054:二人の戦い1
「…事が起こる前に、そんなにぼろくそになってどうすんだよ」
ウィリアムが呆れた声を出した。傍らで寝袋の上に伸びているリィンは、身体中に打撲と切り傷を負っていた。ウォルハンドもさすがにこのイリアス族を斬り倒すような事はしなかったが、容赦はなかった為、ひどい有様だ。一応傷の手当はしたが気休めにしかならない。
「…身体中が、痛い」
「当たり前だろ!?馬鹿すぎる!」
苛々してリィンの頭をはたく。
「って…」
リィンを傷だらけにした厳つい軍人は、村から帰って来たアルスレインにこっぴどく叱られた。しかしそれも承知の上だったようで、彼は終始無言で頭を垂れていた。
「でもこれで、あの人も僕を認めざるを得ない」
「…化け物」
「化け物って言うな」
驚いた事に、この小柄なリィンがウォルハンドから一本取ったのだ。実際には『力』を使って風を起こし、砂が吹きあがった瞬間をついて相手に一撃を叩き込んだのだから、ずるをしたと言えるだろう。
それにしたって、すげえや。
ウィリアムは多少ならずともリィンの事を見直していた。
何だってそこまで出来るのか。怖いもの知らずも度を超えている。イリアス族ってみんなこうなわけ?
ウィリアムは両親に捨てられた孤児だ。顔や声さえ覚えていないし、物心ついた時には同じ年代の少年少女達と盗みを繰り返して毎日を生き抜いていた。誰も信用してはならないし、弱みを見せてはならない。誰よりも先に出し抜かなければならないし、相手を蹴落としてでも上へ這い上がっていきたかった。だって、死にたくなかった。死ぬのが怖かった。死がどういうものかは分からなかったけれど、とにかく恐ろしかったのだ。
生きたい。何でも良いから生きていたい。
その為には何だってしてきたし、当時はそれしか考える事が出来なかった。今なら冷静にあの頃を思い返す事が出来る。あの時の自分は人間ではなかった。畜生と同じだ。しかしシーカーに拾われてから、全てが一変した。きっと、シーカーは自分の生への悲壮なまでの執着心を見抜いていたのだろう。
人としての命を吹き込んでくれたシーカーに、忠誠を誓った。
いずれ、この俺がシーカーの右腕になるのだ。
ウィリアムは隣で唸り声を上げているリィンを盗み見る。こいつがウォルハンドと勝負をした事で、周囲とのわだかまりも一気に溶けていった。他の軍人達もこの視察に初めて参加して、しかも危険を持ち込んで来たリィンを良く思っていなかったのだが、リィンの捨て身の覚悟を目の当たりにして、誰が文句を言えるだろう。
良く見ると女みたいに整った顔立ちをしている。手足も細く、どこにそんな力があるのか分からない。
…変な奴。
「お前ってさ、そんなにラディスが好きなわけ?」
何の気なしにそう言うと、たちまちリィンの顔が赤く染まっていった。
「べ、別にっ!」
「あーあ。分っかりやすい奴!知ってんの?ラディスって男だぜ」
「知ってるよ!」
ウィリアムは少し面白くなった。あんな恐ろしい軍人にも物怖じしないくせに、急に隙だらけになる。からかってやりたくなる。
「ふーん。じゃあ男同士でヤる時ってどうするか知ってるわけ?」
「は!?」
「ケツのあ…」
ウィリアムは何の前触れもなしに、ごろんと後ろへ転がった。身体が痛くて動かせないリィンが、『力』を使って彼を転がしたのだった。
「もう寝ろよ!うるさい奴だな!」
彼は転がったまま、夜空に向かってかかかと笑ってから、真面目な顔に戻って呟いた。
「なあ、ラディスの出した交換条件て何だよ?あいつは何をケイロスに要求したんだ?」
「…何も聞いてない」
情けなさそうな声が隣から聞こえた。ウィリアムは鼻から息を吐き出し、こいつに聞いたのが間違いだったと思い直す。
交換条件という事は、この視察が成功したらという条件で、ラディスはケイロスに何かを約束させたのだ。それはルキリア皇族で帝国政府の中枢にいる彼をもってしても、なかなかの難題だという。しかしその条件を飲んだという事は、今回のこの遠征がどれだけ重要で危険なものであるのかを裏付けていると言える。
「ふん…。面白いじゃんか」
ウィリアムは星空を見上げてにやりと笑った。
◇◇◇◆
昼下がりの診療所では、居室でクレイとニコル、チェムカが昼食をとっていた。
「はあ。リィン、大丈夫かしら…」
ニコルがぼんやりと宙に視線を漂わせたまま呟いた。
「んだなあ。先生もよくまあ許したもんだべ。リィン、本当は女の子なのに可哀そうだ…」
「そうよ!全く!あたしは心配で心配で、食事も喉を通りゃしないったら」
そう言う割にはニコルの皿は綺麗になっている。が、そこを突っ込むような事をクレイがするはずもなく、無言で茶をすすった。最近は事あるごとに、二人はラディスを責める。
「…ラディス様は護衛としてのリィンの腕を認めているのですよ。心から信頼しているからこそ、うるさく言わずに送り出したのでしょう」
じろり、とニコルとチェムカが彼を睨みつけた。クレイは内心びくつく。
ラディス様は、この二人の相手をよくしていられるものだ…。私には荷が重い。
その時だった。玄関口から、緊迫した人の叫び声が聞こえた。
「た、助けて下さい!誰かいませんか!助けて!」
驚いた三人は顔を見合わせて、慌てて玄関へと走る。見ると戸板に身体を横たえる婦人と、二人の男性が肩で息をしながら切迫した表情で目を泳がせていた。一人は白い髭をたくわえた老人、もう一人はずんぐりとした身体の顔の四角い男性。戸板の上にいる婦人は顔を歪めて苦しんでおり、うめき声を上げていた。ゆったりとしたワンピースを着ている彼女のお腹が、大きく膨れている。妊婦だ。クレイはすっと冷たいものを感じながら緊張を高めた。
「どうしました!?」
「つ、妻が突然苦しみ出して…。ルーベン様の所へ行く途中だったんですが、もうそれどころでは…」
「奥さんは妊娠しておられますね」
「え、ええ」
「うう…ああ!」
婦人が悲鳴を上げた。クレイが大きな腹に手を当てて触診する。おかしい。随分と膨れている。背筋に冷たい汗が流れ、全身が総毛だった。
これは…。過期。出産が随分と遅れてしまっている。
「何故、こうなるまで放っておいたんです!」
無意識のうちに叫んでいた。びくり、と主人がその大きな身体をびくつかせる。
「ル、ルーベン様のところで、診てもらっていたんです!しかしこいつのお腹の中には良くない気が溜まっていると…。そのせいで出産が遅れていると言って、祈祷をしてもらっていたんです!別に放っておいた訳じゃっ」
顔面を蒼白にさせておろおろと主人も叫んだ。
何とむごい事を…。
「あなたは自分の奥さんと子供を殺す気ですか!」
クレイは声を荒げて主人を叱りつけた。主人は目に涙をためて、口をわななかせる。婦人の傍にすがりつく老人も今にも泣き崩れそうだ。
「クレイ」
ニコルが彼に判断を促すように名を呼んだ。今、この診療所の医師はクレイだ。ラディスはいない。
「は、早くロンバート先生の所へ…」
しかしもう既に産気づいており、産道が開いている。移動している時間はない。どうする、どうしたら助けられる。
こんな時、彼ならどうするだろうか…。
ラディス様。
クレイは覚悟を決めて、全員に指示を出した。
「もう時間がありません、診察室に運びます。ニコルさん、お湯を沸かしてシーツを用意して下さい。チェムカさん、今すぐあなたのお母様を呼んできて下さい」
チェムカが慌てて石畳の道を駆けてゆき、ニコルが家中のシーツをかき集め、湯を沸かす為に居室へと消えた。クレイは二人の男性と力を合わせて、婦人を診察室へ担ぎ込んでベッドに寝かせる。
「せ、先生…。あ、赤ちゃんを…。どうか、どうかっ!」
婦人がうめきながらクレイの腕を掴んで懇願した。恐ろしい程に鬼気迫る瞳。必死のあまり、腕がぎりぎりと締め上げられる。彼は額から汗を流しながらそれに答えた。
「大丈夫です!気を確かに、私の指示に従ってください」
婦人は何度も小刻みに頷く。部屋の片隅で呆然と立ち尽くす二人の男性を振り返って、声をかけた。
「ご主人、こちらに来て奥さんの手を取ってあげて下さい」
この状況に完全に飲み込まれてしまった主人は、すぐには動けない。
「早く!」
「は、はいいっ」
素早く両手に消毒をかけながら、目を閉じて深呼吸を繰り返す。
落ち着け。この診療所の留守を預かっているのは私だ。ラディス様が不在の時に、その名に傷をつけるような事があってはならない。何より、婦人とお腹の中の子の命を救わなければ。
私は、医師だ。
クレイの脳裏にラディスの端麗な横顔が浮かんだ。診療中の彼の表情は、はっとする程に美しく、いつも澄んでいる。
必ず、助ける。
ゆっくりと深緑の瞳が開かれる。冷静さを取り戻した真摯な瞳がそこにあった。