056:二人の戦い3
診療所の長椅子に、頭を垂れて座る白髭の老人と、長い廊下を大きな身体を揺すって行ったり来たりしている男性。結局男二人は女性達に邪魔だと言われ診察室から追い出されてしまっていた。
「慈愛の女神、リリーネ・シルラ様。どうか、我が娘と孫をお守りください…」
お願いします、お願いします。
老人は腰を折って祈り続けている。
その時、診療所に赤ん坊の泣き声が響いた。
身体を固くして顔を上げる老人と男性。何て元気な声だろうか。何て、生き生きとした、産声だろうか。
扉が開いて女性が顔を覗かせた。額に汗をかいているその女性は、がりがりに痩せていたが瞳はきらきらと輝いていて、二人に笑顔を向けて言った。
「元気な男の子です。お母様も無事ですよ」
「お、おお…」
「神様…!」
その後の処置を手際良く終え、クレイはふらつきながらチェムカの母に言った。
「すぐに、ロンバート先生の病院へ…手厚い看護が必要です」
「分かった!」
「ニ、ニコルさん…」
「何だい先生」
ニコルはクレイの事を、名ではなく先生と呼んだ。この大仕事をしっかりとやり遂げた青年に、敬意を表したのだ。
「後は、頼みます…」
そのままゆるやかに、クレイの身体が真横に傾いた。
「クレイッ!!」
意識が遠ざかってゆく。ああ、やり遂げた…。ラディスの顔が浮かんで、それから思いがけず、懐かしい顔が浮かんだ。ストレートの綺麗な黒髪。前髪は眉の上できちんと切り揃えられており、いつも一つに束ねた髪型は清潔感に溢れている。じっとこちらを見つめる緑の瞳。彼女の凛々しい表情が、とても好きだった事を思い出す。
ソア…。
「…ソア」
「うんにゃ。俺様はミッドラウだ」
驚いて、勢い良く身体を起こそうとした。が、身体が動かない。
「えっ!?」
がたがたと身体が振動を感じている。何が何やら分からない。つい先程まで、診療所にいたはずだ。なのに今どう言うわけか揺れる馬車の座席にいる。顔に夕日が当たる。しかも自分を見ると身体をシーツでぐるぐる巻きにされて座席に縛り付けられているのだ。
「ちょっ?な…、なっ!?」
あまりの出来事に思考がついてゆかない。何とか顔を動かして声のした方へ視線を向ける。隣で立派な躯の馬を慣れた手つきで操るミッドラウは、肩まである黒髪を一つに束ね、また不思議な格好に身を包んでいた。てらてらと光る浅葱色の珍しい布地の服を頭からすっぽりとかぶって、銀色のベルトで止めている。スカートのようにその布地は膝まで垂らされ、その下に黒のタイツを掃いて足元はサンダルのような靴。袖のない服から逞しい腕が伸びていた。運び屋は声を上げて笑った。
「お前の驚きは無理もないな。安心しろ。あの母親と赤ん坊は無事にロンバートの所へ運んだぜ」
ああ、ではあれは夢ではなかったのだ。
「そ、それで私は、どうしてこのような拷問を受けているのですか…」
「はっはあ!お前は俺に≪運ばれて≫る最中だ。幌にはまだ荷がたくさん積んでるからな、それを降ろしながらお前を依頼主の元まで≪配達≫する。お前の置き場がなかったから、仕方なく座席に置いたまでだ。気を失っている間に転げ落ちたら困るから括りつけた!」
クレイはぽかんと呆けてしまった。この現状の説明を聞いたところで、やはり訳が分からない。
ぼんやりと頭の片隅で思う。それでは診療所がしばらく休みになってしまう。ニコルとチェムカが患者達にロンバートの病院を紹介してくれるだろうが、悪い事をした…。
律儀な彼は、自分が縛り付けられているのにも関わらず、診療所の心配をしていた。
◇◇◇◆
イグルの頭が作り物のように、ばつん、と音を立てて弾け飛んだ。ウィリアムがぎょっとして崩れ落ちる化け物の胴体を凝視した。顔を上げると、リィンが前方を右へ向かってゆっくりと歩いているのが見えた。口を一文字に結んで、固く握り締められた手の甲には血管が浮き出ている。
ばつん、ばつん、とあらゆる方向から音が聞こえた。気色の悪いイグルが長い手足を伸ばして、ばたばたと横たわってゆく。全て頭が破裂して原型を留めていない。
恐ろしい。イグルではなく、リィンの事を恐ろしいと思った。
イリアス族の『力』というのは、これ程までに計り知れないものだったのか。そりゃあ白い悪魔と言って恐れられるはずだ。
敵も味方も、心臓を鷲掴みにされているかのように息を詰めて小柄なリィンに見入っている。戦いの音が止んだ。一人の山賊が、じりりとリィンに詰め寄る。その気配を即座に察してリィンが声を上げた。
「動くな!…頭を吹き飛ばすぞ」
山賊はそれ以上動く事が出来なくなってしまった。ぼんやりとそれを見ていたウィリアムが、はっとして軍人達に言い放った。
「何してんだ!今のうちに敵を制圧しろ!」
それで我に返った全員が、ばらばらと一斉に動き出す。山賊が数人でリィンに襲いかかろうとした。
「動くなと言っただろう!」
リィンが叫んだ瞬間に、大地が揺れた。人間達はその場で皆一様によろける。びしり、がりがり。聞いた事もないような不気味な音が耳に届いた。ずずず、と地響きが続く。
「こんなのアリかよっ!」
ウィリアムが怒鳴った。荒涼とした大地に亀裂が走り地盤が歪み、リィンの隣にある石造りの家がまるで生きているみたいにぐらぐらと揺れ出した。それから耳を覆いたくなるような轟音と全ての視界を遮る砂煙が上がって、その場にいる全員が、耳と目を塞ぎ身体を低くして、衝撃に耐えた。次に瞼を開いた時には、頑丈な石造りの家は膨大な瓦礫の山と化していた。ウィリアムは口をあんぐりと開けたまま棒立ちになる。今度こそ、数少ない軍人達が素早く動いて、敵と村人を拘束した。敵は毒気に当てられたように戦意を喪失しており、べったりと地面に座りこんでしまっている。
「リィン!もうやめろ!」
ウィリアムが大声をあげながらリィンに近づく。リィンは肩を激しく上下させて、こちらに背を向けて仁王立ちしていた。反対側からウォルハンドと肩から血を流したアルスレインがやって来る。唐突にリィンは膝から崩れ落ちて、両手を地面について動かなくなった。ウィリアムがリィンの元へ駆け寄って、その細い肩を掴む。全身が熱を持ったように熱く、汗が顎から滴り落ちている。身体が小刻みに震えていた。
「おい!大丈夫かよ!?」
「…へ、平気だ…。ここで気を失うわけには、いかない…」
絞り出すようにリィンが呟く。すぐ傍までやって来たウォルハンドが、躊躇なく剣を振り上げた。その行為にウィリアムが目を剥いて声を荒げる。
「てめっ!何のつもりだっ」
「…イリアス族は、やはり危険な種族だ。このまま生かしてはおけん」
ウィリアムがリィンを背後に庇うように立ち上がり、ウォルハンドに向かって剣を突き出した。
「…お前みたいなのを、化け物っていうんだ。人の心がないのかよ!このくそ軍人がっ」
「やめろウォルハンド。リィンを傷つける事は、この私が許さない」
アルスレインが怒気を含んだ声でウォルハンドを制した。リィンはまだ立ち上がれずに目を固く閉じて呼吸を整えている。アルスレインはふらつきながら、リィンの傍にひざまずいた。
「アルスレイン様…」
ウォルハンドが情けない声を出す。
「リィンよ。誇り高きイリアスの子。私達は勝ったのだ。君のおかげだ、感謝する」
それから立ち上がり、部下達にきびきびと指示を出してゆく。ウォルハンドの手がリィンに伸びる。
「おいっ」
屈強な体躯の軍人は、小柄なリィンを軽々と抱きかかえた。ぽかんとウィリアムがそれを見上げる。
「お前もさっさとついて来い、ウィリアム」
「…けっ!この鉄仮面め」
ウォルハンドは一瞬混乱した。驚愕、と言った方が近い。何故なら腕の中にいる忌々しいイリアス族が、見た目どおりの少年ではなく、今にも脆く崩れてしまいそうな程に線の細い女性である事を知ったからだ。
まさか、そんな事が…。
「お前は…」
「…こ、こんな風に『力』を使えば、怖がられる事は分かってる…。でも、それが何だ。この『力』は、ラディスの為にある…」
何という強さだ。その固い信念と、決意。
腕の中で苦しそうに呼吸をしているリィンの容姿をあらためて観察する。白い肌は透き通るようで、栗色の髪は埃をかぶってはいるが艶やかだ。どこにその強さが秘められているのだろうか。
ウォルハンドは生まれてから二度目に、ルキリア皇族以外の者に興味と尊敬の念を抱いた。生まれて初めて皇族以外に興味を持ったのは、ラディスという町の医師だった。しかし彼は、口が裂けてもこの事は死ぬまで口外しないだろう。




