005:永遠の別れ
空が白み始めた頃、ゼストはうっすらと目を開けた。
傍らで見守っていたリィンが声をかける。
「ゼスト。僕が分かる?」
リィンの問いかけに僅かに顔を傾け、
「ああ。リィン、そこにいるね」
と微笑む。穏やかな笑顔だった。その笑顔を見たリィンは、不安で心が張り裂けそうになる。急いでゼストの手を握り力を込めた。
「もう大丈夫だよ。あの闇医者のとこに着いたんだ。栄養のあるものたくさん食べて寝てれば、きっと良くなる」
ゼストはリィンの頭をなでながらゆるゆると首を振った。
「リィン、私はもう旅立たなくては。君を一人残してゆくのを、どうか許してくれ」
「だめだ!そんなの、ないよ」
隣の応接室で待機していたラディスとクレイがそっと部屋の隅に立つ。
「リィン。私の願いは、君がただ、人として人の中で暮らしてゆく事だよ。それが幸せなんだ」
「ゼスト…。僕は!」
声が震え、こらえていた涙が頬を伝う。幾筋も涙が流れてゆく。
「決して、憎んではいけないよ。人を傷つけては、いけない」
リィンの頭を優しくなでるその手は、慈愛に満ちている。
「…ありがとうリィン。君のおかげで、私の人生は意味のあるものになった。父さんと母さんと同じように、私も君を愛しているよ」
「待ってよ、僕は何も、なんにもゼストに返してあげられないじゃないか!いかないでよ!」
泣きながらゼストの胸にしがみつく。
いかないで。もう誰も、失いたくないんだ。
「…リィン、子守唄をうたってくれないか…。リィンの歌が好きなんだ」
朝日が昇り始め、窓からオレンジ色の光が差し込む。目と鼻を真っ赤にしたリィンが、ゼストを見つめる。促すようにゼストは頷いた。
リィンは数回震えながら深呼吸をし、掠れた声で歌い始める。
「か…ぜのこ…えを」
ゼストは微笑んだまま、聞き入るようにゆっくりと瞳を閉じた。
風の声をきいて
道しるべはこころの中に
かなたの星くず
あかね色のそら
きみへのあいを
抱いて静かに目をとじよう
内なる星にきいて
あすへのゆめはこの手に
あおい海原
とうめいな風
とおいあの子へ
このうたがきっと届くよう
きみへのあいを
抱いて静かに目をとじよう
小鳥がさえずりはじめ、朝日が柔らかく二人を包んでいる。
新しい一日の始まり。一人の命の終わり。
「…ゼスト」
まるで眠っているようにしか見えない。しかしもう二度と、その目が開かれる事はないのだ。
いってしまった。
僕は、一人になった。
もう誰も、
この世界で僕を知っていてくれる人はいない。
すっと暗黒の幕が下り、暗闇に取り残される冷たい感覚。今まで保っていた何かがぷっつりと途切れた音を、聞いたような気がした。
◇◇◇◆
リィンはベッドの脇からゆらりと立ち上がり、低く呟いた。
「…ルキリア」
瞬間、クレイははっとして身構えたが、それよりも早くリィンの『力』はラディスを壁へ突き飛ばしていた。激しく打ちつけられ、ラディスがその場へ崩れ落ちる。
「ラディス様!」
クレイが叫んでラディスの方へ振り返ろうとした時、全身に瓦礫が落ちてきたような衝撃を受ける。とてつもない重圧に片膝をついて何とか耐えようとするが、うまくいかない。
何という圧倒的な『力』の強さ。
部屋全体の重力が変化し窓ガラスが一斉に割れた。クレイは床に腹這いになったまま、苦しげにリィンを見上げる。盛大な音を立ててバラバラとガラス片が辺りに散らばり、部屋が生き物のようにわなないている。
このか細い少年から、これ程凶暴な『力』が放たれているとは思いもよらない。しかし、その目は深紅に燃え上がり、握り締めた両手の甲には、血管が浮き出ている。
窓ガラスの割れた音を聞きつけて、パタパタとニコルが近付いてくる気配をリィンは瞬時に察知した。部屋の出入り口をぐっと睨みつけ、『力』を使い、勢い良く扉を閉め鍵をかける。
「先生、どうなすったんですか!どうしたの!」
ニコルが外側から扉をどんどんと叩いている。
それを無視し、リィンは悲しみと憎しみに支配されたままゆっくりとラディスに近づく。
「…なるほど。ものすごい威力だ」
ラディスが脇にあるチェストに片腕をつき、立ち上がろうとしている。リィンは彼を睨みつけ、更に『力』を強めた。どん、と重圧がまた加わりラディスの長身が揺れるが、またゆっくりと立ち上がる。リィンはラディスの目の前に立ちはだかり、憎々しげに言った。
「お前は、ルキリア族だ。その青い目が証拠だ。それに…。それに、その≪黄金の青い目≫はルキリア皇族の正統な血縁の者にしか現れない。お前は、ルキリア皇族だ!」
「や、やめろ。この方は…」
クレイの訴えはリィンの耳には届かない。
ラディスはリィンと対峙したまま、表情を変えずに言った。
「それがどうした」
その言葉を聞いて、リィンは憎しみに表情を歪めた。その瞬間ラディスの腕が素早く動き、正確にリィンの胸倉を掴んでそのまま締め上げた。
「ぐっ」
『力』がぱったりと止んだ。クレイは床に倒れたまま咳き込む。
「もう少し冷静になったらどうだ。もう『力』を使う体力も残っていないだろうに。命を縮めるだけだ」
「…う」
リィンは胸倉を締め上げられ、ひざまづくような格好になるが、それでもラディスを睨み続けている。
やっと咳が治まりクレイが立ち上がろうとしたその瞬間、視界の隅で銀色に光るものが見えた。全身が凍りつき、咄嗟に怒鳴り声をあげる。
「やめろ!」
緑のベストに隠し持っていた短剣を、ラディスに向かって突き刺した。リィンの右手に嫌な感触が広がる。柔らかいのに、ずぐり、と抵抗のある感触。人の皮膚を切り裂き肉を突き破る感触。その震え上がるような感触に、やっとリィンは我に返った。
目の前にあの、美しい顔が見える。眉間にしわが寄り、額には汗が浮かんでいる。少し長めでゆるくくせのある薄茶色の髪が鼻先を掠め、視界から消えた。
「ラディス様!」
震える右手を見ると短剣が握られ、それが赤く染まっている。足元で人が倒れて床が血で汚れて…。
呆然と立ち尽くすリィンに、クレイが背後から手刀を加え気絶させた。急いで近場にあったシーツを鷲掴み、ラディスを抱き起こす。
「…いてぇな、やっぱり」
脇腹を押えて苦笑するラディスに、クレイは本気で怒りながら言い放つ。
「何故、避けなかったんです!」
「大丈夫だ、急所は外してある」
「そういう問題じゃありませんよ!」
ラディスは苦痛の表情のまま目を閉じた。クレイは急いで傷口にシーツを押し当て止血をする。そこへニコルが合鍵を使い、部屋の扉を開けて入ってきた。
割れた窓ガラスに血だまりに、倒れたリィン、怪我をしているラディス。
一瞬で血の気が引く。
「な、な、何なの、これは!先生!クレイ!なんなのっ!」