050:茨の道に咲く花
ざわざわと人の話し声がさざ波のように耳に届く。ステージは淡く輝いていて、今は一人の男性が弦の張った楽器を爪弾いていた。暗がりのカウンターで酒の入ったグラスを傾ける。正直、まだ動けそうにない。敏感な彼の嗅覚は完全に麻痺しており、その他の五感もそのせいでうまく働いていない。無理に動こうとすると目眩を起こして倒れるだろう。
「随分久しぶりじゃない。あんたがここで休んでるなんて。今夜はあの可愛い護衛は連れてないの?」
すぐ傍で妖艶な声が聞こえた。声の主は腕をするりと彼の首に絡めて、隣の席につく。
「ふふ。ネルティエの歌はこの後よ。ラディス」
グレイアがラディスの顎に長い指を這わせる。彼はグレイアを見て薄く笑った。
ここまで自分が参るとは計算外だった。
これ以上傍に置いておく事はできない。ただでさえ危険の多い自分の傍にいたら、あれはすぐに壊れてしまうだろう。そんな事は、絶対にあってはならない事だ。
ティルガとシルヴィの娘。何とかしてあるべき場所へ戻さないと。そう思っていた。
いけないと分かっていたのに、ずるずると傍に置いてしまった。そのせいで嫌がらせを受け、やっかいな事に巻き込まれて怪我をした。それなのにあいつは、他人の事ばかり心配している。
ずっと変わらずに、真っ直ぐに俺を見つめてくる。
愛おしい。
…限界だ。
「ラディス・ハイゼル様」
給仕の若い男がラディスとグレイアの背後に立って一礼する。グレイアがラディスに寄り添ったまま、その迫力のある黒い瞳で相手を睨みつけた。相手はびくついて、小さな声で要件を告げる。
「支配人が呼んでおります。お越し願えませんか」
ため息をつきながらゆっくりと席を立つ。隣のグレイアが名残惜しそうな表情を向けて言った。
「弱ってるあんたって、色っぽい」
給仕の男について歩き、一番奥まった場所にあるボックス席に通された。他の客席より高い位置にあり、正面のステージが良く見える。革張りの豪華なソファに黒い男が長い足を組んで座っていた。相変わらずの禍々しい気配。ラディスはそれだけで気持ちが悪くなった。
「おい、その殺気を何とかしろ」
どっかりと向かいの席に腰を下ろす。右側にステージがあり、黒い男は闇の中でにやりと笑った。ゆっくりと姿勢を起こし、鋭く尖った面立ちが灯の中に浮かび上がる。
「ラディス。お前に借りが出来たようだ。その強さは相変わらずのようだな」
「お前の教育がなっていないからこうなる」
「あれは雑魚だ。放っておいてもすぐに消える」
現にお前が消してくれただろう、と言ってこちらを見る。ラディスはこの男がどちらかと言えば苦手だった。シーカーは自分と似ている部分があるだけに、やりづらい。
「もうすぐネルティエのステージだ。ここで聞いていけ」
「まだ付きまとっているようだな。案外諦めが悪い奴だ」
「あれは俺のものにする」
「…ネルティエが困っていたぞ。お前がたくさんの花やら何やら勝手に送りつけてくるとな」
「そのうち俺を愛すようになる」
シーカーはすっと目を細めて笑った。この男は徹頭徹尾、不遜で俺様な態度である。自分の間違いに気付かない。
「シーカーよ、人を慈しむのと囲うのとは全くの別物だぞ」
「どういう意味だ」
「そのままの意味だ。俺は失礼する。こんなもんで借りを返されたくはないからな」
何とか普通に歩けるまでに回復した。ネルティエの歌が聞けないのは残念だが、こんな面倒な奴の相手をしたくはない。店を出て夜の喧騒の中を歩き出した。
人気のない石畳の道を歩いている時に気付いた。彼にしては反応が遅かった。もう少し手前で気づいていれば、わざわざこんな暗い道を通らなかったのだが…。ラディスは心の中で舌打ちした。
一日に二度もこんな目に遭うとは。今日はとことんついてない。
ぴたりと足を止めて、重たい鞄をどさりと降ろし、腰に差した剣を引き抜く。
「早くしてくれ。俺はもう家に帰りたいんだよ」
暗闇に向かって声を投げた。すると途切れた塀の向こうから、ぞろぞろと男達があらわれる。全員目から下を、布で覆って顔を隠していた。十人以上はいるだろうか。
「ラディス・ハイゼルだな。お前は穢れている。危険な思想で民衆を洗脳するなど許しがたい。穢れは粛清されなければいけない。よって、お前に天誅を下す」
おかしいと思っていた。リィンに使われた薬は、一般人には手に入らないものだった。あの阿呆共に入れ知恵をした奴らがいるのだ。医者ならば、薬は簡単に手に入る。
「随分と暇なんだな。大人しく祈りだけ捧げてりゃ良いだろうに」
「神の天罰を受けろ!」
叫びながらわらわらと襲いかかって来る。ラディスは無神論者だったが、心の中で神に祈った。
リリーネ・シルラよ。頼むから、俺の邪魔をしてくれるな。
◇◇◇◆
膝に手をついて荒い息を整える。もうすぐ北地区だ。リィンは手の甲で汗を拭って、また走り出そうとした。ちりり、と首筋に緊張が走る。何だ。耳を澄ますと、鉄がぶつかり合う時の高い金属音がしているのに気づいた。全身に鳥肌が立つ。嫌な予感がする。顔を上げて辺りを見回し、その音が目の前から続いている塀の曲がり角の先から聞こえている事を確かめて走り出した。
塀の切れ間が見え、角を曲がる。道の先に男達がいて、それぞれ手に剣を持っているのが見えた。誰かを囲んで寄ってたかって攻撃している。リィンの瞳が深紅に揺らぎ始め、人垣の先にいる人物を確認して、その名を叫んだ。
「ラディス!」
すぐ手前にいた男を吹き飛ばして駆け寄る。ラディスの足元には三人の男がうめき声を上げてうずくまっていたが、彼の身体は傷だらけで、こめかみから真っ赤な血が流れていた。リィンの全身から血の気が引いた。氷のような冷たい感覚が襲う。ラディスの前に立ち、布で顔を隠した男達を睨みつけた。彼らが反応を起こす前に、リィンの『力』が爆発する。
「ぐう…」
気味の悪い声を上げて、男達が耐えきれないといった様子で地面にひれ伏してゆく。石畳の敷石がびしりと音を立て、盛大に亀裂が走る。想像を絶する程の強い『力』が発動している。全員が地面に張り付いて、指先一本も動かせないでいるようだ。口から泡を吹いている者もおり、皆とっくに気絶していた。
「リィン、もうよせ。死ぬぞ」
ラディスがふらつきながら声をかける。リィンは肩を激しく上下させ、目の前を凝視したまま固まっていた。怒りに我を忘れている。
「リィン!」
細い腕をとり揺さぶると、リィンはやっと『力』をおさめてラディスに向き直った。
「ラディス!」
ぐらりと長身の身体が傾いて、慌ててその身体を抱きとめ、ゆっくりとその場に座りこんだ。ラディスを壁にもたれさせる。彼は目をつぶったまま苦しそうに呼吸をしていた。
「ラディス、ラディス…」
おろおろと彼の名を呼ぶ。こんなに傷ついて苦しむ彼を見たのは初めてで、どうしたら良いかわからなかった。
「ごめん…ごめんね。僕、あんたの護衛なのに」
彼の身体はぐったりとして熱い。熱があるのかも知れない。泣きながらラディスを抱き締めた。
何て、脆い。
「ひどい事言って、ごめん…」
リィンは鼻をすすり、抱き締めている腕に力を込めた。
「あんたを護ると言ったのに、僕はあんたに甘えてばっかりだった…」
「…リィン」
彼のくぐもった声が聞こえた。
「何?」
「少し力を緩めてくれ…痛い」
「ご、ごめん」
慌てて腕を離し、ラディスの顔をのぞきこむ。額に薄茶色の髪が張り付いて、そこらじゅうが泥で汚れていたが、綺麗な鼻筋と薄い唇は普段通りに美しい。青い瞳がじっとリィンを見つめている。
ああ、もうどうでも良いや。
迷惑でも何でも色んな事すっ飛ばして、僕はラディスといたいだけなんだ。
リィンの瞳からまた新しい涙が流れた。
「僕、もう離れてるのは嫌だ。あんたが駄目だと言ったって、傍にいる…」
ラディスの両肩に置かれた小さな手が、ぎゅっと服を掴む。声が震えている。ラディスは痛む腕を動かして、リィンの頬に触れた。温かい。
「ラディス…。僕…ずっと、ラディスといたい」
ゆっくりと彼の顔が近づき、唇が重なった。
その温もりを確かめるように、何度も優しく口づけられる。リィンの全身は雷に打たれたように痺れてゆく。
柔らかい…。頭の片隅で、ぼんやりと思った。
「…ラディ…っん」
彼の名を呼ぼうと口を開いた時、一層深く口づけられた。頭の中が真っ白になり、身体の芯がかあっと熱くなってゆく。
息が…。
「…ン、」
倒れそうになる寸前に、やっと唇が離れた。二人の震える呼吸が重なる。リィンが伏せていた瞳を上げると、ラディスの視線とぶつかった。一瞬の微笑みの後、彼は気を失ってしまった。
その後心配したクレイが呼んでいた保安部隊がやって来て、ラディスを襲った男達は連行された。
彼らはルーベンの信者であったが、その事で司教にまで追求の手が及ぶ事はなかった。取り調べが始まる前に、ルーベン司教は書簡で今回の事件は一部の暴徒化した信者の暴走によるものであり、それによって一市民が傷ついてしまった事は誠に遺憾であると通達して来たのだ。リィンは憤慨したが、これが向こうのやり口なのだとラディスもクレイも冷静だった。実際にルーベンの知らない所で起こった事かもしれないし、どちらにせよ何か決定的な証拠がない限りはどうにもならないのが現状だ。闇は深くて、存外に、賢い。
それからリィンは診療所に戻り、ラディスは二日間だけ寝込んだ。溜まりに溜まった疲労と寝不足の上、熱も下がらなかった為だ。その間診療所はクレイが代診して休みにしないで済んだ。リィンは知らなかったが、クレイ自身も医師の資格を持っていたのだった。
◇◇◆◆
「ラディス」
「ん」
研究室で彼は複数の秤を使って薬品の調合をしていた。病み上がりだというのに、すぐに仕事を始めてしまった。最初にクレイが行って説得したが、がっくりとうなだれて帰ってきた。次にリィンがラディスの説得に試みる。
「もう寝たら?」
「クレイに言われて来たな。あいつは心配性なんだ。自分の体調ぐらい分かってる。俺は医者だからな」
顔も上げずにさらりと言う。リィンはため息をついて彼を見据える。瞳が深紅に揺らいだ。
ラディスの身体は否応なしに、椅子に貼り付けられるような格好になった。リィンは『力』を発動させたまま、ゆっくりと彼に近づく。
「あんたを説得なんて出来ないからね。力づくで従ってもらう。…もう寝たら?」
ラディスは押さえつけられた身体を何とか動かして、顎を引いて頷いた。『力』から解放される。
「…お前は横暴すぎるぞ。それにしても『力』の使い方も上手くなったな」
「横暴なのはお互い様だろ。ちょっと、何また始めようとしてるのさ」
机に両手をついて、ラディスを睨みつける。すると彼は片腕で頬杖をついてリィンを見つめ返してきた。う、とリィンが怯む。彫像のような美しい顔は、ずるい。
「お前が添い寝してくれるんなら、考えてやっても良い」
一瞬でリィンの顔が真っ赤に染まった。ラディスは目を細めてにやりと笑う。
「か、からかうなよっ!もう知らないよ!」
慌てて部屋を出てきてしまった。ずんずんと廊下を歩く。
リィンはあの日の出来事は夢だったのではないかと思っている。そうでなければおかしい。彼がリィンにキスをするなんて、意味が分からない。それからラディスの態度が変わったわけではないし、寝室も今まで通り同じにしているが変わった事は何一つない。彼は大人だ。今はそれを実感として感じている。
それにラディスにはユマがいるんだから、僕のはからかっているだけだ。
そう思うと少し気持ちが沈むが、もうそんな事はどっちでも良かった。あれこれ考えたって意味はない。
ユマもラディスも優しくて、強い。きっと何があろうと理不尽な差別には屈しないだろう。だからこそリィンも逃げてはいけないのだと思う。ラディスの元から、この町から、逃げずにいるのだ。だって二人はイリアス族の自分を、迫害の嵐から守ろうとしてくれているのだから。
僕は、もっともっと強くなる。約束した事を命をかけて守ると誓う。もう迷わない。後悔したくない。
この感情をリィンは大事にしたいと思った。楽しくて幸せな事ばかりではないが、辛くても知らないよりはずっと良い。これからもきっと悩んだり泣いたりするだろう。でももう、覚悟は出来た。それに何より…
僕は、ラディスが好きだ。とても…。
これが、全ての真実。
【第四部・完】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
やっとこ、ここまで進展出来ました。
こんなに長く続いてんのにやっとキス一つですか!回りくどい!と、我ながら思います。
しかしだからこそ、重みがある。
唇を重ねるだけではなく、心が重なる必要があったのです。
次回は小休止でらぶーであまーな話を一つ挟みたいなと。そしてR15って、どの範囲!?と思いつつ。
いつも立ち寄ってくださる皆さまに、感謝を。