051:≪番外編≫酔いの月
「はあ…」
盛大なため息。
診療所の居室で、エンポリオがテーブル席の端に座って頬杖をついて落ち込んでいる。テーブルの中央あたりの席にクレイが座り、小さな紙束と格闘しつつ計算をしながら、彼の様子をちらりとうかがう。
この日は休診日であったが、ここの主がその面目どおりに休む事は今まで一度もなく、今日も朝から書斎にこもり仕事を片づけ昼過ぎからは往診へ出かけてゆく。
「どうしたの?」
外出の準備をしていたリィンがエンポリオの傍へ行き声をかけた。
「こんな事なら、強引にでも奪ってしまえば良かったよ」
「何を?」
エンポリオが椅子に座ったまま身体ごとリィンに向き直り、がしりとその細い両腕を掴む。
「何って!君の処…」
「わあー!!」
咄嗟にクレイは大声を出していた。
「び、びっくりした…。どうしたの、クレイ」
振り返ってクレイを見るリィンは赤茶の大きな瞳を更に大きくして驚いていた。クレイは赤面しながらごまかすように咳払いをして、
「いえ。計算を間違えてしまいまして…。それよりリィン、往診についてゆくのでしょう?ラディス様がお待ちではないですか?」
と告げる。するとリィンはそうだった、と言ってすがりつくエンポリオを宥めて部屋を出て行った。ほっと安堵のため息。
「クレイ。君ってそんな大声出せたわけ?」
「…緊急事態でしたので」
全く、何を言うつもりなのだろうか、この人は。
当の本人は悪びれもせずにクレイの淹れた美味しいお茶が飲みたいな、とにっこりと笑った。ひっそりとため息をついて席を立つ。やっと計算が合いそうだったのだが、一からやり直しである。
◇◇◇◆
リィンはさっきから気分が悪い。ラディスの往診についてゆくのは護衛として当然だが、ここがあまり好きではないのだ。ベイルナグルの北地区にある家の二階。いくつかある部屋の一室を診察室にして、ラディスは先程からいつも通り診察を続けていた。その部屋の隅に佇むリィンはマントのフードをかぶって、苛々しながらその様子を見守る。
彼の向かいに座って診察を受ける女性。金色に脱色された髪は無造作に束ねられており、口元には赤の紅、その瞳はうっとりとラディスを見つめている。胸の広く開いた寝間着はぴったりと彼女の肢体に張り付いていて、しかも透けているのだ。こんなものを着る意味が分からない。
「ねえ先生。あたし、何だか胸が苦しくって。心臓が悪いんじゃないかしら?触ってみて?」
女性が身体をくねらせてラディスの太ももに手を置いた。
「残念ながら健康だ。良かったな。次を呼べ」
ここの患者は全て女性で、その上全員がこんな調子である。ここは夜の町、北地区にある娼館。ラディスは娼婦達の診察をしている最中なのだ。今はまだ昼過ぎで妖しい町は本当の姿を隠してひっそりと眠っている。
彼女達のこの手の冗談を鮮やかに無視して、ラディスは次々と診察を終わらせてゆく。が、リィンはどうしても慣れない。次にやって来た女性の脈をとりながら振り返らずにラディスが言った。
「リィン。患者に向かって殺気を放つな。下に降りて大人しく待ってろ」
「うふふ。可愛い坊やには、ちょっと刺激が強すぎるんじゃなあい?」
「そんなんじゃない!」
「…リィン」
「わ、分かったよ!」
ばたん、と扉を閉めて仕方なく階下へ降りる。一階は酒場になっているがこの時間客は入っておらず、女性達が点々と席に座って昼間から酒を飲んでいた。カウンターの奥にいる女店主がリィンの姿を見つけて笑い声を上げる。
「まーた追い出されたのかい!最初っからここで待ってりゃ良いだろ」
大木のような身体を揺すって可笑しそうに笑い、艶やかな女性達もきゃらきゃらと声を上げて笑った。リィンはむっとしながらフードをとってカウンターの端の席に腰を下ろす。女店主は夜に出す料理の仕込みの為に奥へと消え、すぐに彼女達のうちの一人が隣へやってきた。
「リィン。先生のお仕事が終わるまで、お姉さんが相手してあげるわ」
テーブルに肘をついて、リィンの方へ身を乗り出してくる。大きく前のあいたブラウスから胸の谷間をのぞかせて、これまた金髪に脱色した巻き髪を手でかきあげた。顔にはそばかすが散らばっているが茶の瞳は澄んでいて、整った顔立ちをしている。まだ二十代前半だろう。何故、こんな場所でこんな仕事をしているのだろうか。リィンは無言で彼女を無視した。
「…坊やはラッキーだったわね。先生に拾われて」
「え?」
「先生は私達の救世主よ」
リィンが顔を向けると、彼女はにっこりと笑って酒の入った瓶をどんとテーブルに置いた。
「まあ一杯やりなさいよ。お姉さんがおごってあげる」
「…これ、お酒だろ?」
すると女性達がまた一斉に笑い始めた。
「いやーん。可愛い!リィン!あたしが男にしてあげるわ」
「駄目よお。リィンの最初は私よう」
「一度はイリアス族に抱かれてみたいわあ」
「ちょっと!何言ってんだよ!」
リィンは耳まで真っ赤にしながら彼女達を振り返って叫び、隣に座っている女性がまた顔を近づけて、楽しそうに囁いた。
「坊やの事、からかってんのさ。子供みたいな事言うから」
「ぼ、僕は別に!」
彼女は妖艶な笑みでリィンを見つめたまま瓶を傾け、グラスにこんこんと琥珀色の酒を注ぎ、それを目の前に差し出した。
「さあ、男を見せな。リィン」
う、と酒の入ったグラスを睨む。
「あっはは!無茶よサンドラ。坊やにはまだ早いわ」
「お母さんのおっぱいのが良いものねえ!」
隣に座るサンドラが追いうちをかけるように耳元で囁く。
「先生にだって、子供扱いされたくないんでしょ?」
リィンは向かっ腹を立て、グラスを鷲掴みにして一気に琥珀色の液体を喉の奥へ流し込んだ。女性達から歓声が上がる。酒が喉を通って胃に落ち込んでゆき、かっと燃えるような熱さが広がった。最後まで飲み干して、激しく咳き込む。どっと笑い声が起こった。
「何だ、これ。ま、まず…」
たまらずに水を飲もうと席を立った。足が床についたはずだが、ぐにゃりと心許ない。
「あ、あれ」
ぐわんと世界が一回転した。まるで宙に投げられた気分だ。すると今度はむにゃりと柔らかい感触に包まれ、見上げるとそばかすの散った顔が見えた。サンドラが妖しく笑っている。どうして笑っているのだろう。そう思っていたら何故だかリィンも可笑しくなってきた。
「大丈夫よ、お姉さんが優しく教えてあげる…」
何を?
リィンはサンドラによってずるずると二階に連れ込まれてしまった。
◇◇◆◆
「あはは。く、くすぐったいよ」
ベッドに仰向けに寝かせて、慣れた手つきで靴を脱がしマントも外してゆく。サンドラがリィンに覆いかぶさり、彼女の金の巻き髪が顔にかかっているせいでリィンがくすぐったそうに笑っていた。
「ねえ、何してるの」
リィンがへらへら笑ってサンドラにたずねる。彼女はリィンの緑のベストを開いて、すでにブラウスのボタンを外しにかかっていた。
「暑いでしょう、リィン。脱がせてあげるわ」
「んん、熱い…。あは、よく分かるね」
白い肌が酒のせいでうっすらと赤く染まっている。まあ、何て綺麗な肌かしら。
「サンドラ。悪戯がすぎるぞ」
振り返ると戸口にラディスが立っていた。鞣革の大きな鞄を肩に担ぎ、呆れたような表情でこちらを見つめている。サンドラは悪戯っ子のように舌を出して、酔っ払っているリィンをベッドに置いて彼に近づく。
「あらぁ先生。もう診察が終わったの?ちょっと早すぎるわ」
「子供に酒なんか飲ませるなよ」
「だってさ、あんまりにも透明で綺麗なんだもん。汚してやりたいじゃない?」
意地悪な笑みを浮かべて背の高いラディスを見上げる。彼はサンドラを見おろして無言で微笑んだ。
「サンドラ!どこにいるんだい!?酒場の掃除はあんたの当番だよ!!」
女店主の胴の入った声が階下から響いてきた。サンドラは眉をひそめ、しまった、と言って慌てて部屋を出てゆく。
「あ、先生!その坊や連れて帰ってね!続きはまた今度ってちゃんと言っておいて!」
リィンはまだ笑いながらベッドに大の字になっていた。ラディスは仕方なく傍に行き、リィンを起こしにかかった。簡単に想像がつく。女達の安い挑発に乗せられたに違いない。既に綺麗な鎖骨が露わになっており、胸を隠している布まで見えてしまっていた。
…危なっかしい。未遂で良かった。
「リィン。起きろ、帰るぞ」
声をかけてブラウスのボタンを留めてゆく。リィンはベッドにだらしなく寝そべって、されるがままだ。
「んー。うん?ラディス?ふふ、何してんのさ」
そう言って、あははと笑った。ラディスは苦笑交じりに呟く。
「随分楽しそうだな」
力なく伸びていたリィンの両手が、急に動いてラディスの胸倉をむんずと掴んだ。リィンの怪力につんのめるようにして引き寄せられる。何とか肘をついてリィンとの距離を保った。至近距離で、赤茶の瞳がラディスを睨んでいる。リィンが酔っていなければ、赤面してすぐに離れてしまうような距離だ。
「ラディス!」
「お前、相当酔ってるな」
「僕は、こどもじゃ、ない!」
「分かってる」
「分かってない!」
「…絡むなよ」
「絡んでない!」
「お前なあ…」
「はあ。綺麗だ…」
透き通るような白い頬がほのかに桃色に色づいている。口元に笑みを浮かべ、こちらを見つめる瞳はどこか夢見心地のようだ。柔らかな栗色の髪を梳いてやると、リィンは満足そうに目を細めた。
「ラディス」
「ん?」
「好きだ…」
リィンがふにゃりと笑う。
「僕ね、ラディスが好きだよ…」
ラディスはリィンを見つめて微笑んだ。
「…知ってる」
それからリィンの形の良い柔らかな唇に、自分のそれを重ねた。ゆっくりと確かめるように優しく口づける。
「…ラディ…ス…」
薄く開いた隙間から舌を差し入れると、何の抵抗もなくリィンは彼を受け入れた。
「ん…う」
サンドラの気持ちは分からなくはない。
リィンはいつも誰に対しても真っ直ぐにぶつかってゆく。何があっても汚れずに気高い。
時折、強引にでも自分のものにしたいという激しい欲望に負けそうになる。
口づけが徐々に深く、熱を帯びてゆく。
リィンがたまらずに吐息を漏らす。
「…ン…っん」
…まずい。これ以上は。
ゆっくりと顔を離すと、リィンは切なそうに眉を寄せて潤んだ瞳で見つめてくる。色づいた滑らかな頬を優しく撫でると目を閉じて子供のように微笑んだ。
「ふう…。気持ち良い…」
自らの自制心は鉄壁であるとの自負を持つ彼ではある。が、ここまで無防備にされると正直参る。
ラディスは瞳を伏せてため息をこぼした。
「…リィン。俺を殺す気か」
◇◆◆◆
「ど、どうしました?」
診療所の玄関からラディスの呼ぶ声がして行ってみると、彼は片腕でリィンを抱きかかえており、反対の手でいつもの大きな診療鞄とリィンの靴を持っていた。
「クレイ、こいつを頼む」
そう告げてリィンをクレイに預けてくる。クレイは慌ててその華奢な身体を両手で抱えた。リィンはうっすらと目を開けて、にへらと笑った。
「あ。クレイだ」
「リィン!?どうしたんです?」
「女達に酒を飲まされたようだ。俺はまだ往診が残っている。後は頼むぞ」
「ラ、ラディス様」
彼は振り返らずに、すたすたと石畳の道を歩いて行ってしまった。クレイはリィンを抱きかかえたまま、呆然と立ち尽くす。
「…う」
「え?」
「気持ちわる…」
「ええ!?」
◆◆◆◆
瞳を開けると見慣れた天井が見えた。あれ…北の町に居たはずじゃなかっただろうか。どうして診療所の寝室で寝ているのだろう。あたりは薄暗い。寝がえりを打つと、胸がむかむかとして気持ちが悪くなる。そこではっとした。そうだ、サンドラに言われるまま酒を一気飲みした…。それから…。
覚えて、ない。
慌ててベッドから飛び降りて、よろめきながら暗い階段を下りて居室の扉を開いた。室内の灯りに一瞬目がくらむ。
「リィン。大丈夫ですか?」
クレイの声。彼はテーブルの向こう側に座っており、腰を浮かせてリィンを見つめている。テーブルには茶器が並んでいて夕食後の一服をしていたようだ。こちらに背を向けてラディスが手前に座っている。
「う、うん。ちょっと気持ち悪いけど…。僕、どうしてた?」
クレイが胃薬を飲んだ方が良いですね、と言って席を立った。リィンはどうして良いか分からずにその場に棒立ちになる。
「そんなところ突っ立ってないで座ったらどうだ」
ラディスが背を向けたままリィンに声をかけた。リィンは遠慮がちにその隣に腰を下ろす。
「…僕、寝ちゃった…?」
彼はちらりとリィンを見やり、カップを傾けながら答えた。
「ひとしきりやらかした後な」
「ええっ」
「気にするな。クレイがゲロまみれになっただけで、俺は平気だ」
リィンは顔を真っ青にして、口をぱくぱくさせる。
「ラディス様、そう苛めては可哀そうです」
クレイが苦笑しつつグラスに入った水と胃薬をテーブルに置いた。
「ク、クレイ!ごめん!!僕…」
「それからなあ、お前は…」
「わああ!も、もう良いよっ!分かったよ!僕が悪いんだっ」
青くなった次は顔を真っ赤にさせて、リィンは両手で耳を塞いだ。それをラディスが笑いながら見つめている。
その光景を見てクレイは心の底から、ほっとした。
本当はずっと自責の念にさいなまれていた。ラディスの護衛を、とリィンに頼んだのは自分だ。あの時は先の事まで考えずに、とにかく彼の事が心配だった為にそうしてしまった。しかしよく考えてみれば分かる事だった。ラディスにとって、自分の命を救ったイリアス族に、しかもその恩人の娘に、危険な仕事をさせるという事がどれ程心を痛める事なのか。自分は何という事をしてしまったのだろうかと頭を抱えた。けれど…。
リィンはラディス様や私が思っていた以上に強かった。
気高く美しい、イリアスの民。
やっと彼の隣に並ぶ女性が現れたのだ。
今では自分のしでかした事を、ひそかに良くやったと褒めている。
この先の将来が劇的に好転したわけではない。彼の敵は相変わらず手強く、あらゆる戦いはこれからも間断なく続けられるだろう。彼は全てを百も承知で、悠々と先を見据えている。
今なら想像できる。
その隣には、いつもリィンがいるのだろう、と…。
【番外編・完】
…ああ、甘い。
第5部の始まりはリィン、ラディス、クレイをそれぞれ動かしてゆきます。徐々に終わりに向かって走り出します。
きちんと書き切れるか、それが今後の課題。
いつも読んでくださる皆様へ、最大の感謝とお礼を。