誰かが声を上げた。


「あ…。トレマがいない。トレマのとこの家族がいないぞ」


「俺が行こう。案内してくれ。他の皆は村で一番大きい家に集まるように。またイグルが出る可能性がある。どうやらここは狙われているようだな。軍が来るまで油断出来ない。ここの長はいるか?」


「僕のおじいちゃんだよ」


ノエルが背の高いラディスを見上げて言った。


「…お前のじいさんは病気じゃなかったか?」


「サザイー様は病気じゃない。少し体調がすぐれないだけだ!」


厳つい顔をした村人が前に出て来て怒鳴った。


「ノエル!勝手な事をするんじゃない!」


「だって!」


言い返そうとしたノエルを、母がその身でかばう。


「すみません。この子には後で言って聞かせますから…」


「とにかく、今はこの先生の言うとおりにした方が良い」


「そんな得体の知れない余所者の言う事なんか…」


「きゃああああああ!」


女性の悲鳴が響いた。村人達が身体を固くして振り返る。目の前の古ぼけた家から、子供を抱えた婦人が飛び出してきた。


「どうした!」


ノエルの父がそちらへ向かおうとする。


「逃げてー!」


婦人の走り出て来た家の扉が、ばきばきと音を上げた。別の村人が婦人を抱きとめ、皆がじりじりとラディスのいる方へ後ずさる。家の中に、何かがいる。


「あ…あが…がが、が…」


ぐらりと大きな影が揺れて、そこから声が漏れた。べしゃり、と気味の悪い音と共に足が出る。靴を履いている。


「ま、まさか。トレマが…?」


「何てこった…トレマがやられた」


服を着たイグル。

背は異様に盛り上がっていて既に骨格が歪んでいるのが分かる。目と口は何とか判別できるが、鼻があるべきところにぽっかりと穴が空いていた。赤黒い皮膚は血とイグルの体液で不気味に光っている。ふらふらと歩き、僅かな理性が見え隠れしていた。


「…何故こうなるまで放っておいた」


ラディスが低く呟く。


「こ、この村には特効薬も毒もありません。お金がなくて買えないのです…」


ノエルの父が顔を真っ青にしながらそれに答えた。村人達は変わり果てたトレマを呆然と見つめる事しか出来ない。ノエルが目に涙をためて、ラディスにしがみついた。


「お医者様、トレマを助けて下さい!」


「ああなってしまったら、もう助ける術はない。皆後ろに下がっていてくれ」


「そ、そんな…」


その場にマントを落とし、ラディスが前に歩き出す。子供を抱えた婦人の前で立ち止まり、告げた。


「あなたのご主人を弔います。よろしいですか?」


青い瞳が真っ直ぐに婦人を見つめている。揺るぎないその瞳はこの状況においてもひどく冷静だった。

婦人は滂沱の涙を流しながら、一つ頷く。

ノエルと村人達はいまだに燃え続ける家を背にして、息を詰めてラディスの背中を見つめていた。彼は迷う事なく真っ直ぐにトレマに近づいてゆく。トレマが彼に気付き、崩れかけた顔を向けて、口を開いた。


「ご、ごが…」


突然、不気味な身体が伸びあがり、ラディスの左肩に噛みついた。村人達から悲鳴が上がる。ラディスが一歩よろけて、ゆっくりとトレマの身体から力が抜けてゆく。いつの間にかラディスの剣が彼を貫いていた。


「お医者様!」


ノエルが叫ぶ。ラディスはトレマの亡きがらを抱きかかえるようにして、その場にひざまずいた。


「た、大変だ…。あの人までイグルになってしまうぞ」


「特効薬を持っているはずだ。早く渡さないと…」


「きっとこれだ」


ノエルの父が馬の背に括りつけられた彼の診療鞄に気付いて、慌ててそれを手に取った。ずしりと非常に重く、両手で抱えてふらつきながらラディスの元へ歩いてゆく。ノエルが駆け寄って、鞄に手を添えて父を助け、他の村人達もよろよろとその後ろに連なった。


「せ、先生…」


ラディスはトレマに視線を向けたまま、何かを呟いていた。


「あ…」


清らかな風/かの偉大なる魂は/大いなる泉へと還る/安住の地へ勇敢なる兄弟を送る/その足跡は光を満たし/その息吹は黎明な未来をも照らす/一時の揺らぎに巡る/光芒の道を歩め/されば来世も使徒として/リリーネ・シルラの意思を継がん/使徒ラディス・ハイゼルの名の元に/この者の前途を荘厳せん


イグルの体液と血でべとついたトレマの額に、静かに口づけを落とした。

それは、弔いの祈りだった。


「ああ…。あなたぁー!」


婦人が泣き崩れ、村人達から嗚咽が漏れる。ラディスは肩で息をしながら鞄に手を入れて、自分の腕にぶすりと注射を突き刺した。あまりの壮絶な光景に、皆震えて涙を流している。ノエルの父が、今にも消え入りそうな声で言った。


「私の家が一番広いので、皆をそこへ集めます。父もそこに寝ていますから…」


「お医者様…大丈夫なの?」


ノエルが目を真っ赤にしながらラディスの顔をのぞきこむ。彼はすっくと立ち上がって、ノエルの頭に手を置いた。


「大丈夫だ。俺は強いからな」


◇◇◇◆


「サザイー様は、とても賢くて立派な長だったんです」


大きな広間に村人達がそれぞれ持ち込んだ椅子にぐったりと座りこんでいる。壁際にはベッドがあり、そこにノエルの祖父、サザイーがぼんやりと天井に視線を向けながら身体を横たえていた。ラディスはノエルの父に借りたブラウスとズボンに履き替えて、無言のままサザイーを診察している。脈を測り心音機を胸に当て、瞼を裏返したり口を開いて見分する。次にシーツをはいで足や腕を触診してゆく。研ぎ澄まされた視線は鋭い。気分の悪い者や怪我をしていた者達も既に彼の診察を受けていた。


「…それで。何故今まで軍に連絡をしなかった?そのせいでイグルに目をつけられたんだぞ。一度襲われた時点で対処していれば済んだ事だ」


ゆっくりと長身の身体を伸ばし、村の男達に向き直った。服の丈が合っていない為にブラウスのボタンが留められなかったようだ。肩は彼自身が手当をして、今は包帯が巻かれている。


「それは…≪早馬≫のいる村と絶縁状態になっていて…」


「だったらどうして、このじいさんの治療をしなかった?」


「この村にはそんなお金はないんだ。仕方なかった」


「何故今も病気の老いぼれがこの村の長をしてる?何故次の長を立てなかった。大人の男共がこれだけいながら、今まで何をしていた」


ラディスは容赦なく村の男達を攻め立てた。青い瞳にすっとした鼻筋、薄い唇。彫像のような美しい顔は無表情で冷たい印象を受ける。


「…今日来たばかりの若いあんたには、分かるわけがない」


俯いたまま白髪頭の男がぼそりと呟いた。


「その通りだ。俺達だって、何とかしようとはしたんだ。努力したんだ」


「サザイー様だって病気じゃないかも知れない。明日になれば良くなってるかも知れないじゃないか」


黒い、粘着質の闇のような渦が男達をうずめてゆく。

どうしようもなかった。仕方なかった。頑張ったけれど、駄目だったんだ。


「そうだ!余所者のあんたに何が分かる!偉そうな事を言いやがって…」


大柄な男が立ち上がってラディスに掴みかかろうとする。彼は素早く身をかわして、思い切り男を殴りつけた。がたた、と椅子が鳴ってその場に崩れ落ちる。男達は呆然として顔を青くし、女達はじっと息を殺して怯える。ノエルは母にぎゅうと抱き締められ、ノエルの父が中腰のままどうして良いか分からずにいた。


「全て言い訳だ。本当に、仕方なかったと思っているのか?本当にどうにも出来なかったのか?お前達には頭がないのか!どうして子供が、助けを求めに行ったか分かっているのか!」


ノエルの幼い頬に、涙が伝う。


殴られた男が床に突っ伏したまま声を上げて泣き出した。

今までずっと、目を背けて見ないようにして来た現実を否応なしに叩きつけられる。首を掴まれて、無理矢理にこの悲惨な現実と対峙させられる。部屋に啜り泣く音が満ちる。村人達はがっくりとうなだれて涙を流していた。一人の婦人が震える声で話し始める。


「…分かっていたんです。このままじゃいけないって。でも誰も、現実を見たくなかった…。怖かったんです。サザイー様がいつも全てを決めてくれていたから…明日には良くなるかもしれないって。明日こそはって…」


ラディスは無言で鞄の中からあるだけの特効薬を置いてゆく。近くにいた婦人達に様々な薬品の用途を伝え、次々と手渡していった。それからサザイーの介護の仕方を教え、婦人達は真剣な表情でその言葉に耳を傾けた。彼はすっかり軽くなった鞣革の大きな鞄を担ぎ、そのまま扉を開いて部屋を出て行ってしまった。


「先生…」


ノエルと、その父と母、数人の村人達がラディスの後を追って薄暗い外へ出た。


「私達はこれからどうすれば…」


いくつもの縋るような視線が向けられる。村人達は無意識の内に、ラディスという強い存在に拠り所を求めようとしていた。

家を燃やしていた炎は全てを焼きつくし、ちろちろと赤い火が煤けた瓦礫をなめるように燃やしている。東の空が黒い闇から藍色に変わり、既に夜が明け始めていた。


「お医者様…」


「ノエル。お前のじいさんはすでに末期だ。脳に血の塊が出来ているようだ…お前の力になってやれずに、申し訳ない」


ラディスを見上げているノエルに、真剣な表情のまま告げた。少年は俯いて、その幼い肩を母が包んだ。ノエルの父が彼に近づく。


「先生、これからどうすれば…」


「あなたが、ここの長になるんだ」


ラディスが真っ直ぐにノエルの父を見据えた。


「そんな…。私に出来るでしょうか。私には父のような判断力もないし…」


「あなたの父も、あなたも同じだ。判断力も数をこなしていけばおのずと身につく」


それでも不安そうにノエルの父は弱々しい視線を向けている。


「そうだな…。ひとつだけ違う点がある」


「…それは、何ですか」


ノエルの父と村人達がじっとラディスの言葉を待つ。


「覚悟だ」


サザイーにはあって、ノエルの父にはなかったもの。サザイーにはあって、村人達にはなかったもの。それはこの村を守っていこうとする覚悟だ。全ての責任は自分にあるのだという心で生きる。誰かがやるのを待つのではなく、自分がやるのだという、その覚悟。


「あなた方はまだ何もしていない。頭が割れる程悩んで、血反吐を吐くまで動くんだ。何度失敗しても、立ち上がらなければならない。それが本当の努力というもんだ。

 イグルに襲われたのはトレマだけじゃない。あなた方も、一度命を落としている。この日が昇ったなら、生まれ変われるだろう。これ以上ない程辛い経験をしたんだ。他に何を恐れる必要がある」


意思のある、力強い声が響く。村人達は真摯な瞳で、目の前の青年を見つめていた。

ラディスはもう一度、ノエルの父と視線を合わせて言った。


「この村の事はあなたに任せる。必ず、支援を届けよう」


遠くの林から灯りが近づいてきた。激しい馬の足音が聞こえ、あっという間に軍の保安部隊が小さな村になだれ込んできた。


「ノエル!」


ヒアカが一群から抜け出て、馬から飛び降りた。そのままつんのめるようにして前へ転んでしまった。慣れない馬にずっとまたがり、必死で走り続けたのだから当たり前だ。


「兄ちゃん!」


「ヒアカ!」


ノエルと母がヒアカに駆け寄る。


「イグルに襲われている村というのはここか!この村の長はいるか!」


武装をした軍人が馬上からラディス達に声をかけた。ノエルの父が意を決したように一歩前に出る。


「この村の長は、私です」


ラディスは静かに村を後にした。結局はノエルの祖父を助ける事は出来なかった。彼は肩の痛みを感じながら、馬をシャルナンへと走らせていった。


◇◇◆◆


小さな村に警備網が敷かれ、支援物資が届き村の住人達はやっと眠りにつこうとしていた。ノエルの父と村の男達は頭を突き合わせて、これからどうするかを真剣な表情で話し合っている。数人の女性達と子供達がテーブル席についてスープをすすっていた時だった。ふとヒアカが顔を上げてノエルに声をかける。ヒアカの表情も、この数時間で随分と大人びていた。


「あの綺麗なお医者様は?」


「あ…」


聞かれるまで忘れていた。皆顔を見合わせる。


「もう行ってしまわれたわ…」


ノエルは窓の外を見やった。空が白み始めている。


「僕、お礼も言ってなかった」


おじいちゃんは助けられなかったけれど、あのお医者様はこの村を助けてくれた。イグルになったトレマをきちんと弔ってくれた。そういえば、お金も払っていない…。

また会える時があるだろうか。強くて役者みたいに格好良いお医者様。不思議な目の色をした人。

名前も聞いていなかった事に、ノエルは心から残念に思った。



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